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その黄金のような魔術を介して、僕は「ハルカ」のキャラクター達と、ジョン・レノンとオノ・ヨーコのような奇妙で親密な関係性を見出だしていった。それは月も姿を見せない一帯の暗黒の中にある1つの街路灯の僅かな光に、慰め合うように寄り添う蛾の対に似ている。そして、僕はヒロインの女性に心惹かれていった。僕の好む性質を持った女性が「ハルカ」の執念的な文章に彩られたら、心ときめかない訳にはいかなかったのだ。
その稠密なやり取りは8ヶ月ほど続いた。1度スイッチが入ると、僕の読書速度は頭抜けている。高校生らしく勉学にもそれなりに時間を割いているけれど、文庫本1冊程度なら2,3日で読みきってしまう(来年から受験勉強が本格化すると、その速度も幾らか減ぜなければならないのだろう)。ただ、僕にとって物語の本当の愉しみ方はここからだ。
僕は同じ作品を何度も何度も読み返すタイプの人間だ。それだけならまま存在する質ではあるが、僕の場合は周回する度に読む速度を意図的に変化させる。2週目は1日ですらーっと読みきってしまう、3週目は1日に30頁と定めて時間の許す限りリフレインする。4週目5週目もそれぞれ異なる条件を設ける。そうやって何度も何度も頭に叩き込む。台詞はほぼ精確に暗記できて、文章を自身で組み直し口調やテンポを凝らしたこまやかなナレーションをすることも可能になる。ここまで読み込んで、僕ははじめて「読了した」と思える。物心がついてからこれまでの永い時間をかけて獲得した、僕の珍奇なメソードである。
僕は1から4巻まで十全に、これまでより徹底的に頭の中に叩き込んだ。そして先日発売された最終5巻も合わせて、人生上3本の指に入るほどの読書体験になるはずだった。表紙イラストと挿絵はいずれも美しく気持ちのいいものだった。
しかし僕は1周目を読み終えると、総括が気に入らないと床に叩きつけた。人生上はじめての経験だった。我を忘れて、物語へのリスペクトを逸したことなんて。
物語のクライマックス、最終5巻の最終盤。主人公とヒロインは幾多の試煉を乗り越えて、その道中に加わった仲間達と共に魔王を討ち倒した。ここまではきわめて正統で心地の良い進行だった。まるでパッヘルベルのカノンのように。
音楽も物語も、常道に沿ってつまらないことはそうそうない。しかし皆1からオリジナルの作品を創造したがり、幾つもの越え難い壁や山脈を前にして、遂には何も産み出せずに遁走してしまうのだ。そのような未踏への挑戦は天才に任せていればいい。皆がポール・マッカートニーやフレディ・マーキュリーになる必要はないのだ。我々は彼らが差し示したストーリーの骨格に対し、それぞれの肉付けを行っていけばいい。まるで手作りのフィギュアを拵えるみたいに。皮膚の質感、筋肉の付き方、身長に手足の長さ、目鼻立ち、身に付ける衣装。選抜したのが人型の骨格であればどこか人間的要素の強い創作に限られるし、四足獣の型であればふんだんに人間性を賦与することは困難だ。それ故に、既に似たような表現物は無数に存在していると考えてしまうかもしれない。そのうえで、あえて自分なんかが創作の世界に割って入ることに意味があるのかと思ってしまうかもしれない。それでも、人に皆――たとえささやかな程度でも――個性があって特徴があるのと同じように、劇的ではないにせよ真摯な創作活動を続けれていれば、必ず作品のオリジナリティを受容してくれる人が現れるのだ。「ハルカ」の文章からは、そのことを十全に理解していることが読み取れた。
ところがだ、「ハルカ」は理解しているはずの常道を、最後の最後にかなぐり捨てたのだ。それは緻密に散りばめた伏線の回収という訳でもなく、実験的表現のための意欲が感じられるものでもなかった。文字通り物語を、自身が産み出したキャラクターたちを遺棄したとしかいえない有様だったのだ。
