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あなたを許す理由など、どこにもありませんでした

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/09/03

連載版(別作)の告知あります。詳しくない後書きにて

 クラリッサ・エーヴェルトには、三年前から婚約している相手がいる。名はジェラルド・バルツァー。クラリッサと同じ十八歳で、王国でも古い歴史を持つバルツァー侯爵家の嫡男だった。対するエーヴェルト家は伯爵家であり、爵位だけを比べれば明確にバルツァー家の方が上になる。三年前、十五歳だった二人の婚約が決まった時には、親しい令嬢たちから随分と羨ましがられたものだった。将来は侯爵夫人になるのだと言われれば、クラリッサ自身も悪い気はしなかったし、家同士で決められた婚約とはいえ、ジェラルドは礼儀正しく、同年代の令息たちの中でも落ち着いて見えた。恋に落ちて始まった関係ではなかったものの、これから時間をかけて互いを知り、いずれ穏やかな夫婦になれれば十分だと思っていた。


 婚約してからの三年間も、二人の関係は決して悪くなかった。誕生日には贈り物を交換し、夜会では婚約者として隣に立ち、家同士の付き合いがある日は自然と同じ時間を過ごした。ジェラルドが馬術大会へ出場した時にはクラリッサが応援へ行き、クラリッサが王都の慈善行事に参加して帰りが遅くなった時には、ジェラルドが馬車まで送ってくれたこともある。強い愛情を口にしたことはなかったが、貴族の婚約としては十分なのだろうとクラリッサは考えていたし、自分も将来彼の妻になる者として必要なことを学んできた。バルツァー家の歴史や領地について調べ、侯爵夫人となった際に関わることになる家々の名前を覚え、社交についても以前より深く学んだ。爵位が一つ上の家へ嫁ぐのだから、今までと同じつもりではいけないのだろうと、クラリッサは素直にそう思っていた。


 十八歳となった今では、そろそろ結婚について具体的な話が進み始める時期に入っていた。そのため、ある日の午後にジェラルドから話があると呼び出された時も、クラリッサは結婚に関する相談だろうと思っていた。式の日取りなのか、結婚後に住む屋敷についてなのか、それとも婚礼衣装について何か希望でもあるのか。そんなことを考えながら、王都の喫茶店に設けられた貴族向けの個室へ入ったのだが、向かいに座ったジェラルドが最初に口にしたのは、そのどれでもなかった。


「婚約を解消してほしい」


 クラリッサは手にしていたティーカップを静かに受け皿へ戻した。聞き間違いかと思ったわけではない。ジェラルドの表情を見れば、冗談で言っているわけではないことくらい分かる。ただ、あまりにも唐突だったため、驚きより先に理由を知りたいという気持ちが浮かんだ。


「理由を聞いても?」

「他に結婚したい女性ができたんだ。君との婚約を残したまま、その人との関係を深めるような真似はしたくない。だから先に、君との婚約をきちんと終わらせるべきだと思った」

「その方は、どなたなの?」

「アデライド・グレイヴ公爵令嬢だ。まだ正式な縁談にはなっていないが、何度も話しているし、俺の気持ちも伝えてある。君との婚約を解消してから、改めて公爵家へ申し入れるつもりだ」


 クラリッサもアデライドのことは知っていた。グレイヴ公爵家の次女で、年齢は二人と同じ十八歳。夜会で何度か言葉を交わしたこともある。美しく教養があり、社交界で悪い噂を聞いたこともない女性だった。そして何より、公爵令嬢である。家格だけを比べれば、伯爵令嬢であるクラリッサより遥かに上だった。正式な縁談すら始まっていない段階で三年間続いた婚約を終わらせようとしていることについては、随分と思い切ったことをするものだと思ったものの、ジェラルドがそこまでしてアデライドとの結婚を望んでいるのなら、クラリッサが引き留めても仕方がない。自分と結婚したくない男性を無理に繋ぎ止め、そのまま夫婦になったところで幸せになれるとは思えなかった。


「分かりました。婚約解消をお受けします」


 ジェラルドは少し驚いたようにクラリッサを見た。


「……本当にいいのか?」

「いいわけではないわ。三年間、この婚約を前提に過ごしてきたのだから。でも、他の女性と結婚したいと思っている人を無理に引き留めて、そのまま夫婦になる方が嫌だもの」

「そうか。すまない、クラリッサ。こんなことを言える立場ではないのは分かっているが、君なら最後には理解してくれると思っていた」


 その言葉とともに、ジェラルドは目に見えて安堵した。クラリッサが泣き出したり、怒鳴ったり、婚約解消を拒んだりする可能性も考えていたのだろう。それ自体は理解できる。ただ、その後に続いた言葉を聞いた時、クラリッサの胸にあった小さな痛みは少し違うものへ変わった。


