第1章:春の影
二〇〇三年四月、名古屋市中区の朝は桜の香りで始まる。東海日報社会部では、コーヒーの匂いとタイプ音。坂井真琴、二十三歳の新人記者は、眼鏡をずらし、交通事故の原稿を叩く。情熱家を自負するが、虐待は遠い。
「坂井、ちょっと来い!」
デスクの佐藤隆、五十歳が太い声。真琴は立ち上がり、襟を直す。
「はい、佐藤さん。何でしょうか?」
佐藤は煙草をくわえ、ファイルを投げる。
「児相だ。昭和区で虐待通報。来週までに記事一本、頼むぞ」
真琴は「児童相談所 虐待対応」を受け取る。
「児相……経験はありませんが、やってみます」
声に迷い。佐藤は目を細める。
「迷うな。話を聞いて、書け。読者に刺さるぞ」
真琴は頷き、ファイルを鞄に放り込む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コーポ昭和二階。森山綾、二十六歳は台所に立つ。黒髪を束ね、化粧気のない顔。鏡は見ない。キツい顔――コンプレックスが刺さる。
「勇気、起きなさい! 遅れるよ!」
鋭い声。勇気、四歳は布団から這う。黄色いリュックに星の絵、名前「森山勇気」と電話番号。髪ぼさぼさ、目は澄む。
「ママ……お迎え、来る?」
小さな声に、綾は皿を叩く。
「来るって! 忙しいの!」
勇気はうつむき、リュックを抱える。ノートに「ママの声、きらい」と書く。
朝食は冷めたご飯。綾は勇気を昭和保育園に連れ、仕事へ。「吉田屋」で作り笑顔。客の「笑顔いいね」に内心舌打ち。この顔で?
ーーーーーーーーーーーーーー
真琴は児相へ。受付で名刺を差し出す。
「東海日報の坂井です。虐待通報について伺いたいのですが」
職員、五十代女性は書類をめくる。
「通報は山ほど。一人で百件以上。昭和区? 調査中よ」
真琴はペンを握る。
「四歳の男の子の件、進捗は?」
職員はため息。
「訪問予定。人手が足りないの」
真琴は頷く。
「ありがとうございます」
心は動かない。記事のネタだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
夜、綾は保育園に遅れる。勇気はリュックを抱える。
「遅れてごめん、勇気。帰るよ」
声は硬い。携帯が鳴る。「彰」。柴田彰、十八歳。「吉田屋」で出会い、綾は夢中。
「彰? 今? 家だけど……来る? 勇気は寝るよ」
微笑み、勇気を引く。アパートで彰が待つ。煙草の匂い。
「よお、綾。遅かったな」
勇気を一瞥。
「勇気、元気か?」
勇気はうつむく。彰の目は冷たい。
「勇気、挨拶しなさい」
綾の声に、勇気は言う。
「……うん」
彰は笑い、ビールを飲む。綾は微笑む。彰がコンプレックスを溶かす。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
真琴は社でメモ整理。「一人で百件」が残る。佐藤が近づく。
「児相、どうだ?」
「人手不足。四歳の男の子、調査中です」
佐藤は煙草に火をつける。
「読者に刺さる記事、書けよ」
「はい、頑張ります」
真琴の中でまだ虐待は他人事だった。