5
はっ、と僕は息を呑む。まるでスイッチを切り替えるみたいに。記憶からまた別の記憶に飛び乗っていく。乗り物の上で格闘するアクションスターが、接近してきた速度の違う別の乗り物に飛び移るように。ナチの手先と奮戦するインディアナ・ジョーンズみたいに。
物語の冒頭をなぞっていると、僕は自身が先ほどまで溺水していたことを想起した。睡眠麻痺に相違ないと思っていたそれは、まさに主人公のレオ・ルブルムが昏睡して海を漂流していた場面だったのだ。意識の途切れかけた時に聞いたあの音は、彼女が僕を救助しに波を掻き分け急行してくれていた時のものだったのだ。
どうやら僕は、彼の物語の軌跡を辿っているみたいだ。
僕は彼女から目を切って俯いた。パチン。再度スイッチを切り換えて、記憶を呼び起こす作業に移る。彼もきっと、そうしていたはずだ。
まだぼんやりとした記憶の輪郭を、頭の中でしっかりとした文字に成形する。まるでタイプライターを打ち込むみたいに。打鍵された文字盤と改行レバーの音の心地よさをイメージしながら。すると、記憶の大枠に付随した細かな断片が浮かんでくる。まさに深海からの泡沫のように。水の感触や思考の順列、緩慢な速度で移動していたことやその方向、パニックの様相と総括と願望。またそれらを文字に起こす。するとさらに微少な断片が浮かんでくる。また文字に起こす。それら記憶のピースがもう浮かばなくなるまで、もしくは自身の満足するまで、その作業は続行される。まるで穴を掘って邪魔な土を地上へ放り投げるみたいに。もうこれ以上掘り続けることは不可能もしくは何かしらの宝物を掘り当てるまで、全身に力を込め運動を継続する。それが、僕が何かを鮮明に思い出したい時に行なわれる内的なメソードである。これも、昔お世話になった人に教わった遺産だ。
気管支を無遠慮に握られたような感覚に襲われるまで、その作業は続けられた。これまで溺れた経験などなかったから、いま思い出すだけでも心臓と肺がきりきりと痛む。その節くれだった大きな手に刻まれた禍々しい指紋のかたちと捻りを加えた引き千切らんばかりのグラップル。大きな石を飲み込んだみたいに気色が悪い。――ひどく恐ろしかった。
彼女は緊張したまま僕の返事を待ってくれている。僕の不穏な変化を1つとして見逃すまいと瞬きも少なに見つめている。もちろん僕は俯いているのだから、その様子を直截に見ているわけではない。彼女の語りに依って、予め知っているのだ。
僕は乾いた異物感をひとまず飲み込む。肺の中の空気を完全に入れ換えるように鼻から息を太く吐いて、出しきると小さく開いた口から空気を細く吸い込んだ。
正直に打ち明けると、僕はひどく当惑している。現状をどのように解するべきか。
まともに考えれば、やはりこれは夢なのだと思う。溺水は睡眠麻痺によって生じた内的なまやかしであり、そこから連想するように物語冒頭の追体験に繋がったのだ。直前に感傷たっぷりにストーリーを思い返していたのだから尚更だ。僕が物語の世界に入り込むとかリアルと空想が融合するだとか、そんな小説や映画ような奇跡が本当に起こる訳がないのだ。
しかし夢と断じてしまうには、感覚があまりにもリアルで鋭敏すぎる。ベッドの柔らかな感触は勿論、窓から侵入する陽光と青空の眩しさ、うすらと肌に汗を滴らせる気温の高さ、部屋の中を流動する空気、それに付着する建材の木や油絵や潮の匂い、鮮明な視野、彼女の存在感や声のクリアさ、窒息の苦しみに不動状態のもどかしさ、恐怖と連動してもたらされる内的な痛み。これら総てが夢だなんて、知覚的にはとても信じられない。
