前編――菌紋の世界で、恋は芽吹く
狭霧茉莉――その名を思い出した瞬間、わたしの瞼は裏返り、眩い黝光が網膜を焼いた。
森。それも見たことのない、発光胞子の夜霧で満ちた森だった。湿った腐葉土の匂いが舌の奥で鉄錆と混ざり、甘やかなアルコールの気泡を立てる。わたしはうつ伏せで倒れていた。掌に触れる苔は絹のように柔らかく、それでいて心臓の鼓動と同期するかすかな震えを孕んでいる。生き物というより、本で綴じられた紙の束が脈を打っている――そんな不気味な感触。
起き上がろうと指に力を込めた途端、背中に無数の視線が刺さった。鳥肌が立つより先に、木々の幹から“眼”が開いた。紫水晶色の虹彩、硝子細工のように滑らかな白眼。瞬き一つなくこちらを凝視するその眼は、体温を奪うのではなく逆に微熱を注ぎ込み、毛細血管を内側から撫で上げた。わたしの血液が自分以外の鼓動に支配されるような、おぞましい高揚。
(……ここは夢? それとも本の頁の中?)
思考と呼吸の間に罅が入り、現実感を繋ぎとめる鎖が軋む。ふと、胸元の名札――木札に墨で刻まれた「茉莉」の二文字が視界に入る。裏返すと、そこには三つの黒星が彫り込まれ、星々は爪で黒板を引っ掻くような音を立てて震えた。星印の傷は幼いころに自分で付けたような、そんな既視感だけが残る。
背後でランタンの砕ける音。振り向くより速く、耳奥に虫の翅音めいた倍音が滑り込む。
「目覚めの匂いがしたから来てみたら、やっぱり君だった」
声の主は霜茸胞――黒と深緋が螺旋する菌傘を兜のごとく戴いた少年だ。身長は十二歳児ほどだが、瞳の奥で揺れる闇は夜を一晩で腐らせるほど濃い。傘の裏鰓には白銀の紋様が刻まれ、その一線一線が脈動しながら弱い燐光を放っている。
「君は“文字の国”から転写された未定義だろ?」
口の動きより先に、言葉の意味が脳髄に直接プリントされる感覚。わたしは咄嗟に一歩退き、靴底で苔を踏みつけた。途端に苔は音叉のように震え、薄い旋律を奏でて森全体へ波紋を送る。木々の眼が一斉に狭まり、まるでシャッター音の洪水――撮影される恐怖が背骨を凍らせた。
「好きに書き換えたい連中ばかりだから、僕が守る。僕だけが、君を見つめる」
胞の宣言は甘い囁きと鋭い宣戦布告の中間にあり、その温度差が胸郭を弓のように撓ませる。
空気が変わった。冷たい霧の層をかき分けるように、遠くで金属の足音が響く。視巡士の犬だ。嗅覚ではなく、文章の誤字脱字を嗅ぎ分ける無機の番犬。彼らのレンズがこちらを捉えた瞬間、未定義であるわたしは校正という名の抹消を受ける。
「走ろう」胞が手を差し出す。
その手は冷たいはずなのに、触れた途端、視線の束から切り離されたかのように安堵が滴った。わたしは頷き、苔の脈動を足裏で感じながら走り出す。苔は文字列を形成し、足跡を「逃走」と書き残した。
苔むした石橋を渡る途中、視巡士の光が背後の林を焼いた。樹皮が黒インクに溶け、眼を持つ木々は悲鳴とも歓喜ともつかぬ音を上げて崩れ落ちる。燃える森の匂いは野焼きというより、大量の書物が一度に裁断されるときの紙埃に近い。嗅ぐほどに既読感が胸を掻きむしる。
石橋を越えた先は谷。陽は差さず、天頂を覆う雲さえ活字で編まれている。その雲に紙片の罅が走り、墨が雨となって降り注ぐ。雫は肌に触れた途端、単語に再構成される――「罪」「視線」「蜜」――意味の配列が神経を刺し、わたしは短い悲鳴を上げた。
胞は自らの菌傘を開き、深紅と黒の斑紋で雨粒を弾く。「異世界恋愛の第一条件は真名の贈与」と彼は言う。傘の裏鰓がゆっくり開閉し、そこに刻まれた白金の紋様がわたしの名札の黒星に呼応して輝いた。
