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中編――書架都市ラディクス、恋文は刃となる

 地上へ戻ったはずなのに、そこは空を失くした街だった。頭上には何層もの本棚が天蓋のように重なり、紙とインクの埃を雪のように降らせている。書架都市(ラディクス)――あらゆる物語が芽吹き、やがて枯れる場所。

 わたし、狭霧(さぎり)茉莉(まつり)は、湿った紙片を踏みしめながら息を呑んだ。古書の甘い(かび)の匂いが喉奥で溶け、舌の裏で鉄錆と混ざる。

 視界の端で、霜茸(しもたけ)(あきら)が菌傘を傾けた。傘の斑紋は街灯の火に照らされ深紅へ反射し、そのひだから淡い燐光が零れる。


 「ここには〈ヒロインの鎖〉が保管されている。物語の定型――つまり君を檻に戻す枠組みだ」

 胞の声は囁きのはずなのに、紙壁全体で共鳴した。街路の隙間から顔を覗かせたレンズたちが、わたしたちを視認して虹彩を収縮させる。

 わたしは吐息を整えつつ、自分の胸、名札の下で脈打つ“好き”という単語を意識した。それはまだ形を持たない芽。だが触れるたび熱を帯び、未知の痛みを伴って成長を促す。


 ふと石畳の継ぎ目がひらき、黒インクの運河が現れた。潮風にも似た微かな塩味を含む匂いが鼻腔をくすぐり、運河の水面に浮かぶ白紙片が“未来”の二文字を映す。

 「拾って」胞が促す。わたしは紙片を掬うと、冷たいインクが指先を染めた。皮膚の上で文字は溶け、薄緑の燐光へ変じて掌に吸い込まれる。温かい。

 その瞬間、書架の奥から金属の摩擦音。視巡士(しじゅんし)の犬が接近している。わたしたちは影のように身を滑らせ、市場跡の荒書房へ飛び込んだ。


 書房の内部は零度近い。壁一面を覆うガラスケースに、表紙を剥ぎ取られた本たちが標本のように並び、ページの欠落部から白い息が漏れている。

 「予定調和は恋を殺す」胞が呟く。「君の“好き”は物語の圧力が最も嫌うノイズだ」

 曇ったガラスの向こうで、本の欠頁がゆっくり羽化した蝶のように震えた。わたしは思わず指を伸ばす。そこには子どものころ書きかけて棄てた詩の断片――忘れていた自分の声が刷り込まれていた。


 「これも鎖のひとつ?」

 「違う。鎖はもっと奥――中央制御図書館(グラン・スクリプト)にある。だがページを失った言葉は飢えている。触れ続ければ君を喰う」

 言い終わる前に、書房の背後が破砕音をあげた。ケルブが壁を打ち抜き、校正用のリボンを(むち)のようにしならせる。リボンが空気を裂くたび、わたしたちの周囲にある単語が別の語へ置換される。「逃走」が「失敗」に、「共犯」が「独房」に。

 わたしは心臓の奥で芽吹く“好き”に爪を立てた――まだ柔らかな核が脈動し、痛みを甘く拡散する。痛みこそが輪郭。わたしはわたしだ。

 「行こう」胞が菌傘を広げ、粉雪のような白胞子を散布した。瞬時に視界が霞み、置換された単語が元の言葉へ回復する。


 わたしたちは影と紙埃の狭間を縫い、図書館へ至る螺旋橋を駆け上がった。高所から見下ろすラディクスは、重なり合う書架が夜光貝の内側のように虹彩を放つ幻想都市。だがその光は監視のまなざしでもある。

 図書館の門番の瞳――巨大な水晶レンズ――が焦点を合わせた。胞は傘のひだを開き、そこに宿る星図を門番へ投影する。同時に、わたしは掌の“未来”を門番の表層へ押し当てた。未来と星図が合成され、レンズの中心にエラーが走る。

 割れた水晶の向こう、氷点下の書庫が縦横無尽に伸びる。背表紙のない本が脈を打ちながら天井まで積み重なり、通路は冷気とインクの匂いで満ちる。


 最奥ホールは深海のように静かだった。天井から吊るされた心臓型のインク塊が、緩慢に脈動している。〈ヒロインの鎖〉はその中心へ張り巡らされた鎖文字――数万の「べき論」で編まれた呪句。

 「切って」胞が短く言う。

 わたしは震える指で胸の“好き”を掴み、黒く輝く鎖に押し当てた。途端に鎖は赤熱し、文字列が溶けて崩れる。「べき」が「かもしれない」へ、「正しさ」が「揺らぎ」へ変貌し、インク心臓が鮮血の色を帯びた。

 ケルブが後方から突進してくる。胞は傘を盾にし、レンズ光線を反射させた。光は鎧を穿ち、犬たちは空の紙袋のようにしぼんで崩れ落ちる。


 その瞬間、ホール全体が震え、塔の外壁に無数の亀裂が走った。インクの心臓が鼓動を早め、溶けた鎖の残骸が光を散らす。

 わたしの背中に異物感――双肩から頁の翼が芽吹いた。紙でできた軽やかな羽は風を孕み、インクの飛沫を撒き散らす。「傍役(わきやく)はもう嫌」わたしは囁く。「わたしは――」

 「共犯(パートナー)だろ?」胞が言い、傘の柄を杖のように突いて笑った。


 崩れゆく塔を跳び出し、夜空へ躍り出る。頁の翼が風を掴み、傘の裏鰓が空気を叩いて推進力を生む。下では書架の塔がドミノのように崩壊し、無数の物語が(ほむら)となって燃え上がる。紙の灰が星屑に混ざり、わたしたちの軌跡を光で縁取る。

 ラディクスの外縁は限界集落のように朽ち、そこから先は白い砂漠が広がっていた。未使用の紙片が砂粒のように積もる空白砂漠(ブランク・デューン)

 「行き先は?」息を切らしながら尋ねると、胞は夜風で揺れる菌傘を摘まみ、遠い地平を指差した。

 「最後の監視装置《万観ヴォワル》――あそこを越えたら、君の“好き”は誰にも校正されない」

 翼の音と傘の羽ばたきが夜気を震わせる。心臓は痛いほど高鳴り、胸の“好き”は熱を帯びて頁を焦がした。砂漠の彼方に、薄紅の光柱が瞬いた。わたしたちは互いの影を重ねながら、その光へ向かって飛び続けた。


 ――つづく


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