いや、夢とは元来そういう事象なのかもしれない。夢裡では実際、現実と同じように痛みや疲労を知覚しているのだ。ただ夢から覚めるとそれらをすっかり忘却してしまっているだけなのだ。だから主観性が消失する。これまでの幾つもの悪夢も、感覚上では本物と相違なかったのだ。目の前で誰かが水爆の業火に焼かれた夢も、走り回り知性のあるゾンビの大群に追われた夢も、路地裏から延びてきた黒い大きな腕に捕らわれた夢も、僕が母の首を引きちぎれるくらいに絞めていた夢も、総て現実で実際に起こった場合と同じように知覚していたのだ。焼き爛れる肉の匂いも、食欲という純粋な害意をはらんだ奇声も、圧倒的な握力によって刻み付けられた痛痒とそれから逃れようともがいた結果生じた幾つもの傷痕も、母の必死の抵抗と痙攣と開かれた瞳孔と自身の食い込んだ爪によって流された母の血の温もりと粘性、それら総てを実質的に体感しているのだ。ただそれら総ての知覚を、目覚める瞬間には忘れてしまう、夢の構成は支離滅裂なのだから尚のことだ。ほとんどの場合、そこに論理的整合性と連続性はない。どんどんと場面がカオスに切り替わって、入り組んで、押し流されて、収集がつかない。『エターナル・サンシャイン』の、主人公ジョエルの頭の中みたいに。まさしく「アナーキー」だ。
こういった想像をしていると、僕が現実だと思っている世界も本来はある種の夢なのではないか、そのような妄想に駆られてしまう。本当の僕はいまから10世紀も先の未来のようなあらゆる社会的文明的命題が解決し不条理な苦しみから解放された素晴らしい世界にいて、それでも苦しみについては学習しなければならないとして用意されたメタバースの中にいるのだ。記憶は一旦消され、1つの不条理な人生を生きる。必要十分なところまで学べると終了し、記憶が復活して数多の教訓と感動を得るのだ。実際そうだったらいいのになと思う。そういった具体的に規定された、ある種の物語的救済が自身にももたらされて欲しい。正しい役割を正しく全うする。いや、そうあって然るべきなのだ。
ゾゾゾゾ
出し抜けに全身が粟立った。恐怖がアマゾンの攻撃的な蟻の大群のように足先から頭頂まで駆け登ってくるのを感じた。それは海中で身動ぎ1つできずに窒息したことではないし、過去の――覚えている限りの――悪夢を一遍に列挙したことでもない。僕を救出したことで、目の前にいる彼女がその後無惨な死を遂げることが確定した事実。僕がそれを僕自身の視点によって、子細に知っていることだ。予言的、というよりは宿命的に。むしろ後者の方がより酷烈だった。
僕にとって、彼女の悲劇はあくまでも紙面上の形象だった。どれほど僕が彼女と物語に共感し、中庸の空間に迎え入れられたとしても、それは個人的で内的なイメージの連続に過ぎなかったのだ。外的に身近な事柄とは直截に関連せず、いまはその扱いに手を焼いていても、煙のように場に留まれないそれは、いつかは時間の作用によって分解され洗われて想い出へと変換される。だから人はその生涯に数多の作品に触れたり、幾度も同じ作品を見返したりするのだ。
しかしいま、突如として物語に客体的な像が与えられ、目の前に展開された。触れて干渉することができるわけだ。僕はそのあまりの重量に押し潰されそうだ。それは現実が常々我々に与えている重量だ。物語に懸かるそれは我々にとても友好的であるのに、現実に懸かるそれは無感情で冷淡だ。物語からは作者の温かさを感じられても、現実は神の温もりなど皆無だ。
「ハルカ」は彼女の恐怖について掘り下げて描写はしなかった。必要最低限といった程度だった。それよりも彼女の勇気をこと細やかに描写した。熱量、息遣い、視線、躍動を絵に描くように描写した。力強い線と鮮やかな色彩がそこで使用された。もちろん、それは構成として至極正解だ。何も発生したとする感情や出来事総てを平等に事務的に描写することがリアリティではない。それを取捨選択することこそがリアリティなのだ。
そう、選択こそが表現の核心なのだ。
物語を強力に前進させる力、「ハルカ」のチョイスに誤りはなかった。
ただ彼女と舞台が客体性を得て実体化したいま、物語として落とし込むために切り捨てられた事象と感情が頭の中に陸を貪る津波の如く流れ込む。まったく想像しなかった訳ではない。作者が選り別けた部分を自身で補完することも読書にとって重要な要素の1つだ。彼女がずたぼろの主人公の姿から、まだ見ぬ災害の形象を生々しく捉えたのと同じように。
しかし僕は、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、立ち上がることができない。
いや、そもそも僕は起き上がりたくない。僕が動かなければ、その物語ははじまらないのだから。