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城の執務室に冷たい風が吹き込んだ。
レオンが手にしていたのは、王都から届いた封書。
赤い蝋に押された紋章は、間違いなく王家のものだった。
「セリーナの身柄引き渡しを要求する。理由は“名誉の回復"だとよ」
レオンが読み上げる声には、嘲りが混じっていた。
ヴァルターは手紙を一瞥すると、無言で破り捨てた。
「くだらん。俺の妃を勝手に拘束しようとは」
「妃」
セリーナは小さく反芻した。
昨日の晩餐の発言は外交上の方便かと思っていたが、彼は今も同じ言葉を使っている。
「おまえを狙うのは王都だけじゃない」
ヴァルターは机上の地図を指差す。
そこには境界の両側から赤と黒の印が置かれている。
「魔族の一部も、おまえを欲しがっている。魔眼を持つ人間は数百年ぶりだからな」
「私の意思は関係ないのですか?」
思わず問い返すと、ヴァルターの口元がわずかに動いた。
「ある。だが、選べ。俺と共に立つか、全てに飲み込まれるかだ」
その言葉の重さに、セリーナは息を詰めた。
昨日までは“助けられた立場”だったはずなのに、今はすでに“戦いの一部”になっている。と。
〜〜〜
翌朝。ふと、セリーナは窓の外に目をやる。
黒い森の向こう、王都の方向から荘厳な鐘の音が響いた。
それは、王族の出門の合図。その音を聞きながら、セリーナの胸の奥はざわめく。
嫌な予感が、セリーナの心に巡った。
城門の前。そこに王都の紋章を掲げた馬車が停まった。その扉から降り立ったのは、かつての婚約者――第一王子リオネル。
陽光を浴びた金髪と、昔と変わらぬ笑顔。だがその笑みは、今のセリーナにはどこか薄っぺらく見えた。
「これはこれは。王子さま」
リオネルを出迎えるのは、レオン。
しかしその顔は、どこか小馬鹿にしたような表情。
「このようなところに。なにか?」
「貴様。口を慎め」
リオネルの護衛騎士。
その一人が剣を抜き、レオンに睨みを効かせる。
「このお方は」
「俺はリオネル」
騎士を遮り、アランは前に歩み出る。
「ここに我が妃。セリーナが居ると聞き、居ても立っても居られなく」
「へぇ。そうかい。だけど、セリーナ様は」
しかし、そこに。
ヴァルターと共に、セリーナが姿を現す。
開かれた門扉。その中なら、ゆっくりと。
「セリーナ。久しいな」
「お久しぶりです、殿下」
形式的に頭を下げると、リオネルは迷いなく歩み寄り、彼女の手を取ろうとした。
だが、その手はすぐに銀色の影に阻まれる。
「触れるな」
ヴァルターが一歩前に出て、リオネルを睨み据えた。
「彼女は今、俺の庇護下にある」
リオネルは一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに笑みを取り戻す。
「庇護? それはありがたい。だが、セリーナ。君は本来この国の娘だ。王都に戻れば、全て元通りになる」
“元通り”――その言葉に、胸の奥がざらついた。
あの頃の自分は、誰かの期待に沿うためだけに微笑み、何も選べなかった。
「殿下。私は、もう戻るつもりはありません」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
リオネルの瞳に、一瞬だけ理解できないという色が浮かぶ。
ヴァルターはその様子を楽しむかのように、低く笑った。
「聞こえただろう。俺の妃は、帰らぬと言っている」
沈黙が落ち、風が唸る。
セリーナははっきりと感じていた。自分はもう、王都の姫でも、ただの令嬢でもないのだと。