71.老人の謀
――話は嵐に遭った其の翌朝に遡る。
「……ふむ、やはり坊に傷を負わせた件については、寛容相成れぬのぅ」
町に戻ってきたのが夜半過ぎ。その足で直行し、粗方の報告を済ませた後。
ここからが本題だ、と事も無げに言われた頃には、空は既に白み始めていた。
(……本題、なぁ)
確かに、此処までの過程は想定済だ。
目の前に座す老人が心血注いで育てた孫娘を、その身体に傷を負わせて返したとなれば、不眠の刑では到底足りぬだろう。
どんな無理難題を吹っ掛けられるのやら、だ。
続きを聞く前に、体を大きく動かしておく。
町から一晩走って床で寝て、事が済めば馬車で寝る……そりゃあ骨も鳴るわな。
「おらレイ。本題だってよ」
バキゴキと無遠慮に鳴り響かせてから、隣で寝ていた男を突付く。
靭やかに座禅を組んだその姿は微動だにもせず、即身仏を連想させた。
実際、スヤスヤと微かな寝息が聞こえてこなけりゃ疑って叩き起こしていたが。
「まー、お前さんだけでも良いんだがの」
己――【ヤカラ】等の疲労具合も知っているだろうに。
レイの狡にも老人は特に気に留めた体も無く、何処に持っていたのか、己の前に包みを寄越した。
解けば、目に鮮やかな朱色の羽織が折り畳まれている。
コイツぁ随分とまぁ、見事な刺繍だ。
「見た事あるだろう、山の祭事服だ。婚礼の儀にも用いられているだろうが」
「……はぁ」
嫌な予感しかしねぇ。
「察したようだの。責任を取るというのなら、坊を娶ってくれんかの」
「断る。俺の魂はキュイエールに捧げている」
「ならばレイ……」
「コイツも無理だ。惚れた相手がいる」
己の宣言に、前からも隣からも圧が迫る。
……想定の範囲だろうが。
前を見る。己の在り様は周知の事実だろ?
隣を見る。……いや、何の話だみたいな顔されてもな。
……判る、だろ?
何方にも面倒臭ぇからこれ以上声には出さねぇが。
こちとら疾に眠いんだよ。
・・・・
結局のところ、その日は拉致の明かねぇ問答を強引に締め括り、再度眠りこけたレイの首根っこを引っ付かんでその場を後にした。
後に子供らから聞いた話だと、あの老人は夕刻にも顔を見せに来たらしい。
それから数日経ったが、その間も何故か一切の音沙汰も無く。
(ま、お陰で存分に休めたし、そろそろ何食わぬ顔で旅立ってやろうかと企んでいたんだがな。やはり見逃すつもりは無ぇか)
――婚礼衣装の送贈。
しかも己とレイの双方に、ときたもんだ。
意味合いとしては、旅立つ前にどちらでも構わんから置いて行け、というのだろう。
「……ヤカ兄とレイ兄が……」
「結婚……ロンと?」
暫しの沈黙を経て、漸くセージとイオリが声を絞り出した。
食いかけのツマミを取り落とし、揃って呆けた面を向けてくる。
「いやだから、しねぇつってんだろ。互いが納得する形で折り合いを着けるつもりだ」
「そうスよ!ハナシちゃんと聞いてたスか!?ジブン、こんな意志のない婚約なんか絶対嫌スからね!」
先刻も説明した筈なんだが……コイツらは寸劇でも眺めるよーにボケッと見ていたからなぁ。
「ご、ごめんって!でも結婚って……え〜だってロンだってまだ子供じゃん?しかもレイ兄とヤカ兄とって……えそれってロリコ……むぐ」
青筋立てて詰め寄るロンに狼狽するセージが何やら口走りかけたところに甘味を突っ込むイオリ。
コイツも今しがた一緒になって驚いていたくせに、もう落ち着いたもんだ。
「要は、大事な大事な孫娘を傷モノにしたんだから責任を取って一生養え、ってコトなんでしょ?たしかに、この二人なら、どちらを選んでもちゃんと稼いでくれそうだものねー」
「ねぇイオリ、言い方……」
退屈そうに甘味を突っつきながら己とレイを交互に見やるイオリの、内容としては間違っちゃいねぇ要約にレイが困った様な声を上げる。
だが、そんなレイの心中もイオリにとっては何処吹く風だ。
