78.煌々と秘かに輝くは 其の三
次に瞼を開けた時、俺――【レイ】達は湖の上に立っていた。
ここが湖の上だと分かるのは、自分達を囲う光の膜の向こう側、薄ぼんやりと湖畔の形状が見て取れたから。
足下では鏡面のような水の中、魚が悠々と泳いでいく。
月のように仄明るい空間を眺めながら、これまでの経緯を振り返ってみる。
この地は、遥か昔から丘の上に湧き続ける泉が湖を形造り、緩やかに溢れる水が段を成しながら遠く離れた下方の川へと流れる、この辺りでは有名な景勝地だ。
碧く澄んだ水溜まりが幾重にも続く景観は素晴らしく、各国から観光に訪れる者も多い。
そんな観光者はおろか地元民すらも通らないような裏道を、眠りこけるイオリを背負い、皆より先にこの湖の畔へとやってきた。
天に流れる川の下――虫の音、波打つ水の音、夜鳥の羽ばたき。
辺りにその他の気配は無い。
問題のない事を確認した矢先、後続のセージと合流したとたん、辺りごと眩い光に包まれて、気が付いたら水上を地面を踏みしめるが如く立っていた――と。
やはり、振り返ってみてもワケが分からない。
古くから知られているだけに、この湖には実のない伝承も数多いが、様々な噂が飛び交えども、実際に事が起こった話は聞いたことがないし、このように人を湖の真ん中に攫う光球が現れる現象など初めてだ……と思う。
いったい、今度はどちらさまの仕業なのか。
「セージ、おいで。イオリもちょっと起きて」
手近にいた二人を引き寄せる。
セージは呆気に取られつつも大人しくしてくれていた。
こんな時でも起きる気配のないイオリは大したものだと思う。
ヤカラとはどうやら逸れてしまったようで姿が見当たらない。
ここは北と東の国境の狭間に位置している。
あわよくばとも思うが……実際どこまで対応出来るものか。
「――驚かせてすまないねぇ。いきなりだったろう?」
不意に湧いた気配に、とっさに腰の獲物に手を伸ばしかけ――見据えた先の相手にあ然とした。
――キュイエール……!?
思わず上げた声は驚きのあまり掠れて音にならなかった。
「下りて早々、厄介な目に遭ったようだねぇレイや。よく堪えてくれたね」
「……っ」
穏やかな声色に、旅立ってからそう幾月も経っていないというのに、懐かしさと安堵感が込み上げてくる。
思えば別れを惜しむ間もなく、それこそもう再びと、簡単には会えないだろうと思っていた。
思わず彼へと手を伸ばし――
「なんだ、アランじゃないのか」
「おいちゃ……おにーさん、誰?」
「イオリ……セージ」
再会に感動しかけていた感情が霧散して、俺は思わず額に手を当てた。
何とは言わないけれども……うん、色々台無しになった感は否めない。
イオリは残念そうに呟いた挙句に寝直さないでくれないかな。
セージも何か引っ掛かるようだけども、呼び方には気を付けようか。
気を取り直し、あらためて彼らに向かい合う。
「二人とも、面と向かって会うのは初めてだよね。この人が、キュイエールだよ」
『キュイエール……?』
彼らの目に、相手はどう映っているのだろうか。
芥子色の髪に、淡く光を湛えた翡翠の双眼。
小柄な彼は、年の頃は俺とそう変わらないようにも見えるけども。
ポカンと見上げた二人に、もう一つ重要事項を告げておく。
「そう。そして、ヤカラの恩師でもあ……」
『はじめましてっ、キュイエール様!!』
こちらが言い終える前に、直立不動の姿勢となった二人が元気よく挨拶をする。
敬礼を思わせる手振りと揃った声に、キュイエールもちょっと引いているようだ。
なんだか無性に他人のふりをしたくなった。
「そうだねぇ、呼び方は何とでもいいのだけど……出来れば気楽にしてほしいかな」
「えぇと、ウチのヤカラがすいません」
困ったように頬を掻く彼に申し訳なく、全ての責をヤカラに押し付けて頭を下げれば、彼は一転、満面の笑みとなった。
「うんうん、あの子もすっかり打ち解けたようだね。安心したよ……彼の聡明さは、ひとつの山に閉じ込めておくには勿体ないからねぇ」
ひどく安心した様で目を伏せるキュイエールに、改めて彼の置かれた状況を思い知る。
彼はもう、あの山から出る事は許されない。
「……俺は、貴方とも旅がしてみたいよ、キュイエール」
それでも本心を伝えれば、キュイエールはやっぱり優しく笑んでくれた。
