水漏れ
そもそもなぜ、ここにいるのか。
脱衣所の床が、ひんやりと冷たかった。なぜか感触が不明瞭で、厚い布を通して触れているようなもどかしい感覚。
なるほど。足元をみると、床が水浸しだった。
洗面台の蛇口を確認する。しっかりと閉まっている。水滴ひとつ落ちていない。
リビングへ向かう。廊下を進むにつれて、水の量が増えていく。フローリングが鏡のように天井の照明を反射していた。この高さまで水が溜まるなんて、相当な量が漏れているはずだ。
慌ててキッチンへ駆け込む。水道から水は出ていない。シンク下の配管、食洗機の接続部、すべて確認したが異常はない。乾いたままだ。
耳鳴りがするほどの静けさ。リビングを見渡す。窓は閉まっている。このタワーマンションは気密性が売りで、外の音はほとんど聞こえない。
足元へ目をやる。
水に浸かっているのに、濡れている感覚がない。靴下も、パジャマの裾も、触ってみれば乾いている。なのに、床には確かに水が溜まっている。
不安が胸を締め付ける。とにかく寝室を確認しよう。水漏れの原因がそこにあるかもしれない。
寝室のドアは半開きになっていた。記憶にない。昨夜、確かに閉めたはずなのに。
一歩踏み込んだ瞬間、鼻を劈く悪臭に顔を歪める。吐き気をもよおす腐敗臭が部屋に充満していた。
ベッドの上に、それはあった。
男性の死体。顔は判別できないほど変色しているが、着ている服には見覚えがある。知っている人だ。誰だったか……。
息が詰まる。窓を開けなければ。新鮮な空気を入れなければ、この臭いで気が狂いそうだ。
窓に手を伸ばす。
届かない。
もう一歩近づいて、再び手を伸ばす。指先が窓枠の手前で止まる。そこに見えない壁があるように、それ以上伸ばせない。
何度試しても同じだった。窓に触れることができない。
ふと気づく。さっきから妙だと思っていたことの正体が。
足の感覚がない。
水に浸かっていても濡れた感じがしなかったのは、そもそも触覚が鈍っていたからだ。けれど今、この部屋に入ってから嗅覚だけは鋭敏に働いている。おかしい。リビングから寝室へのドアが開いているなら、あちらでも死臭に気づいたはずだ。
試しに足を動かしてみる。少しずつ、感覚が戻ってくる。足の裏がフローリングの硬さを捉え始める。
手のひらを握ったり開いたりする。指先に血が通う感覚。触覚が、徐々に戻ってきている。
ということは、今なら窓に触れるはずだ。
期待を込めて手を伸ばす。
やはり届かない。
なぜだ。五感は確実に戻っている。それなのに、なぜか窓に触れない。いや、実際には触っていて、感触がないだけ、かもしれない。
ベッドの死体を見つめる。顔をよく見る。腐敗が進んでいても、輪郭は分かる。鼻筋、顎のライン、髪型。
ああ。
彼だ。
名前が出てこないけれど、間違いなく知っている男。そして、ふつふつと憎しみが湧き上がってくる。ざまあみろ。こんな男、死んで当然だ。このまま腐って骨になるがいい。
憎悪が募るにつれて、不思議と臭いが気にならなくなった。慣れたのか、それとも別の理由か。
とにかく外へ出よう。こんな部屋にいても仕方がない。彼が死んでいようが知ったことではない。
玄関へ向かう。寝室を出てリビングに足を踏み入れた瞬間、異変に気づいた。床を覆っていた透明な水が、どろりとした半透明の液体に変わっていた。淡い桃色。粘性のある液体。歩くたびに糸を引いて足にまとわりつく。生温い感触が、素足に這い上がってくる。
どうでもいい。さっさと外に出よう。
ドアノブに手をかける。
触れない。
窓と同じだ。手がドアノブの手前で止まってしまう。押しても引いても、見えない壁に阻まれる。
閉じ込められた。
いや、待て。物理的に壊せばいい。ドアを破壊すれば外に出られる。工具箱があったはずだ。確か、脱衣所近くの収納に。
早足で廊下を戻る。足元の粘液が、ぴちゃぴちゃと不快な音を立てる。収納の扉は問題なく開いた。中から工具箱を引っ張り出そうとした時、再び強烈な異臭が鼻を突く。
今度は寝室からではない。
洗面所からだ。
恐る恐る近づく。風呂場のドアが開いている。さっきは閉まっていたはずなのに。ドアの隙間から、腐敗した液体がゆっくりと流れ出していた。濁った桃色の水が脱衣所の床に広がっていく。腐肉を溶かしたような、どろどろとした質感。濃密な悪臭で、喉の奥が焼けるように痛む。
異臭の発生源は、間違いなくそこだ。
覗き込む勇気が出ない。けれど、確認しなければ。一歩、また一歩と近づいていく。
浴槽の中を見た瞬間、胃の中身が逆流しそうになった。
ぐずぐずに腐敗した遺体が、濁った水に浸かっていた。長い髪が水面に広がり、海藻のようにゆらゆらと揺れていた。女性だ。
目を逸らそうとして、脱衣所の鏡が視界に入る。
洗面台も、タオルも、すべてが映っている。
ただし、そこに立っているはずの私の姿だけが、ない。
頭の中が真っ白になる。思考が霧散していく。記憶が指の間から砂のようにこぼれ落ちていく。
名前が思い出せない。
そもそもなぜ、ここにいるのか。
脱衣所の床が、ひんやりと冷たかった。なぜか感触が不明瞭で、厚い布を通して触れているようなもどかしい感覚。
なるほど。足元をみると、床が水浸しだった。
洗面台の蛇口を確認する。しっかりと閉まっている。水滴ひとつ落ちていない。
リビングへ向かおう。
(了)
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