はじまり
煌びやかなシャンデリアの光が、天井から幾重にも降り注ぐ。
王立学園の卒業記念舞踏会――貴族子女の晴れ舞台であり、社交界デビューを意味する夜だ。
公爵令嬢セリーナ・アークライトは、深紅のドレスの裾を優雅に揺らしながらホールの中央に立っていた。
整った金の巻き髪、薄紅の唇、冷ややかな碧眼。
誰もが羨む容姿と血筋を持ちながら、その表情は氷のように凛としている。
――そう装っているだけで、本当は胸の鼓動が早まっていた。
その時、王子の声が響く。
「セリーナ・アークライト。おまえとの婚約を、今この場で破棄する!」
ざわめきが広がる。
豪奢な薔薇の香りが漂うホールの空気が、一瞬で凍りついた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか?」
セリーナの声はかすかに震えたが、それを悟らせぬよう顎を上げた。
「おまえが、聖女アリシアを陰湿に虐めていたと、証言が上がっている」
第一王子リオネルの金色の瞳は、冷たく光っていた。
その隣には、純白のドレスを纏った少女――アリシアが、か弱げに王子の腕に縋っている。
「そんな事実はございません」
「見苦しいぞ、セリーナ。証人は複数いる」
嘲笑が、周囲から聞こえた。
かつて自分に媚びていた令嬢たちも、今は王子と聖女の味方を装っている。
(ああ、そういうこと)
セリーナは心の中で静かに理解した。
これは計画的な追放劇だ。邪魔な自分を舞踏会で葬り去る――その筋書き。
その瞬間、背後の大扉が音を立てて開いた。
冷たい風が、ホールを薙ぐ。
黒衣の男が一歩、また一歩と進み出る。
長い銀髪、月光のように冷たい瞳。
王国の人間なら誰もが震える名前を持つ存在――黒の魔導公ヴァルター。
「つまらぬ茶番だな」
低く響く声が、ホール全体を震わせた。
そして彼は、まっすぐセリーナに視線を向けた。
「セリーナ・アークライト。おまえは今から、俺の妃だ」
その一言で、世界の色が変わった。
誰もが息を呑んだ。
王宮の舞踏会に、黒の魔導公ヴァルターが現れるなど、あり得ない事態だった。
「黒の魔導公だと?」
リオネル王子は眉をひそめ、護衛騎士たちに視線を送った。
だが、ヴァルターは一歩も引かず、ゆるやかに口元を歪める。
「その女は俺のものだ。おまえらの陳腐な茶番に付き合わせる気はない」
「ふざけるな!」
王子が怒鳴った瞬間、空気が震えた。
ヴァルターが軽く指を鳴らすと、護衛たちの剣が一斉に宙を舞い、床に突き刺さった。
「なっ」
騎士たちが蒼白になる。
魔法詠唱すら見せずに武装を奪うなど、人間離れしている。
ヴァルターはゆっくりとセリーナの前に歩み寄り、その手を取った。
氷の仮面のように感情を押し殺していたセリーナの瞳が、かすかに揺れる。
「なぜ、私を?」
「理由が必要か?」
低く艶を帯びた声。
「おまえは俺に必要だ。それだけだ」
ざわめきが再び広がる。
王子が顔を真っ赤にして叫んだ。
「この場で連れ去れば、王国を敵に回すことになるぞ!」
「とっくに敵だ。今さら数が増えたところで変わらん」
ヴァルターは冷ややかに言い放ち、漆黒のマントを翻す。
「行くぞ、セリーナ」
彼が指先を軽く動かすと、二人の足元に魔法陣が展開する。
瞬く間に黒い光が渦を巻き、彼らの姿を包み込んだ。
「待てぇぇっ!」
王子の絶叫と、聖女の悲鳴が響く中、
セリーナは最後にほんの一瞬だけ振り返った。
その瞳には、怒りと――奇妙な安堵が混ざっていた。
次の瞬間、二人の姿は闇に溶け、舞踏会場から消え去った。