最終決戦、それはまさに死闘だった。戦闘の火蓋は魔王城の玉座の間にきって落とされた。その轟音は国境をも意に介さず響き渡り、衝撃は絶え間ない地震となって幾つもの山を崩した。その破壊的エネルギーは魔王城をも埒外とはしなかった。畏怖と威厳に充溢していた佇まいは、たちまち千年の廃墟のように変わってしまった。当然、主戦場の玉座の間はひとしおだった。豪華絢爛を極めた調度品・美術品・装飾の総てが灰塵と化して、壁も大方が粉微塵になり倒壊しないのが不可思議なくらいだった。現代兵器の爆撃を受けた重要文化財の如き様相だ。そう、テレビニュースでよく見るあれだ。大国が大義名分をでっち上げて小国を侵攻する、正義と犠牲の恣意性を誇張的に可視化させたあの光景だ。僕の悲哀なんてまるで取るに足らないと忸怩させられる、まさしくインフェルノだ(でも、その事実が僕の心を癒してくれる訳じゃない)。「ハルカ」は何故か、そういった情景の描写がうまかった。明徴で、変に読者の想像に任せるところがない。解釈に任せるべき範囲の線引きが、いつも精確でフェアだった(それがある種、「ハルカ」の一貫した姿勢だった)。「ハルカ」と比べれば、テレビの専門家の解説なんてちり紙上の走り書きみたいなものだ。
そのような破壊は主人公一行も然ることながら、魔王自身も積極的に、というよりはお構いなしに行っていた。砂塵に帰しても幾らでも再建できる、それこそが権力だ、といわんばかりに。断固として、徹底的で、顧みない。
そして、魔王は倒れる。主人公の死力を振り絞った袈裟斬りを受けて、これまで何百万何千万と屠ってきた命の迸りのような叫声をあげ絶命した。一行は魔王が間違いなく死亡していることを確認すると勝鬨をあげた。誰1人欠けることなく魔王を討ち滅ぼしたのだ。一行は乾杯でもし合うように抱きあって喜びを分かち合った。感動的なハッピーエンドだと、誰もが思ったはずだ。物語の内でも、外でも。
それは本当に、災害のように突然だった。一頻り皆が互いを讃え合って、その締め括りに、映画のラストシーンのように主人公とヒロインが包容を交わした時だった。
2人は、スイッチを切られたみたいに卒倒した。
ガラス同士が衝突して砕けて砂のように崩れ落ちるみたいに、2人はその場に倒れ込んだ。包容も解かれて、膝をつくとそれぞれが反対の方向に上体を落とした。陰陽の太陰太極図のようなかたちになる。
仲間が速やかに駆け寄り声をかけ身体を揺さぶるも、反応は一切ない。呼吸も鼓動も途絶えて、紛れもなく死に瀕している状態だった。魔王が死に際に呪いでも飛ばしたのか、それとも配下の魔物が近くに潜伏して狙い撃ったのか、理由はさっぱり分からない。2人から呪いの魔力は一切感知されなかったし、銃弾や矢といった物理武器の痕跡も音もなかった。追撃もない。本当に何の前触れも――それこそ呪殺を示唆するような台詞も伏線も――なく、2人は倒れたのだ。仲間は2人を担いで城から大至急撤退した。速やかに近隣の街の病院に担ぎ込まなければならない。よりにもよって、倒れたヒロインのみにしか治癒の魔法は使えないのだから。
しかし、仲間の迅速な行動も神は聞き入れてくれなかった。ヒロインはきれいな顔と身体のまま、まるで魂だけを丁重に抜き取られたようにして死んだ。死者蘇生の魔法など、この物語には存在しないのだ。主人公は死にはしなかったものの、精神が崩壊し廃人となった。まるでロボトミー手術を受けた被害者みたいに。彼を英雄と呼び喝采をあげる民衆の声は届かない。いやに澄んで後ろの方まで透けてしまいそうな瞳を開け放したまま、無気力に安楽椅子に座っている。その描写で物語は幕を閉じたのだ。