――真名を授け合えば、わたしたちは書き換えられない。
直感だけで悟る。それは契約であり呪いであり、同時に救いでもある。
谷底には苔の下から生えた菌糸の階段が口を開く。階段が地下へ伸びているというより、世界そのものがわたしたちを呑み込もうと口を開けたかのよう。下方から吹き上げる風は生温く、カカオと土と若い水の匂いが混ざっている。
「行こう、狭霧茉莉」胞がわたしの“未完成”を呼び捨てた。
胸の奥が震え、名前の輪郭が強化される。その震えは恐怖ではなく、未知を目撃する高揚。
階段を一歩ずつ下りるたび、足裏に絡みつく菌糸が脈を打ち、わたしの体温を吸い、代わりに微かな光を与える。背後では視巡士のケルブが石橋に殺到し、校正用スタンプリボンの鞭を振るい始めた。橋に刻んだ足跡の「逃走」は一瞬で「誤植」へ訂正される。訂正音が銃声のように破裂し、谷全体にエコーする。
それでも階段を降り切った瞬間、世界は反転。青白い光が闇を斬り裂き、そこは井戸の底とも子宮ともつかぬ球状の空洞だった。壁面は羊皮紙を束ねたように皺を重ね、ところどころに覗き穴――直径数センチの暗孔――が空いている。そこから視線が漏れ、温い呼気が頬を濡らす。
脳裏に古い記憶が甦る。小学生のころ、黒板の隅に刻んだ三つ星の落書き。読めない文字で埋めた交換日記。教室の天井に穿った針穴から降る緑光。どれも誰かに見られている、という未曾有の恐怖と恍惚を伴っていた。
「書き手の群れが来る前に、君の空白を埋めよう」胞の声が低く響く。
わたしは足先に滲む発光苔を掬い、緑がかったインクを指ですくう。そして壁の一角に“好き”と書いた。言葉はすぐに朽ち、苔に吸い込まれる。それでも残滓の甘い匂いが空洞に漂い、覗き穴の一つが面積を拡げ薄紅に染まった。
胸がざわめく。誰かの期待――あるいは自分自身の期待――が胎動のように鼓膜を震わせる。
「走り書きのまま、二人で物語を書こう」胞が手を重ね、傘の影と発光苔の光とが混ざり合い、不思議な色温度のハーモニーを生む。
甘い。苺と墨の中間。嗅いだことのない匂いなのに、口内に唾液が溢れる。視線の熱がわたしの舌を焦がし、鼓動は指先まで暴走する。わたしは自分の影を踏みつけ、未知への震えを抑え込むように息を吐いた。
そのとき、井戸上部の覗き穴が一斉に開き、瞳孔が星形に収縮した。視線の奔流が滝のように注ぎ、わたしと胞の立つ足場を照射する。空洞の温度が急激に下がり、吐息が白く凍る。
視巡士が追いついた――そう思った瞬間、胞が傘を振り上げた。深緋の斑紋が闇を切り裂き、視線をレンズごと反射する。光が乱反射して暗孔の内部を焼き、甲高い悲鳴とともにいくつかの穴が閉じた。
「君は未定義だけれど、僕と結び合えば“書換不能”だ」
その言葉は呪文のように空洞へ染み込み、苔の発光が高まり、わたしの足跡が再び“逃走”へと書き換わる。
恐怖と歓喜が混線し、脳髄が高温で溶ける感覚。わたしは息を荒げながら笑った。
「じゃあ、まずは序章を書き換えよう。――わたしはヒロインじゃない。“共犯者”だもの」
胞が嬉しそうに頷き、傘のひだから一枚の白紙を差し出す。紙は微かな胎動を持ち、これから孕むであろう物語を待ち受けている。
わたしは紙を受け取り、指先で紙縁を裂いた。ケルブの足音が遠のく。井戸の空気が再び湿り、黒インクの匂いが甘さを孕む。
森の上空では視巡士の校正音が雷鳴のように轟いている。けれどここは既に頁の裏側。わたしたちだけの余白。
わたしは白紙に一文字目を書き込む。
“好き”――その文字列が苔の光と交わり、苺と墨の味が濃くなる。
世界が、小さく拍動した。
――つづく