「もちろん、こちらから婚約を解消する以上、必要な補償についてはきちんとする。それに、三年間がすべて無駄になったわけではないと思ってほしい。君はこの三年間、バルツァー家の婚約者として多くの場所へ出たし、将来侯爵夫人になる者として学んだことも多いだろう。伯爵令嬢のままでは得られなかった経験だってある。それは婚約がなくなっても君に残るものだから」


 クラリッサはしばらく黙ってジェラルドを見つめた。本人に悪意はないのだろう。むしろ、婚約を破棄されるクラリッサを慰めるつもりで言っているのかもしれない。だからこそ、その考えがよく分かった。ジェラルドは、自分との婚約がクラリッサにとって恩恵だったと思っている。伯爵令嬢であるクラリッサを、名門侯爵家の婚約者として三年間扱った。将来侯爵夫人になるための教育を受け、格上の家々と付き合う機会も得た。最後に婚約がなくなったとしても、クラリッサは十分に得をしている。言葉にすれば、おそらくそういうことなのだろう。


「そうね。学んだことまでなくなるわけではないもの」

「分かってくれて助かるよ。正式な手続きについては、こちらから家にも話をする。君に余計な迷惑がかからないようにはするつもりだ」


 その言葉を最後に、二人の話は終わった。帰りの馬車に乗ってからも、クラリッサは泣かなかった。三年間も婚約していた相手に別の女性を選ばれたのだから、もっと深く傷つくものだと思っていた。けれど実際には、悲しみより先に疲れたという感覚の方が強かった。ジェラルドを嫌っていたわけではないし、これまで一緒に過ごした時間が嫌だったわけでもない。ただ、彼の妻になるために努力してきた三年間を、最後になって「侯爵家から与えられた経験」のように言われたことで、何かが急速に冷めてしまった。


 その後、婚約解消の手続きは両家の間で進められた。クラリッサが話し合いへ出ることはなく、本人の意思確認を済ませた後は家同士で条件を整理し、一月もしないうちに婚約は正式に解消された。それに伴い、結婚を前提として進められていた両家の計画も見直されることになった。エーヴェルト伯爵家とバルツァー侯爵家は、この三年間で複数の共同事業を始めていた。エーヴェルト領から商品を運び、バルツァー領の市場へ流すものもあれば、反対にバルツァー領で生産された品をエーヴェルト家が長年築いてきた商業網に乗せるものもある。まだ契約段階に入っていない事業については白紙に戻され、将来両家が親族になることを前提としていた資金計画も中止されたが、クラリッサにとってはごく自然な話だった。婚約したから始まったものを、婚約がなくなったから元へ戻す。それ以上でもそれ以下でもない。


 ところが、一か月ほど経った頃から妙な噂を耳にするようになった。最初に聞いたのは、王都で開かれた小さな茶会だった。親しい令嬢から、バルツァー侯爵家が王都に所有していた別邸の一つを手放すらしいと教えられた。その時は大して気にも留めなかったものの、その後も似たような話が続いた。馬車や馬を何頭か売ったらしい。予定されていた大規模な夜会が取りやめになった。使用人の数を減らした。所有していた土地の一部を処分するらしい。もちろん、それだけで侯爵家が没落したわけではない。バルツァー家は依然として侯爵家であり、広大な領地も持っている。それでも、これまで社交界で見せてきた華やかさとは明らかに違う動きだった。


 クラリッサは少し不思議には思ったものの、わざわざ事情を調べようとはしなかった。もう自分には関係のない家である。ジェラルドがアデライドと無事に結婚できたのかどうかについてさえ、積極的に知りたいとは思わなかったし、婚約を解消した以上は互いに別々の人生を歩けばいいと思っていた。


 そんなある日、ジェラルドから一通の手紙が届いた。どうしても一度だけ話がしたいと書かれており、最初は断ろうかとも思ったが、一度だけという言葉に引っかかり、クラリッサは以前婚約解消を告げられたのと同じ喫茶店を指定した。


 久しぶりに会ったジェラルドは、以前より少し痩せていた。服装は変わらず整っていたものの、三か月ほど前まで見せていた余裕のようなものがない。クラリッサが席につくと、彼は形式的な挨拶を長々と続けることもなく本題へ入った。