そしてその描写に、中庸の空間は表れなかった。文章がまるで人が変わったみたいに杜撰で脈絡がなく、それまであった温かみの悉くが失われていたのだ。
ヒロインが死んだ、それだけで僕は癇癪を起こした3歳児のように拗ねている訳ではない。ヒロインの死が物語に必要不可欠なファクターであり、それまでの進行と破綻のない繋がりと覚悟があるのなら、僕は落ち着きのある大人のように納得しただろう。ヒロインが登場してから死ぬまでの間を振り返り、彼女の生と死はいまこの時のためにあったのだと思わせるような説得力とリアリティ、僕はそれを欲しているのだ。たとえ心惹かれる女性に対してでも。それこそが自身の産み出したキャラクターへの責任と救済なのだと、僕は信仰している。
しかしヒロインの死は、何にも何処にも導かれないものだった。その死は主人公サイドの成長や激情にも、魔王の兇猛さや強大さの演出にも、フランツ・カフカ作品にあるようなある種のユーモアにも結び付かなかった。まるっきりの無駄死にだ。神風特攻隊の如く。命無き、物としての扱い。救いなんて何処にもない。具体的にも、そして刹那的にも。
この物語は、死んでしまったのだ。
これほどまでに惨たらしい終幕がはたして許されるのだろうか? 程度の差こそあれ憤慨している読者は他にもいるはずだ。僕は寝転んだまま腕組みを解いて、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取りGoogle検索にワードを打ち込もうとしたが、止めた。スマートフォンを元の場所に戻して、また腕を組み直す。ずずっと。
他人の感想に慰めを求めるな。
随分昔に、あるお世話になった人からもらった言葉だ。その人は先述の初恋の女性ではなく、さらに歳上の長身の男性だ。それはぐうの音もでないほどに、それこそ人を殺してはいけないくらいに正しい所見だと思う。僕は数々の偉大な音楽や物語と同じくらいに、その人自身の言葉に少なからずの影響を受けてきた。その多くが客観的にみて正しかったし、何よりも精悍だった。多くの人に愛され、尊敬されていた。憧れの人だった。その人のように強く、そして華麗に歳を重ねたいと思った。歳を取る、ではなく重ねる。その表現をまさしく体現している人に思えた。
それも、いまとなっては昔の話である。
僕は下唇を、血が滲みそうになるほどに噛んだ。そして実際にそうなる直前に、咬合を解いた。本物の血液は、いまは必要ではない。
なぁ「ハルカ」、これが本当に君の希んだ物語なのかい? 総ては悪逆無道な計略だったとでもいうのかい? 我々受け手の心を弄ぶように、まるで学校でしばしば見掛ける告白罰ゲームみたいに。表現そのものを足蹴にしたある種の余興、あるいは実験。
いや、違うはずだ。「ハルカ」の優しさと誠実さは本物だ。文章を読めば分かる。作者の思想はそこに必ず表れる。それは絵画やメロディでも同様だ。けしてまやかすことはできない。
きっと、ひどく心を損ねることがあったに違いない。最後の十数頁をまともに書き進められなくなるようなことがあったに違いない。幸せや希望を描けなくなるようなことがあったに違いない。それくらいは、僕にだって分かる。
しかしその素因は、一体何なのだろう? 「ハルカ」、いや、彼女を、そこまで虚脱させた事態とは。
しかし、想像ができない。同じ人間でも異性の、その思想を成すより深淵の領域なんて、生まれた星が違うくらいに分からない。文法の構成が正反対の言語みたいに成り立ちが異なっているのだ。そして翻訳的蓄積もない。現実に女性と交際したこともなければ、母親にも聞けない。
聞く資格がない。
創作の女性キャラクターの内面描写だって――この物語のヒロインも含めて――、作品として読み心地のよいように調整されているはずだ。包み隠さずいえば、それは優しい嘘だ。生ものの気持ちなんて知れるものじゃない。まったくの手詰まりだ。
