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腸が煮え繰り返る、それほどまでに憤っているのはいつ以来だろうか。まるで児童虐待の現場を目睹した気分だ。
鳩尾のあたりで起こる不規則な震えが、血潮に乗って全身へと伝播していく感覚。それは指先や頭頂といった末端部にまで迅速に到達し、そこで密度の高い泥のように溜まっていく。強固なデッドロック、ひたぶるひずみの蓄積。
その波及の道程において、とりわけ歯茎への影響は顕著だ。サイズの異なる他人のものとすげ替えられたように、ごわごわとして気色が悪い。やがてぐらぐらと浮いた歯間から、まさに毒虫のような苦味が溢れ出る。それは僕の思考に余すことなく作用し、びりびりととめどない痺れをもたらす。
そして、総ては唐突に臨界を向かえる。
その僕の有様をみて、大方の人間はこう口にするのだろう。
たかが小説じゃないか。
イグザクトリー。たかが小説の総括に納得ができなかっただけのことだ。
現実と創作の区別くらいしっかりとつけないと、いつまでも子供じゃないんだから、その思考は実にクリミナルだよ、と彼らはシニカルな言葉も添えてくる。こちらからアドバイスを求めている訳でもないのに。
彼らは我々に対して、一抹の憂慮も持ち合わせてはいない。そして天地が逆転しても、それを獲得するようなことはあり得ない。では何故そのようにして関わりを図ろうとしてくるのか。ストレスの解消のため、それとも犯罪者予備軍の看視のため、いや、実際はそのどちらでもない。
彼らの真意は、他者を利用した猥雑な自己正当化にある。自身の感受性が道端に落下した果物のように弾力を失って、萎んで無数の穴が穿たれていく過程をうまく感情的に消化できないから、それが現代人の正しい道理なのだとこちらの瞳に映る自分自身に言い聞かせたいだけなのだ。
目玉をねぶられるみたいに不愉快な遣口だ。
自己正当化など文字通り、自己の内のみで完結させて欲しい。とやかくそれらしいことを宣わないでくれ。僕を利用するな。そもそも僕を見つけるな。それこそここから母のいるところまで、はっきりと聞こえるくらいの声量で、「くそったれぇい!」と吐き捨ててやりたい。僕がパンクロックバンドの「Green Day」から学んだスタンスの1つである。
まぁ、現実にそれを実行する勇気はないのだけれど。
僕は口腔に溜まっていた唾を飲み込んだ。液体のはずなのに、まるで砂漠を飲み込んだ気分になった。
そのたかが小説について、僕はこれから語らなければならない。勿論そうしないことには、何故僕がこれほどまでに狼狽しそして激昂しているのか君に伝わらないからだ。
ただし、それは目的としてはむしろ副次的だ。真意は別にある、彼らと同じように。でも安心して欲しい。僕はなにも君自身の性質を利用したい訳じゃない。正直に述べると知りたくないのだ。男性だとか女性だとか、年齢や出自すらも。それは君に対する好悪の問題ではない。君の性質に感応して、僕の語口が何かしらの変容を来してしまうのは僕の望むところではないからだ。僕が君に求めているのは中立で無性で、匿名的な聞き手であること。それ以上は望まない。それ以上はないのだ。
しかし、これまでのペシミステッィクな言葉の幕無に、君は「Radiohead」のドキュメンタリーを観た直後のように辟易していると思う。けして良い気分にはなっていないことは僕にだって分かる。醜怪なことこの上ない。文章を紡ぐということは、本来は掛け値なしに素晴らしいことのはずなのに。ただそれでも、もし君が「もうちょっと付き合ってやるよ、くそやろう」と酔狂な姿勢を保持してくれているのなら、僕はその真意について開示したい。
それはつまり、「他者を意識して語ること」の本旨についてだ。
僕はこれから、血を流さなくてはならないのだ。赤く温かく、鉄くさく粘度の高い、生命に欠かさない液体を。
勿論それは実際にではなく、あくまでもメタファーとして。これまで数多の作家が、「血を流さない赦しはない」と記してきたように。
ではその赦しは誰に乞うものなのか。世界や構造に対してか。否だ。具体的な赦しが現実にないことは分かっている。では両親か。否だ。肉親からのささやかな赦しを受領する資格を僕は有していない。となると君だろうか。もちろん否だ。聞いていてくれるだけでいい。言葉はいらない。