「さて、改めてましてだね、僕はキュイエール。あなた達と会うのは二度目だけれど、あの時は眠っていたからね。こうして挨拶出来たのが本当に嬉しい」
心から嬉しそうに、二人に向かって語りかけるキュイエールに、セージとイオリは互いに顔を見合わせて何やらヒソヒソと相談し始めた。
今度は何を企んでるのか、今ならヤカラもいないから……的な囁きが聞こえてくるも、さっぱり思惑が読めない。
不安に思いつつも黙って見守れば、大きく頷き合った二人がキュイエールに向かって飛びついた。
「キュイエールサン、加護つけてくれてありがとう!コレがなかったらボクたち今ごろ消えてたかも!」
「キューさんマジ命の恩人!めっちゃ助かったし〜これからもよろしくぅ!」
さっきまでの緊迫した空気は何だったのか、打って変わって気楽……さをはるかに通り越して馴れ馴れしい。
しかし、流石はキュイエール。
一瞬目を丸くしただけで、二人からの抱擁を愉しげに受け止めていた。
「うんうん、役に立てて良かったよ。アランの挨拶は少々風変わりだったろう、こちらの世界には馴染めてきたかい?」
「うんっ、アランめっちゃ可愛かった!」
「まーたしかに印象的な眼をしてたよねー。こう紫がかった……」
「あー……二人とも、キュイエールにせっつかないよ」
キラキラした目でこれまでの冒険譚を語り始めた二人に慌てて待ったをかける。
打ち解けたばかりで申し訳ないけれども、先に状況を整理しておきたい。
一応周囲の警戒はしてみるも、この空間を造り出したのが彼ならば安全なのだろう。
……それにしても。
「……『双月の湖は、竜の泉』か。ここの泉と山の神域は繋がってると聞いたけど、これも神竜の御力なの?」
「そうだね、僕も初めての試みだったが上手く渡れたよ。無事に君達を呼べたのは僥倖だったね」
「え、何レイサン。もしかしてキュイエールサンに会いにここまで来たの?」
「ね〜レイ兄〜のど乾いた〜オヤツ食べたい〜」
キュイエールに秒で懐いていた二人が、今度はこちらに矛先を向ける。
さっきまでの眠気はどこへ行ったのか、疲労よりも好奇心と食欲が勝っているらしい。
個人的には、サラリと言われたキュイエールの発言の方が気になったけれど……取り敢えずお茶の準備をすることにした。
「そっか、二人にはまだ教えてなかったっけ。さっきも言ったとおり、ここは神竜と深い繋がりがあって山の民が密かに信仰しているんだよ。その昔は神竜と対話もしていたとか……とはいえ、まさかキュイエールと会えるなんて思ってもみなかったけど」
今回は出立が急だったのもあって、薬草茶は保温瓶に残っていた分しかなく、水袋に移してきたそれをセージとイオリ、それぞれの湯呑に注ぐ。
自分の湯呑をキュイエールに手渡すと、彼はひと口啜り、満足そうに目を細めた。
「――うん、あの子が淹れたんだね。とても美味しい」
そうか、と思い至るのと同時に反省した。
薬草茶の淹れ方はヤカラから教わったものだ。
学んだばかりのお茶を、よくキュイエールに飲んでもらっていたっけ。
けれど彼がヤカラの淹れたものを口にするのは、いったい何年振りのことなのか。
(もっと、ヤカラの淹れたものを持って行ってあげるべきだったな)
ヤカラから、キュイエールから、互いの話をよく聞いてきたけれど、その二人が共に並んでいる姿は目にしたことがない。
あの山に入り、神域で倒れていた彼と共に数年を過ごしてきたけれど、それ以前に一番多くの時間を共にしていたのは、おそらくきっとヤカラであったはず。
だけど、現時点で二人が並ぶことは出来ない。
この空間も同様だろう。
神域に、普通の人間は入れない。
(俺は本当に……自分のことばかりだ)
何年も一緒にいたくせに。
二人があんまり、当たり前のように隣に居るかのように話すから――……
「――レイや」
不意に呼ばれ、ハッとした。
いつもと変わらない、穏やかな笑みでキュイエールが片手を差し伸べてくるのに、少し躊躇うも、招かれるまま彼の肩に手を回す。
厳しい山に吹き荒ぶ、乾いた風の匂いがした。
「あの子もこの二人も……そして君も、とても良い子だ。大丈夫――大丈夫だよ。もっと自身を信じなさい」
「……うん」
慈雨のように優しく沁みいる声に、目もとまで潤うから。
もう少しだけ……と、その肩を強く抱きしめた。