「婚約を、もう一度結び直してほしい」


 クラリッサは驚かなかった。ここ最近聞いていた噂と、今日のジェラルドの様子を見れば、何となく予想はしていた。


「アデライド様とのお話は?」

「なくなった。グレイヴ公爵から断られたんだ。俺が考えていたほど簡単な話ではなかった。それに、婚約を解消した後で初めて知ったことがある。バルツァー家の財政は、俺が思っていたより遥かに悪かった。領地からの収入は何年も前から減っていたし、以前の事業で作った借金も残っている。それでも侯爵家としての付き合いを維持しなければならないから、支出だけは簡単に減らせなかったらしい。俺は何も知らなかった。屋敷もあったし、使用人も大勢いた。夜会だって普通に開いていたから、当然うちには金があると思っていた」


 クラリッサは静かに聞いていた。これまで耳にしてきた噂を考えれば、驚きはしても疑う理由はなかった。


「それと私との婚約に、何の関係があるの?」

「君との婚約が決まってから、エーヴェルト家との取引が増えた。共同事業だけじゃない。いくつかの事業には君の家から資金も入っていたらしい。俺たちが結婚すれば、いずれ両家は親族になる。その前提があったから進められていた話が多かった。婚約がなくなって、それが一気に止まった。それから知ったんだ。三年前、この婚約を望んだのはバルツァー家の方だった。君の家には金がある。うちには家格と土地がある。だから互いに足りないものを補える婚約だったらしい」


 クラリッサは何も言わず、三年前のことを思い返した。自分は名門侯爵家との婚約を与えられたのだと思っていた。伯爵令嬢である自分が格上の家へ嫁げる。だから侯爵家に相応しい女性にならなければならないと考えて、できる限り努力してきた。ところが実際には、バルツァー侯爵家にもこの婚約を必要とする理由があった。それも、名誉や格式ではなく、もっと現実的な理由だった。


「最初から、エーヴェルト家のお金が目的だったのね」

「家同士の話としては、そういう面もあったと思う。でも、俺は知らなかった。本当に知らなかったんだ。俺自身は金のために君と婚約していたわけじゃない」

「ええ。あなたは知らなかったのでしょうね。だからこそ、あの日あんなことを言えたのだと思うわ。侯爵家の婚約者として三年間過ごせたのだから、私にも得るものがあったはずだと。あなたは本当に、自分との婚約を失えば私の方が困ると思っていたのでしょう?」


 ジェラルドの表情が強張った。すぐに否定しなかったことで、クラリッサには十分だった。爵位だけを見れば侯爵家が伯爵家より上なのは事実であり、ジェラルドも幼い頃からそういう世界で育ってきた。ただ、それを理由に自分との婚約を一方的な恩恵のように考えていたことまで受け入れる必要はない。


「でも、今はその逆になった。エーヴェルト家との関係を失って困っているのはバルツァー家の方。それで、もう一度私と婚約したいの?」

「違う。それだけじゃない。君を失ってから分かったんだ。俺は、君がずっと隣にいることを当たり前だと思っていた。だからアデライドに惹かれた時も、君との三年間を簡単に手放してしまった。でも今になって、どれだけ軽率だったのか分かった。家の事情がなくても、俺は君に謝りたかったし、もう一度話をしたいと思っていた」


 その言葉がすべて嘘だとは思わなかった。ジェラルドなりに後悔しているのだろうし、失ってから初めて気づいたこともあるのかもしれない。けれど、クラリッサにはどうしても聞いておきたいことが一つだけあった。


「もし、エーヴェルト家にお金がなかったとしても、あなたは今日ここへ来た?」


 ジェラルドはすぐには答えなかった。ほんの少し口を開き、それから閉じた。その沈黙を見て、クラリッサはやはりそうなのだと思った。ジェラルド自身にも分からないのだろう。クラリッサを失ったから戻ってきたのか。アデライドとの縁談がなくなったからなのか。侯爵家の財政事情を知ったからなのか。おそらく、そのすべてが混ざっている。


「無理に答えなくていいわ。今すぐ『お金なんて関係ない』と言われる方が、私は信じられないもの」


 クラリッサは少し冷めた紅茶へ口をつけながら、三年間を思い返した。楽しかったことはいくつもあった。誕生日にもらった髪飾りは嬉しかったし、ジェラルドが馬術大会で優勝した時には自分のことのように喜んだ。慈善行事の帰りに疲れていたクラリッサを気遣い、馬車まで付き添ってくれたことも覚えている。ジェラルドが最初から最後まで悪人だったとは思わないし、三年間のすべてが嘘だったとも思わない。ただ、それとこれとは別だった。楽しかった思い出があるからといって、一度自分を捨てた男性と再び婚約しなければならない理由にはならない。


「クラリッサ。もう一度だけ機会をくれないか。すぐに許してほしいとは言わない。俺が間違っていたことは分かっている。時間がかかってもいい。どうすれば許してもらえるのか、それだけでも教えてほしい」