いや、そこを明晰にできればと発想することが既に誤りなのだ。「ハルカ」とは、あくまでも他人でしかないのだから。謎は謎のままとして通り抜けないといけないことが、この世界には数多ある。地上の諍いの大半は、それを見誤った時に起こってしまうのだ。人々はそういうものに限って熱心に探り暴きたがり、気が付くと猛獣の尻尾を踏んでしまっている。ふわふわとしたものを、ふわふわとしたまま抱き続ける忍耐と度胸がないのだ。
それにしてもだ、誰か待ったをかける人はいなかったのか? とりわけは担当編集者、彼もしくは彼女は一体何をしていたのか? これで「ハルカ」の小説家としてのキャリアは、ほぼ確実に終わってしまったではないか。この作品は打ち切りになった訳でもないし、無茶な引き延ばしに苦心させられた訳でもない。現実と物語、それぞれに円満な締め括りを飾る機会を与えられていたはずだ。誰もがそのようにさせてもらえる訳ではない。「ハルカ」には最後まで手を緩めずに、作品を書ききる責任がある。機会を与えられた人間がそれを無下にして、次の仕事次の作品がある訳がない。そうならないためにもサポートし尻を叩くのが編集者の責務なのだ。「ハルカ」の精神状態が万全じゃないにしても、発売日の延期や編集の主導でラストを構築するくらいできたはずだ。その方が、よっぽどよかったはずだ。
何故だ、……何故なんだ。意味が分からない。理解不能だ。
叶うことなら直截に問い詰めて、首根っこを掴んででも物語を修正してやりたい。長い目で見ればその方が正しいはずなのだ。作品にとっても、そして作家の「ハルカ」にとっても。しかし、それは可能だとしてもけっしてやってはいけない。「ハルカ」の内面にズカズカと、思想警察のように立ち入ることは許されないのだ。『表現の自由』と、このか弱い現実世界を壊さないために。それこそが我々受け手の礼儀であり、責務であり、不文の憲法なのだ。
僕はベッドから起き上がり、床の上に放りっぱなしにしていた文庫本をとり上げた。そして表紙カバーを元通りにし、表表紙を上にしてそこを2,3度撫でた。カバーはひんやりとしていて、まるで鯨類の皮膚みたいに思えた。……さっきは悪かったよ。
まさしく虐待した後に優しくする屑親のような対応だなと、僕は思った。
僕は改めて、はじめてこの小説を手にした日のことを思い起こす。卑怯な罪滅ぼしみたいに。今度はより細密に視点を広げてみる。上空を飛行する鳥のように。無力の三人称になることを意識する。まさに記憶を跳躍するハリー・ポッターみたいに。
あれは凛冽極まる仲冬の日だった。指先ではなく手首足首といった主要関節から侵蝕される根源的な低温。風が肉食獣から遁走するレイヨウの群のように吹きすさび、衝突しあるいは通り抜ける事物によって様々な音色を奏でていた。しかしその悉くがネガティブで不協和で、まさに草食獣の恐慌の唸りとしか僕には聞こえなかった。空はあおがね色のぶ厚い雲に覆われていた。雲は一律低い位置に垂れ籠めていて、ほんの些末な切欠で地面に向かって墜落してきそうな剣呑をたたえていた。吹き流されているのか、留まっているのかもよく分からない。うんざりするような天候だが、雨や雪が降っていないだけ幾分ましだった(雨はともかく、僕の住む地域は雪がほとんど降らない)。
道行く人々の吐く白い息は風に拐われ消えていく。それは僕に、忘却を許された遠い記憶を連想させた。そして自己を成すのに手放してはならない肝腎の記憶だけを、人々はコートやマフラーや手袋の下に抱え込んでいる。
それは僕も同様だった。寒がりな僕はそのうえに、耳当てとウエストウォーマーも身に付けていた。
