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目を開けると、そこは見知らぬ広間だった。

 高い天井に吊られた漆黒のシャンデリア。壁には深紅の絨毯が垂れ、窓の外には霧に包まれた山脈が広がっている。

王都からは到底考えられない、異様な光景。


「ここは?」

「俺の城だ」


 振り返ると、黒衣の男――ヴァルターが玉座のような椅子に腰かけていた。

 その銀の瞳が、まるで全てを見透かすようにセリーナを射抜く。


「助けられたと思っているなら、訂正しておく。俺はおまえを利用する」

「利用?」

「おまえの魔眼だ。未来を視るその力。俺が望む結末を手に入れるために必要だ」


 セリーナの心臓が跳ねる。

 未来視の魔眼は、家族すら知らぬ秘密。どうして彼がそれを。


「なぜ、そのことを」

「俺は“知っている”だけだ。理由は今は言わん」

 ヴァルターは淡々と言い放つ。

「代わりに、俺はおまえを守る。王子も、聖女も、この国も――すべてがおまえに牙を剥いても、な」


 その言葉には、奇妙な重みがあった。

 取引のはずなのに、底知れぬ温度が滲む。


「あなたは、私の敵なのですか。味方なのですか」

「どちらでもない。だが、俺の妃になるなら、敵にはならん」


 沈黙が落ちる。

 窓の外の雷鳴が、二人の間に流れる空気を裂いた。

 セリーナはまだ、この男が差し伸べる手を取るべきか迷っていた。

 

 しかし心の奥で、王宮で浴びた侮蔑の視線より、この男の冷たい瞳の方がなぜか安心できる自分に気づき、戸惑っていた。


 翌朝。

 重厚な扉を押し開けると、そこには長い回廊が広がっていた。

 壁には古びた肖像画や戦場のタペストリーが並び、天井の燭台がゆらゆらと揺れる。

 足音が吸い込まれるように響くたび、城の空気が冷たく肌にまとわりついた。


(……息が詰まる)


 王都の明るい大理石の廊下とは正反対の雰囲気。

 ここは人を拒むために造られた城だ――そんな直感が走る。


 角を曲がった瞬間、背後から声がした。

「おや、珍しい。お客人が城を散策とは」


 振り向くと、若い剣士が壁に背を預けて立っていた。

 栗色の髪に鋭い灰色の瞳。黒の軍服に剣を下げ、口元に皮肉めいた笑みを浮かべている。


「あなたは?」

「レオン。ヴァルター様の側近で、ここを守る剣だ」

 軽く頭を下げるが、その視線は値踏みするように冷たい。

「正直、あんたみたいな令嬢が長居する場所じゃない」


「そうかもしれませんね」

 セリーナは視線を逸らさず答える。

 レオンは一瞬だけ驚いたように眉を上げ、それから笑った。


「気骨はあるみたいだ。まあ、せいぜい気をつけることだ。ここには人間じゃない者も多いからな」


 その言葉の直後、廊下の奥から気配がした。

 黒い影が壁を這い、形を変えてゆく。

 まるで霧が人の形をとるように、長身の影がセリーナの目の前に立ちはだかった。

 瞳がぎらりと赤く光る。


「……客人か。生きた人間を見るのは久しい」


 冷たい声と共に、影はゆっくりと手を伸ばしてくる――。


影の男の指先が、氷のような冷たさでセリーナの頬に触れようとした。

 反射的に後ずさるが、背後は冷たい石壁。逃げ場はない。


 影の瞳が赤く光り、耳元で囁く。

「人間の心臓の音。久しいな。ひとくちで静かに――」


その瞬間、空気が爆ぜた。


 低い呪文が響き、黒い雷が廊下を貫いた。

 影は悲鳴もあげずに霧散し、床に影の残滓だけを残す。


「俺の城で、俺の許可なく獲物に触れるとは」

 冷たい声が、廊下を満たす。


 振り返れば、そこにヴァルターがいた。

 銀の髪が微かに揺れ、指先にはまだ黒雷の余韻がまとわりついている。

 その瞳は、影を消した時よりも――セリーナを見据える時の方が鋭かった。


「言ったはずだ。おまえは俺の妃になる女だ。他の者に傷つけさせはしない」


 セリーナは、胸の鼓動が早まるのを感じた。

 恐怖ではない。

 この男の言葉には、ただの所有欲とも違う、何か重く確かなものがある。


「ありがとう、ございます」

 やっとそれだけを口にすると、ヴァルターは表情を崩さず彼女の腕を取った。


「レオン、客人を案内する時は注意を払え」

「失礼」

 レオンは苦笑して肩をすくめたが、その瞳には一瞬だけ安堵が見えた。


 ヴァルターはセリーナを連れ、回廊の奥へと歩き出す。

 その背に、影の残滓がゆらりと揺れ、すぐに消えた。


(この城は危険だ。けれど、この人がいるなら)

 セリーナは無意識に、掴まれた腕に力を込めていた。

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