 クラリッサは少し目を伏せた。その問いについては、すでに何度も考えていた。婚約を解消した直後は、これでよかったのだと思った。それでも三年間も共に過ごした相手である。時間が経つにつれて、何か一つくらい、ジェラルドを許してもいいと思える理由があるのではないかと考えることもあった。楽しかった日を思い出した。優しくされたことも思い出した。彼が根っから悪い人間ではないことも分かっている。それでも、答えは変わらなかった。


「私も探したの。三年間も婚約していたのだもの。何か一つくらい、あなたを許す理由があるのではないかと思ったわ。一緒にいて楽しかったこともあるし、優しくしてもらったこともある。それを一つずつ思い出していけば、もう一度あなたを信じてもいいと思えるのではないかって」


 クラリッサはそこで一度言葉を切り、目の前のジェラルドをまっすぐ見た。


「でも、なかったわ。楽しかった思い出は、三年間を否定しない理由にはなる。あなたが悪人ではないことは、憎まない理由にもなる。でも、それはもう一度あなたと婚約する理由にはならないのよ」


 ジェラルドは何も言わなかった。クラリッサも、それ以上言葉を重ねる必要はないと思った。三年間の婚約について考え続けた末に出した答えなのだから、ここで相手の反応を見て揺らぐつもりもなかった。


 その日を最後に、クラリッサがジェラルドと個人的に会うことはなくなった。バルツァー侯爵家が消滅したわけでも、爵位を失ったわけでもない。ただ、これまで通りの生活を維持することはできなくなり、王都に所有していた不動産や不要な資産をいくつか手放し、使用人の数を減らしながら家計の立て直しを始めたという。エーヴェルト家との共同事業についても、婚姻を前提としていたものは終了したものの、双方に利益がある取引まで感情的に打ち切られたわけではなく、通常の商取引として残るものは残った。クラリッサはその後の事情を人づてに聞いただけで、ジェラルドが侯爵家の跡取りとしてどのように家を立て直していくのかについても、積極的に知ろうとは思わなかった。


 クラリッサ自身の生活は、思っていたほど大きく変わらなかった。侯爵夫人になるために学んできたことの中には必要なくなったものもあったが、身につけた知識まで消えるわけではない。領地経営について学んだことも、社交について覚えたことも、すべてクラリッサ自身のものとして残った。何より、まだ十八歳である。三年間続いた婚約が終わったところで人生まで終わったわけではなく、これまで結婚を前提に決められていた予定が減ったことで、むしろ自分のために使える時間は増えていた。


 ある晴れた日の午後、クラリッサは久しぶりに友人たちと王都へ出かけた。以前なら侯爵家の婚約者として人目を気にし、立ち寄る店や帰宅する時間まで多少は意識していたが、今はそこまで考える必要もない。気になっていた菓子店へ入り、欲しかった本を買い、予定になかった雑貨店まで覗いた。特別なことは何もしていない。それでも、自分で決めた予定だけを追いかけて一日を過ごすことが、思っていた以上に楽しかった。


 帰りの馬車に揺られながら、クラリッサは窓の外を眺めた。三年前、バルツァー侯爵家との婚約が決まった時には、自分はとても幸運なのだと思っていた。名門侯爵家へ嫁げる。将来は侯爵夫人になれる。だから、それに相応しい人間にならなければならないのだと考えていたが、実際には侯爵家にも必要なものがあり、爵位や歴史だけではどうにもならない事情を抱えていた。家格が上だからという理由だけで相手の方が価値のある人間になるわけではないことも、一度自分を手放した相手を過去の情だけで許す必要がないことも、今なら分かる。


 これから先、誰かを心から愛する日が来るかもしれないし、しばらくは来ないかもしれない。それを今決める必要はなく、少なくとも当分の間は、誰かの婚約者としてではなくクラリッサ自身として過ごしてみたかった。窓の外では夕方の光が街並みに落ち、行き交う人々の姿がゆっくりと後ろへ流れていく。クラリッサはそれを眺めながら、明日は何をしようかと考え始めた。

連載を始めました!かなり気合いを入れて書いてます。(代表作にも設定しました)


『私を捨てたあなたに、幸せになる資格まで奪われたくないのです』

【https://ncode.syosetu.com/n9471mr/】



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― 新着の感想 ―
熱は冷めるから温度の維持が大事ですね
面白かった。 >「家同士の話としては、そういう面もあったと思う。でも、俺は知らなかった。本当に知らなかったんだ。俺自身は金のために君と婚約していたわけじゃない」 婚約時点ならともかく、3年気が付かなか…
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