第5章 届かなかった声
2003年10月15日、夜。名古屋市昭和区の古いアパート、薄暗い6畳間。森山勇気(4歳)は、リュックを背負い、床にうずくまる。刺繍された「森山勇気」の文字が蛍光灯に映る。柴田彰(18歳)は苛立ち、酒瓶を握り、
「うるせえ!」
と怒鳴る。勇気は小さな手でリュックをぎゅっと抱き、「ママ…」と呟く。森山綾(26歳)は台所で震え、柴田の視線を避ける。
「彰、落ち着いて…」
と囁くが、声は届かない。
柴田は勇気を睨み、腹部を強く蹴る。勇気は声を上げ、床に倒れる。
「たすけて…」
と震える声。綾は目を覆い、
「やめて!」
と叫ぶが、柴田は無視。勇気は動かなくなり、リュックが床に落ちる。綾は勇気に駆け寄り、
「勇気! 勇気!」
と叫ぶが、反応はない。柴田は
「救急車なんか呼ぶな」
と吐き捨て、綾は震えながら頷く。
「椅子から落ちた」
と呟き、嘘を重ねる。救急車が到着した時、勇気の心臓は止まっていた。死因:腹部打撲による内臓破裂。
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10月16日、中部新報の編集室。坂井真琴(23歳)はデスクで原稿を整理する。電話が鳴り、佐藤が
「真琴、警察から発表だ」
と言う。真琴は受話器を握り、山崎(35歳、刑事)の声を聞く。
山崎は同じ大学の12才上の先輩。地元も千種区の同じ学区で、昔からなにかと真琴を気遣ってくれる兄のような存在だ。
「昭和区のアパートで、4歳の森山勇気、死亡。
傷害致死で柴田彰、森山綾を逮捕」
真琴の体が震え、受話器を落とす。
「勇気…君?」
7月31日の地下鉄、リュックを背負った小さな少年の姿が脳裏に浮かぶ。「おじいちゃんに会いに行く」と呟いた目が、消えない。
真琴は立ち上がり、椅子を倒す。
佐藤が肩を叩き、
「落ち着け。取材行け」
と言う。真琴はノートを握り、警察署へ急ぐ。胸が締め付けられ、呼吸が乱れる。
名古屋市内の警察署。山崎は疲れた顔で真琴を迎える。
「詳細、聞きたいか?」。
真琴は頷き、ノートを開く。
「勇気君、どうして…」。
山崎は書類をめくり、
「10月15日夜、柴田が勇気を殴打。腹部打撲で内臓破裂。綾は『椅子から落ちた』
と嘘をつき、救急車を遅らせた」。真琴のペンが震え、
「嘘? なぜ…」。
山崎は目を細め、
「柴田をかばったんだ。依存だな。よくある話だ」
真琴は拳を握り、
「よくある話なんかじゃない!」
と心で叫ぶ。
山崎は続ける。
「勇気の体、痣だらけだった。児相に通報歴はあったが、動かなかった」
真琴は7月31日の地下鉄を思い出す。勇気の怯えた目、リュックの刺繍。山崎は肩をすくめ、「無理すんな、真琴。慣れねえよ」。
真琴は山崎に頼み、勇気の遺留品を閲覧する許可を得る。証拠品保管室、冷たい蛍光灯の下。勇気のリュックが机に置かれる。布は擦り切れ、「森山勇気」と刺繍された文字が薄れている。
真琴はリュックを手にし、震える。
「勇気君…これを抱いて逃げようとしたんだ」
隣にノート、クレヨンで書かれた
「たすけて」「だれか」。
幼い字が心を刺す。真琴の目から涙が溢れ、床に滴る。「ごめん…俺、見てなかった」。
真琴は山崎に
「写真、撮らせてください。連載で…勇気君の声を」と頼む。山崎はため息をつき、
「報道用ならいい。だが、辛えぞ」
と許可。真琴はカメラでリュックとノートを撮影、涙がレンズを曇らせる。
「勇気君、君の叫びを届ける」
リュックの刺繍が、罪悪感の重さを刻む。
真琴はデスクでリュックの写真を見つめ、涙が止まらない。原稿が書けず、ノートに「たすけて」が浮かぶ。佐藤が近づき、
「真琴、落ち込んでる場合じゃねえぞ」
と言う。真琴は目を上げる。
「俺の無関心が…勇気君を」
佐藤は煙草をくわえ、
「お前だけじゃねえ。みんな見て見ずだった。だが、連載で変えられる」
真琴は拳を握り、
「連載…?」。佐藤は笑い、
「勇気のリュック、強いシンボルだ。読者の心を揺さぶれ。目を逸らすな」。
真琴はリュックの写真を見つめ、涙を拭く。
「無関心は共犯者だ。俺が…勇気君の声を届ける」
ペンを握り、原稿に「森山勇気、4歳」と書き、連載の決意を固める。心の中で呟く。
「勇気君、ごめん。絶対に忘れない。この気持ちを。」
真琴の中に強く揺るがない決意が生まれた。