答は僕だ。僕は僕自身を赦すために、自身の血が必要なのだ。自身の血潮に含まれる熱く滾る負の情念をとり除くために。そうしなければ、また大切な人たちをひどく傷つけてしまうことになるから。
ただしそれは刹那的で、気休めの対応に過ぎない。喘息の患者が発作の度に薬を吸入するように。実のところ一段と効果的で根本的で、直截的な解決手段がある。それは速やかに土の中で眠りにつき、この肉体と魂を、本物の血液を、この星に返上することだ。生命という便宜的な地上の立ち位置から、すっぱりと降りてしまえばよいのだ。そこに寓意性や暗喩性も、過去の大政奉還のような厳かさも必要ない。ただ静かに、この地上から去ればいい。扉をそっと閉じるように。マッチの火を吹き掛けて消すみたいに。孤独の地平線の先に、冷たい泥に還るのだ。それがまともな筋であり、バスケット・ケースの道理に則った総括なのだ。
しかし、僕がその手段に帰結をみることを望まない人たちがいる。大切な人たちは僕に、生きているだけでいい、と言ってくれている。これまで幾度と失望させて、そして損なわれてきてもなお、側から離れないでいてくれる。居場所を与えてくれる。僕に傷つけられるより僕を失う方が辛い、と言ってくれているのだ。
少なくとも、ささやかな赦しは既に提示されているのだ。ただ、僕の損なわれた両手ではそれを受け止めることが能わず、悉くが地面へと落下してしまう。そして踏みつけてしまう、大切な人たちの目の前で。時折ぐりぐりと圧をかけてしまうことだってある。しかしそれだけが、僕が大切な人たちに見せることのできる「生きている」なのだ。血が滾っていると、それすらもできなくなってしまう。
だから、僕は語らなければならない。血を流さなくてはならない。僕が呼吸するために、食べるために、ベッドの上で眠るために。生きるために。贖罪のために。
けして遠くはない未来、時間がその大切な人たちを一縷の例外もなく連れ去ってしまった時、僕は(も)じたばたせずに星に還る選択ができるのだろうか。
この小説を手にした切っ掛けは、第一に第1巻の表紙イラストに心惹かれたからだ。白い背景に冒険者風の出で立ちをした少年と少女が、愉しげにこちらを見ている。アニメ調を基礎としているが、デフォルメーションの控えめな大人しい絵柄だ。こちらから見て左側にいる少年は1歩下がって腰に手を当てていて(背中に剣を携えている)、右側にいる少女は歯を見せながら手を振っている。まるで自分達の読者がどのような人物なのか、矢も盾も堪らず見に来てしまったみたいに。そんな素敵な印象を感じさせるイラストだった。
2人は物語の主人公とヒロインだ。構図は月並みで目新しさは皆無だけれど、描き込みが丁寧で自然な人間の美しさを表現できている。ヒロインの性的な誇張もあまり感じず、観ていて至極安心ができる。まるでモネの「ラ・ジャポネーズ」みたいだ。いや、総体的な描画のスタイルとしても、モネの影響を色濃く受けていると断言していいかもしれない。挿し絵で幾多と表現された背景の描き方に、それが如実に表れている。水と植物の処理の仕方が特別印象的だった。
勿論、そういった表現もこの世界には不可欠だ。僕自身に興味や嗜好がまるでないともいわない。豊満な乳房や臀部、またはその反対、扇情的な仕草に衣装、ボディラインやポージングやシチュエーション。それらを思いのままに創作し、また鑑賞することをとり上げる権利なんて誰も保持していない。民主主義社会の健全な運営において、それらの自由はサンクチュアリとして機能させなければならないからだ(実際の民主主義が健全とり行われているかは別として)。
僕は学問としてそれを理解しているし、国賓の如く尊重もしている。それらの自由表現が禁制された世界、それは往年のディストピア作品も斯くありきな情勢に相違ない。
創作と鑑賞の自由に飽き足らない。そこから芋蔓式に数多の自由が法律に依り制限されて、基本的人権という概念自体も鏖殺される。憲法からも、文言が削除されてしまう。社会の総ての富と自由と性を一部の人間が壟断し、我々はその社会基盤を維持するための機構としてのみ生かされる。そして白と黒と灰色と、ガス室のように冷え冷えとして角ばった造形の内に押し込められる。その窮屈でべこべことした立方体の内においては、様々な平等が実現されるのだろう。しかし、それにどれほどの意義があるというのか? まるで働き蟻にも劣る存在だ。夢を見ることも、物語に想いを馳せることも許されない。『1984』や『未来世紀ブラジル』を、1つのサイエンス・フィクションとして消費するなんて言語道断だ。ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン。
