ショートストーリー 夜の人だかり
面倒な事務処理とイントラネットの不調で、いつもよりも随分と遅い帰宅時間になってしまった。
苛立つ気力も、自炊する体力も、欠片も残っていない。仕方なく、駅前のコンビニで売れ残りのサンドイッチを買い込む。
コンビニを出ると、今にも降り出しそうな空気がぬるりと纏わりついた。
不味いな、今日は折り畳み傘を持っていない。アパートまでは十五分位だけど、それまで持つだろうか。
なけなしの気力を振り絞り、急ぎ足で大通りを行く。
いつもは賑やかな駅前の大通りも、この時間は流石に車通りが少ない。立ち並ぶ店舗の殆どにはシャッターが下り、点々と立つ街灯を鈍く跳ね返す。
なんだろう、この、知らない街に紛れてしまったような居心地の悪さは。居酒屋などの深夜営業店から漏れる喧噪と明かりも、薄膜の向こうの世界のようで妙に落ち着かない。疲れと湿度のせいか頭の芯が重い。帰ったら頭痛薬を飲んだ方が良さそうだ。
目の前の交差点の信号が切り替わる。流れてきた歩行者用のメロディに苦笑いしてしまう――こんな時間まで働いている信号機に、なんだか共感を覚えてしまった。
交差点を左折する。もう七、八分も行けばアパートだ。
伏せ気味にしていた顔をふと上げると、疲れで霞み気味の視界の中、少し先の街路灯の手前で人影がたむろしているのに気付く。
十名近くが何かを取り囲んでいる。
こんな時間に何をしているのだろう。面倒事ならごめんだ。足音を忍ばせ、通り過ぎざまに横目で窺うと、人垣の間から地面に力なく横たわるスカート姿の脚が僅かに見える。急病人? それとも酔っぱらい?街路灯に浮かぶスカートはやけに汚れて乱れている。何か、事件や事故にでも巻き込まれたのかもしれない。
輪になった人々が、ひそひそと囁き合っている。
――? 何か、おかしい。地べたを眺めながら囁き合う彼等の背に覚えた、なんとも言えない違和感。
つい足を止める。
ああそうか、誰もスマホを手にしてないんだ。普通は人が倒れていたりしたら、状況の記録に……或いは下衆な気持ちから、写真や動画を撮ったりしているものなんじゃないか。どうしてこの人達は女性を取り囲んでるだけなんだろう。救急なり警察なりに連絡は済んでいるのか。あの倒れている人は本当に大丈夫なんだろうか。よく見れば、片方だけのパンプスが脇に転がっている。
疲れてるし、関わり合いになりたくなかったが、気になる。
「すいません」
思い切って、人垣の一人に声を掛ける。
「何かあったんですか」
「ああ。ひき逃げだよ」
こちらを振り返った中年男性が教えてくれた。彼の言葉に、他の人も振り返って口々に、
「酷いわよねえ」
「ここ、結構多いんだよ」
「そうそう。あの交差点、歩行者用の信号が長いせいか知らんけど、スピード落とさないで曲がってくる車が多くてね。あのカーブミラーも、隣の家の木の枝でちょっと影になっちゃってるから」
「街灯と街灯の間のせいか、暗さが引き立っちゃうのかね」
「特にこの時間は、信号無視も多くてさあ」
やはりおかしい。どうしてこの人達はこんなに普通にしていられるんだ。
「何方か、救急に連絡されたんですか? 警察は呼びましたか?」
訊ねてみても、皆きょとんとしている。最初に答えてくれた男性が倒れている女性を指さした。
「そりゃまあ、誰か呼んだんだろうけど。見てごらん」
つられて彼の指の先を目で追う。倒れている女性の首は不自然に伸び、顔の半分以上はぐしゃぐしゃだ。裂けた頭部からは白っぽいものが覗き、腕や脚は明らかに関節の無い所で折れ曲がっている。
とてもじゃないが、助かるとは……思えない。
「本当、困っちゃうよねえ」
「困るって……そんな言い方ないでしょう」
男性の言葉に耳を疑う。確かに素人目にも、今更救急車を急がせたところで彼女はもう助からないように見える。まさかそれが理由で、誰も連絡していないのだろうか。
不謹慎で暢気すぎる彼等を睨み、首から下げていたスマホを手に取る。すると一人の男性が不思議そうに、
「スマホ? 何をするつもりだい?」
「救急と警察に連絡します」
「いいって、いいって」
「いいわけが無いでしょう!」
「いいんだってば。大丈夫だよ、すぐに退かしてあげるから」
「は?」
「退かす」って……まさか、こんな状態の女性を動かすって? 男性の言葉に、周りの奴等も頷く。
――狂ってる。
「ほら、君、早くどかないと」
そう言いながら、青年が二人がかりで彼女の左手首を引っ張った。手首と肘の間にもう一つ関節でもあるように曲がっていた腕が伸びる。
青年は苦笑しながらこちらを振り返り、
「そこのあなた、待っててくださいね。すぐに退かしてあげるから」
中年男性と老婦人が女性の脚を持つ。他の人達もそれに倣い、千切れそうに伸びた首やくの字に曲げられた胴を支え、
「お嬢さん、いい加減に起きないと」
「そうよ、女の子が何時までもこんなところで寝てたらいけませんよ」
「――ちょっと!」
とんでもない行為を止めようと一歩を踏み出すと同時に、
「ほら、次の人が来ちゃってるよ」
女性に掛けられた中年男性の言葉が、やけにはっきりと耳に届く。「次の人」……?
背後に流れ出した歩行者用のメロディーを、甲高いタイヤの滑る耳障りな音がかき消す。
不快なスキール音に振り返る直前。
ぽつり、ぽつり。
ヘッドライトの光に浮かんだのは。
埃っぽい路面に咲いた、降り出し始めた雨粒の花と、自分の長い影が一つ。