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96.昼餉に漂う 其の三

 庭に面したキッチンのドアから外へと飛び出す。

 井戸に備えつけられたシンクに水を貯め、サイドの樋の栓を抜いてタライに移す。

 この作業もだいぶと手慣れてきたものだ。


 汲みたての水に握りしめたフォークを沈めれば、キィンと冷えた温度が一気にボク――【イオリ】の体温を奪っていく。

 ジンジンと痛む手を、ギュウと握り込んだ。


 ―― ……帰れるんだよね?


 縋るようなセージの声が、頭の中で反響する。


 別に驚くコトではない。

 彼の意志は知っていたし、そもそもそのために旅をしている。承知の上だ。


 ……でもまさか、そのゴールが向こうからやって来るなんて。


(早すぎる……)


 まだまだ全然先の展開だと思っていた。

 ビギナーであるからして、トレーニングをしながら少しずつ進んでいくのだと思っていた。

 安全優先で、時間と日数をかけてゆっくりと……


 胸の奥が苦しくなる。


 ジーノとアルゴ……ゴールである西の都の住人。

 彼らはすんなりと迎え入れるだろうか。

 アルゴの風魔法なら、ボクら二人を西の都まであっという間に連れて行けるのだろう。

 それでこの旅は終了となる。


 ここで、旅は終わ……――


「――……嫌だ」


 こぼれた声に、手が震える。

 たゆたう水に映る顔はヒドく歪んでいた。


「……帰りたくない……」


 ポタリと落ちた本音は波紋を広げ、ボクはボクを視認できない。

 まるで心の中を映しているようだ。


 だって、まだ始まったばかりだというのに、これでオシマイだなんてヒドすぎる。

 ()()()に戻る覚悟なんかできちゃいない。

 もっと見たい、もっと知りたい。いろんなモノを食べてもっと強くなってこのメンバーで……


「…………早すぎるよ……」


 震えはヒドくなるばかりで、声にまで移るから。

 ボクはさらに強く手を握りしめる。


――フッ、と影が差し、音もなく視界に大きな手が入りこんできた。


 水の中に突っこむとボクの手を掴んで引きあげる。

 浅褐色の大きな手が握りしめた拳をすっぽりと覆い、飛び出たフォークの先端に集まった水滴がボタボタと滴り落ちた。


「いくら外が暑いからっつってもよ、凍傷になっちまうぜ」


 頭上から、よく知った声が静かに降ってくる。

 背後から重なった影が、まるでボクを閉じこめるように包みこむ。

 けれどボクは、その正体を見上げるコトもせず、返事もしなかった。


 胸が詰まって、声が出ない。

 顔なんて、見られたくもない。

 逃げ出せばいいものを、包む手がジンワリとあたためてくれるから……振りほどけない。


 もとより逃げおおせる相手でもないのだ。ボクは諦めた。

 諦めて、ただ黙って俯いていた。


 すると何を思ったのか、相手はおもむろにボクを持ち上げると、放り上げるようにその片腕に乗せた。

 バランスを崩しかけ、思わず彼の頭にしがみつく。

 オレンジ色の髪がくしゃりと乱れた。

 その拍子にフォークがこぼれ落ちるが、それも空中で彼の手によって回収される。


 低くなった塀。屋根が近い。花壇の向こう側が見えた――高くなった視界に息をのむ。

 前におんぶをしてもらった時以来の景色に、胸が躍った。


「……ボクも、いつかこれくらい背が伸びるかな」

「したらもうその服は着れねぇな」


 期待を込めて呟くも、にべもなく返される。

 レイからもらった服なのに……ヤなコトを言う。

 だけど、次の目星はすぐについた。


「そしたら、次はこの服を着るよ」


 彼の襟首あたりを思いきり引っ張ってやる。

 耳もとのフリンジが、ボクの手をやわらかく撫でた。


「ハ、いいぜ。ズタボロになってなきゃあな」

「……言質はとったからね」


 広くなった庭を眺めながら言ってみせる。

 一度も見上げてこないヤカラが、笑った気がした。






 ***






 ――くれぐれも大人しくしていて下さいねっ!