現実は、創作よりも遥かに脆くできている。そして法律は、けっして弱者の味方ではない。
何かを思いのままに創りだす自由、『表現の自由』、それは豊かな社会と生を皆が謳歌するために肝腎な理念の1つなのだ。
それでも、言葉で説明することができてもなお、僕はそういった表現を目の当たりにするのを嫌っている。生理的に、忌避している。それは苦手とか不得手といった生易しい感情ではない。もはや憎悪といって過言なしの苛烈な感情だ。憎しみ、怒り、仇。
もちろん僕が忌み嫌っているのは、その偉大な権利と理念自体に対してではない。理不尽な当てつけではないのだ。それ自体に令状を突き付けられる訳がないのだから。
僕が真に憎んでいるのは、その権利と力を妄用し自身より弱い立場にいる人間を踏みにじる無頼の輩のことだ。慾望を実際的に無配慮に相手に向けて放つことを正当化する屑たちのことだ。存在を呑み込む虚無のことだ。それはまるで生身の相手を物として扱うみたいに、資本主義的手段を持ち寄ってくる。不完全性の、一方的な搾取。僕はその怪物たちが放つ負のエネルギーの余波をもろに食らってしまったのだ。夢や目標とか、そういったポジティブな気持ちを根刮ぎ引き裂かれてしまったのだ。そして僕の内奥にも、その怪物が根を張って息づいていることを暴きだした。目を覆い、鼻を摘み、耳を塞ぎたくなるほどの異形。これが僕の本質だなんて、受け入れたくない。僕はその諸々の怨恨を、そういった表現から連想せずにはいられないのだ。どうにもならないことなのだ。
また、話を戻す。
僕は直観的な画商のように書店に平積みされていたそれを手に取り、ためつすがめつ眺めた。そして著者とイラストレーターが同一人物であることを知った。これが第二である。名は「ハルカ」。
僕は購入を決意した。
タイトルは短く前時代的で、昨今のトレンドとはまるで対極だった。有り体にいって、イラストがなければ埋もれていたと思う。
しかしその中身、つまり文章には、焼けそうになるほどに生々しい、情熱を越えた執念があった。文字1つ1つが小さな生物に姿を変えて、僕に拾い上げて欲しいと総身をうねらせていた。密やかな呻きまで聞こえてくるようだ。それは声というよりは、無数の昆虫が羽を擦り合わせているようなパリパリとした音だ。
もしそのメタファーを他者と共有できるとして、大方の人間にはそら恐ろしい光景に映ることだろう。深海の熱水噴出孔に群がる奇々怪々な生物たちのような薄気味悪さ。ゾッとして、総身が粟立つ。しかし、表現の本質とはまさにそれなのである。
僕はその生物の訴えに任せて頁を繰っていった。1頁1頁を稠密に、まるで味も失せた氷菓の棒を歯形がつくまでねぶるみたいに。
文章が巧緻という訳ではない。僕が元来好む文章的装飾や見栄といったものは一切ない。青臭く、愚直な文章だ。比喩も直截的過ぎて遊びや含みがない。土方歳三みたいだ、と言ってどれだけの人が分かってくれるだろうか。
ただし、先ほども述べた執念は圧倒的だった。逃げの表現は一切なく、総てに責任を持っている。キャラクターや描写に対してなんとなくや、役割を与えただけなんて澆薄なこともしていない。総てに確かな人格とストーリーを与えてあるのだ。有機物にも無機物にも。山を削って人工島を造るように、表現を着実に積み重ねていてとりとめがない。そして満身の力を込めて僕に、読者にぶつかってくる。その衝撃は「Oasis」のアルバムを聴いた時ととてもよく似ている。
表面的で安直なスキルやレンジではなく、奥底から滲み出るロックンロールで人の心を捉えるのだ。
そのような文章――そして音楽――は、僕には到底紡ぐことができない。
剣と魔法の世界で主人公の勇者とその仲間が魔王の討伐を目指す王道のストーリー、読者に親切な設定と用語、ファンタジーをより耀かせるリアリティ、味方でも敵でも魅力に溢れるキャラクター達、そして物語の核となる美しいヒロイン。