暮方で、じめついた倉庫のように薄暗かった。僕は下校中で、寒さに負けて帰路にあるショッピングモールに入った。ホットのキャラメル・マキアートが飲みたくなったので、スターバックスコーヒーに寄ることにしたのだ。
スタバはそれなりに盛況だった。店内に用意されていた席(約30)も9割方埋っていて、レジにも7人くらいが並んでいた。大方が同世代の高校生や大学生だった。皆カスタムに凝っているのか、入店して商品を受け取るまでに10分も要した。そのうちに暖房で身体も温まって、シロップをキャラメルに変更し甘味が増したそれを啜りながら、施設の通路を出口に向けて歩いていた。
しかしすぐに立ち止まった。スタバの二軒隣にはTSUTAYAがある。この店舗は一般的なDVDとCDのレンタル・販売だけでなく、書籍やゲームや文具の販売もしている。品揃えもそれなりによく、注文からの受けとりも可能で非常に重宝しているのだ。何より清潔に保たれていて気持ちがいい。
その日は特に用事はなかった。再説になるが、僕はとにかく量を欲するタイプの読書家ではないので、連日のように訪れている訳ではない。歩きながら考え事をしたくて買う気もないのに立ち寄ることもあるけれど、店員に目をつけられたくないのでときたまにしかしない。新品の本の匂いが好きなのだ、思索が捗る。その日はそのまま素通りするつもりだった。ところがだ、店舗の入口付近にある新刊コーナーに掲げてあった煽り文が目に入って、つい足を止めてしまったのだ。
新進気鋭の女性作家特集。
女性作家、と僕は心の中で繰り返した。それまで、僕の部屋の本棚には女性の作品は1つもなかった。過去に――致命的な心的損傷の以後に――母から宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』を勧められ借りたくらいだ(母は宮部みゆきの作品を大変気に入っている)。
男性の作品ばかりを読んできたのは、当初は単純な巡り合わせに依るものだった。ただ最近に関しては、意図的に避けていた部分が強いと思う。恐れを抱いているのだ。女性の未知に対する恐怖だ。『ブレイブ・ストーリー』が読めたのも、それ自体は男の子が主人公のファンタジーであったからだ(実をいうと、『ハリー・ポッター』シリーズの原作は読んだことがない)。
ただの気まぐれか、変化に対するささやかな夢想の顕れなのか、いまでもよく分からない。ともかく、僕はTSUTAYAに入店し新刊コーナーの前に立った。ジャンルはミステリーにロマンスにヒューマンドラマ、エッセイに新書に自己啓発など多岐に渡っていた。書籍の平積みをベースに、ブックスタンドや装飾や手書きポップを駆使して華やかに魅せている。名前を耳にしたことがある人や、まるで知らない人もいた。題名や作者名を見下ろしているだけで鱈腹になってしまいそうだ。そう思っていた中で、見つけたのだ。この物語を。
『ブレイブ・ストーリー』と同じファンタジージャンルであるところが、僕の心理的ハードルを下げてくれた。そして著者とイラストレーターが同一であること、くわえて表紙カバーの袖に彼女が僕と同じく高校生であることも説明されていた。これがデビュー作であることも。
同世代の女の子が創りあげる初々しいファンタジー、それに対する興味が心の中ではっきりと像を結んだ。痛みや傷や、恐怖を越えて。
僕は文庫本を手にしたまま、本棚の前に蹲踞した。