 最後に念を押すと、使者は名残惜しそうに卓上に目を向けながら立ち去った。

 慌ただしく駆ける足音が遠ざかると誰からともなく箸を持ち、徐ろに昼餉が始まると共に大皿に盛られたロールキャベツが瞬く間にその嵩を減らしていく。

 異世界流の肉団子は、どうやら山の連中にも受けたらしい。


 卓の向こう側、恍惚とした表情で栗鼠の如く頬を膨らませるロンの様子を視認し、胸中で一息吐く。

 広場での一件以降くっついて離れなくなったロンを、担ぎ上げたりクルクル回したりと手を尽くしてみたが、結局は美味い飯が一番の薬となったか。

 この様子ならば後は当人次第で立ち直れるだろう。


 勧められた皿に応えるべく、己――【ヤカラ】も箸を取る。


「――やはり如何様な企みがあれど、我等は予定通り今夜には此処を発たねばなるまいな。向こう方に訝しまれては一筋の糸も煙に変わろうて」


 己が箸を付けたのを見届けて、ロンの祖父が話の続きを進める。

 今しがた教会からの遣いに、下手に動いてくれるなと懇願されたばかりだと思うんだが……


 手始めにロールキャベツに箸をつけた。


「けどよ、こうも大っぴらに宣伝されちゃあ知らぬを通す方が不自然じゃねえか?コイツぁ明らかに不和を狙ってやってんだろ。ここで黙って帰ったんじゃあ相手は調子に乗るだろうぜ」


 芹や茗荷を鴨肉の燻製で巻いて食む老人を前に、鴨の炙りに黒スグリの蜜煮を付けて口に放り込む。


「さりとて、我等が神竜の意向に反する訳にもいかぬ。此方が務めて不動を構えれば、向こう方の思惑も通らぬだろう?」

「その内にまた厄介な噂流されたらどーするよ?そーやって身動き取れなくなってたばかりじゃねーか」


 炙りに擂り山葵を添える老人に、己は煮込みを実山椒と共にかぶり付く。

 山葵を乗せ過ぎたのか、相手は暫し言葉に詰まった。


「……何、いざとなったら婿候補を引き合いに出すわ」

『……ゥグッ』


 思わず()せかける。……山椒が喉に引っ掛かったか。

 向こう側ではやたらと咳き込んでいるようだが。


「冗談じゃ。しかし向こう方の誰が白黒か判らぬ内は他に動きようもあるまいて。我等が此処に留まって襲撃でも受ければ更に溝は深まろう。さすれば我等が同志として動いてくれているであろう者等にとっても、重い(しこり)となるだろうよ」


 涼しい顔で茶を啜る老人に、枸櫞(クエン)の果汁をたっぷりとかけた燻製を渡してやる。

 四方からも皿が伸びてきたので其々に絞ってやった。

 端ではロンが自身の手でかけているようだが、絞りすぎないように声を掛けてやるべきか。


(……やけに広場に人が集まっていたのはそういう訳だったか)


 勝手に宣伝された噂に踊らされた観光者らが殺到し、教会は一時、混乱を極めたという。

 対応の合間に漸く湖に向かったところ、噂の出処は跡形もなく消えていたらしい。

 不穏の影が深まるが、兎にも角にも山岳民の不興を買う事態になるのだけは避けねばと、取り急ぎこうして遣いを寄越したのだろうが……

 如何せん、山の民は民事にさほど関心がねぇ。


 害ありと判断すればそりゃあ動くが、反対分子のささやかな抵抗など自然現象の一つだと捉えて放任する。

 聖地が脅かされなければ信仰の妨げにならぬのならば、何とも思わぬし何と思われても構わない。

 んな山の民の不撓(ふとう)の精神に、教会の使者は思いっ切り不安と不満をその顔に表していた。


 老人の……要約すりゃあ、一向に気に留めぬ故に帰る、の一点張りに使者は、安全が認められるまで留まっていてほしい、と両者一歩も譲らず、そのうち根負けした相手が上に報告してくると言って去ってしまった次第だ。

 ……否、卓上を一心不乱に見詰める連中の圧に耐え兼ねたのかもしらん。


「――のぅヤカラよ、山の子よ。同族として御見事な手入れを施した者に、我等とて或れ以上の助力は求めとうないわ。お主等の使命を疾く果たされよ」

「……別に手ぇ貸すとも言ってねぇだろうがよ」


 己の沈黙をどう受け取ったんだが知らねぇが、そう言われずとも己が使命を優先するわ。


 ……もし不穏の動きがキュイエールの意向を妨げるものだってんなら、率先して絞め上げに行くんだが。

 そうでない限りは――……


 更に一息吐き窓に目を向けたその向こう、ある建物から出てきた人影に……仕方なく席を立つ。


「――そうさなぁ、確かにアイツらの旅に同行する事こそが己の務めだが……故にその道中に何があろうが、俺は付いて行くだけだぜ」


 振り返ってそう告げりゃ、視界の端でロンがギュムリと顔を顰めていた。

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