とりわけヒロインに対して、僕はある種の好意を抱いている。異端なほどに烈しく心惹かれている。彼女のことを想うだけで、頬が紅潮し全身の関節に油を差してもらったような高揚感に震えてしまう。脳みそが痺れて呼吸も浅く苦しくなってしまうのだ。拍動が僕の無意識裡から飛び出して、すぐ耳許まで上ってくる。それはバスドラムのように重く耳に響く。その響きは際限なく増幅し、遂には僕の後方の地面を崩壊させてしまう。
それら僕の生理的反応について、気色が悪いと思って頂いて構わない。ただ弁解ではないが、これまで創作のキャラクターに対して、これほどに生々しい好意を抱いたことなどなかったのだ。
しかし、僕は生来のフィクト・セクシャルではない。
僕の初恋は、現実の年上の――それも一回りも上の――女性に対してものだった。春先の日向を連想される恋慕だった。先ほど述べた烈火のような想いではなく、どこまでも優しく安穏とした気持ちだった。前後左右どころか上下の隔てなく、好きなところへ歩めそうな解放感。現在とはまるで対極だ、旧居と新居の差違と同じくらいに。それは彼女たちの個性や次元の差違というより、むしろ僕自身の経年や体験に依る総体的な変質の所為なのだと思う。
ただ、何も伝えることができず、季節は梅雨に移った。黒い梅雨だ。生温く不快な湿度、それと対照的な雨粒の骨身に染み入る冷ややかさ。いまもその只中だ。総てにおいて、苦々しい片想いだった。
そのように僕の心を惑わせる力は、優れた小説家の発揮する魔術に他ならない。優れた小説家は創作と現実、2つの溶け合った中庸の空間を創り出し、そこに我々を招き入れてくる。寓話的な猫のようにくいくいと。
その空間では文字上の情報だけではなく、物語の肝腎なファクターが本当に目に見えて、聞こえて、感じるのだ。ハリー・ポッターの映画シリーズ『秘密の部屋』にて表現された、ハリーがトムリドルの日記から彼の記憶を覗き見たシーンを想像してもらえると、より俗耳に入りやすいと思う。文章を読むにあたってあるポイントに到達すると、まるで気絶するように眼前に文字が迫ってきて、気がつくとある場所に立っている。それは現在読み進めている物語の世界だ。
勿論、それは厳密に物語世界そのものではない。いうなれば、それは物語世界の「虚像」なのだ。実体ではなく、触れようとするとまるで死んだばかりのサム・ウィートのように総てがすり抜けてしまう。
死んだばかりのサム・ウィートのように。うん、悪くない表現だ。語感も申し分ない。しかしもう一息、不足だと感じる部分がある。彼が、つまり『ゴースト ニューヨークの幻』の主人公が触れようとしたのは実存であり、自身こそが虚像的存在になっていた。そこまでを聞くと、こちらとまるで対極に思われるかもしれない。しかし、そうではない。僕自身も――ゴーストとは違うけれど――ある種の虚像的状態にあるのだから。精神乖離? 思念? 何と言い表すのが精確だろうか? まあ、いいや。
即ち中庸の空間とは、優れた小説家が読者と物語、けして交わることのないそれぞれから抜き出した虚像を、ピタリと重ね合わせる奇跡の御業のことなのだ。そこでは情報伝達の齟齬や限界が実質的に消滅する。表現の領分を正確に量れるもののみが到達できる無限の境地。まさにヴァルハラのような場所だ。
そこでは互いに干渉しあうことはできない。先述したように触れられないし、声を相手に届けることもできない。しかし、それこそがよいのだ。何ものにも、僕自身にも妨害されることなく、物語の進行を愉しむことができる。僕はただ無力の三人称になって、物語に吹く風を、陽光を、熱を、雨を、砂塵を、足音を、梢を、せせらぎを、声を、息遣いを、戦闘を、群像を、すぐ近くで見届ける。強烈な光が表れると実に眩しいし、紫煙の充満する締め切った部屋にいると本当に胸が苦しくなる。声や音は立体的に聞こえるべきところから聞こえてくるし、温度は確実に僕の体温調節機能にリーチする。それでも直截的に、互いが互いを傷つけることはない。
僕はそこにはいない。でも、僕は彼らを具に観ることができる。
僕はそれらファクターから頂いた感動を惜しみ無く解放し表現する。普段できないような満面の笑みを浮かべたり、高笑いをしたり跳び跳ねたり。気を遣うべき他者なんて、中庸の空間のどこにも存在しないから。
ような、ではない。まさしく、それこそがヴァルハラなのだ。
しかしそれもまた、夢幻の、刹那的な情景にすぎないのだ。