本棚は高さ135cm横幅は60cmのものを2つ並べてある。ホワイトカラーのシンプルなデザインだ。6段構造になっていて、上部5段が単行本や文庫本を収めるのに適した棚板の幅に均等に調整している。最下の1段はB4判サイズの雑誌もゆうに収められるスペースを確保している。その最下部には古生物の博覧会などに訪れた際に決まって購入する最新研究の平易な解説書がある程度ゆとりをもって収められている(フィギュアを集めなくなっただけで、古生物学問はいまでも僕の知的好奇心を刺激してくれる。人類が最も進化した生物の霊長ではないことを、直截的学問的に教えてくれるからだ)。そして上部5段には小説と新書がぎっしりと詰め込まれている。新書は歴史系統のみが15冊ほど、小説はほとんどが文庫本で単行本は3冊だけだ。海外文学と日本文学で比率は6:4といったところだ。ジャンルも作者名も――あくまでも「ハルカ」以外は男性しかいないけれど――富んでいる。これまで読んできた作品のほとんどが収められていて、一部は先述した物置部屋に段ボールにいれて保存してある。時折引っ張り出して読み直すこともある。これからも新たな作品との邂逅を求めていくならまた整理しないといけないだろう。しかしいまは、その気持ちがまるで湧いてこない。
僕は手にしている「ハルカ」の物語、その最終巻の表紙をじっと眺める。主人公とヒロインだけじゃない、旅の仲間が集合してこちらを向いて微笑んでいる。少年と少女がもう1人ずつ、計4人。皆本当に愉しそうで、そして爽やかだ。やはり、こちらも素晴らしいイラストだ。
いったい、「ハルカ」はこれをどんな思いで描いたのだろう? それはラストが書けなくなる以前に描かれたのは間違いない。当時はきっと、正しく幸せな気持ちになれるラストを思い描いていたに違いないのだ。4人のそれからを、「ハルカ」はどのように考えていたのだろう。
僕は4人の表情を一頻り眺めてから、タイトルを人差し指でなぞる。
『レオ』
この物語は玉響ではあったけれど、僕を救ってくれていた。しばらく立ち寄ることのできなかった書店の漫画・ライト文芸のコーナーに僕を向かわせてくれた。その時と頁を捲る間、僕は色彩と柔軟性をとり戻していたのだ。これまでもいろんな名作を読んできたけれど、ここまで救われたような気がしたのははじめてだったんだ。それなのに……、あんまりだよ、こんなの。
しかし、ずっと文句も言ってはいられない。どこかで踏ん切りをつけないといけないのだ。どれだけ述懐を重ねても、物語はもう確定してしまったのだから。これ以上はただただ虚しいだけだ。産まれもった肌の色を変えることはできない。他者の創作を受け取るとは、そういうことでもあるのだから。
ただ、我々はあくまでも個人の範囲内において、自身の想像に依って補完や差し換えを行うことは許されている。創作の土壌というのは、そういった部分からも育まれていくからだ。
そうだ、「ハルカ」には悪いけれど、ラストの部分を白紙で覆って隠してしまい、そこに自身で考えたストーリーを書きだして差し込むのもいいかもしれない。それを誰にも見せず自分だけで愉しむのだ。誰も傷つかないし、「ハルカ」もきっと、それを望むだろう。
怒りにいつまでも支配されていてはいけない。
しかし、それを行うにしても一旦時間を置こう。傷心の直後に開始してもうまく像を結ばないだろうし、もっとよい方法も思い浮かぶかもしれない。
僕は1つ息を吐いてから、本棚に戻そうとする。
これで僕は、血を流しきることができたのだ。
その時だった。
「……くん。奏くん」
突如、僕を呼ぶ声が聞こえた。若い女性の声だ。音高が高くて、春の朝に囁く鳥のような声だ。
僕は部屋中をキョロキョロと見渡したが、もちろん僕の周りには誰もいなかった。窓も閉まっているしテレビも点けていない。そもそも両親以外に、僕を下の名前で呼んでくれる人なんていないのだ。
「奏くん」
僕は手許を見下ろす。僕はついに気が触れてしまったのだろうか。
「私たちを、助けて!」
刹那、辺りは目映い閃光に包まれた。目を瞑り動揺してるのも束の間、足元が崩れ去り墜落していくような浮遊感に襲われた。そして圧倒的な意識の消失がやってきた。僕は崩れ落ちた、まるで砕け散ったガラスのように。