「あのオジイサンさ、何か企んでるよね、他に。だってボクたちの事情は知ってるんでしょ?前に会った時は、強引で話聞かずな頑固ジジィって印象なかったんだけどなー」
「は?爺様を悪く云う奴ぁ許す気無ぇスけど」
前に会った時ってぇのは……あぁ、己等が寝ていたって時か。
しっかし疲労が限界に達していたとはいえ、老人の侵入に気付かなかったってぇのは我ながら情けねぇ。
ついと隣を見れば、此方はこっちでレイが何やら思案し始めやがるしよ。
(其れはそれで面倒臭ぇんだよ……ったく)
再び、呑気なイオリに苛ついたのか突っ掛かるロンに視線を戻す。
この二人もまぁ歳の頃はそう変わらねぇ筈だが、何せ鍛えられてきた年数が違う。
イオリも筋は悪くねぇんだが、頭に頼る癖があるからか初動が遅い。ロンとは勝負にもならねぇだろう。
(だが、その分というか何つーか、相手の心理を読み解く力は長けてんだよな)
ロンも大人に囲まれて育ってきた筈なんだが、イオリの其れはどうにも質が異なっている。
現に、大人と同等の闘気をチラつかせるロンに対して、イオリは怖気付いた様子もなく冷めた目で眺めているだけだ。
相手が己に手ぇ出すつもりがない事を見抜いてんだろう。
「はぁ……んなコト言ってないだろ。むしろあのオジイサンかなり思慮深いヒトだよ。ちゃんとこの二人のことも大事に考えてるしさ」
「うん、あのじーちゃん優しいよ!レイ兄とヤカ兄にだってさ〜、まだまだ寝足りないか……甘えとるのう、って言って起こさなかったんだよ」
そいつは思うに、まだまだ寝足りないか……甘えとるのう、と云う意味に聴こえるんだが……いや、己の邪推だな。忘れるか。
セージと己との、老人に対する解釈の違いに人知れず頭を振る。そんな事ぁどうでもいい。
「それで、どうするの?ボクたちの旅に、ロンも付いてくるの?」
「えっ……いやいや無理っスよ!ジブンはいずれこの町の管理を任される身なんスから」
「はぁー?こっちだって旅してるんだけど。付いてくる覚悟がないんなら気安く手ぇ出さないで欲しいんですケドー」
「だからっそれはジブンの意志じゃないって!!」
……どうやら、イオリの頭には己かレイの何方かが離脱するという可能性なんざ微塵も無いらしい。
「あー、そーいやその引継ぎの件は爺爺が決めてた事だったな。するってぇと、やはり辻褄が合わねぇか」
「……確かに可怪しいスね。それに、爺様は他者の道理を曲げるような指示は出さない筈ス。……ジブンにもそう教えてくれたのに」
山も人の行く末も、自然の流れに沿う様に手入れをする老人の背を思い浮かべる。
らしからぬ祖父の謀に、ロンも漸く訝しんだようだ。
ふと気付くと、セージがボンヤリとした顔で己を見上げていた。
妙に静かだと思っていたが。
「んだよ、何か付いてっか?」
「んあ。んーん、そーゆーワケじゃないけど……」
当人も無意識だったのか、己の声にコテンと首を傾げる。
「なんだかヤカ兄、嬉しそーだなって思って〜」
何に釣られたんだか嬉し気なセージの額を、無言で小突いてやった。
***
あれから特に何の進展も無いままその日は終わり、翌日を迎えた。
今日の朝はヤカラを一人部屋に置いて、子供達と裏庭で鍛錬をした後、今は昼食を済ませて休息している。
宿の一室に戻り、その寝床の上で揃ってお腹を見せながら昼寝する二人に薄掛け布を被せ、先に卓で寛いでいるヤカラの前へと腰掛ける。
同時に湯呑がコトリ、と俺――【レイ】の目の前へと寄越された。
「よぉ、午後はどーすんだ。俺ぁ作業に移るがよ」
自分で煎じた薬草茶を啜りながら、ヤカラは卓上に置いた袋をポンポンと叩く。
昨日、散歩と称して買い出してきたモノだ。
彼が言うには、作業自体は半日あれば充分だとの事だが、今回泊まり込んでいる宿は四人まとめて過ごせるようにと選んだ大部屋。
部屋の隅で作業してもらうとしても、三人も同室に居れば集中出来ないだろう。
「うーん、また外で鍛錬してもらうか……あぁそうだ、図書館へ連れて行ってみようかな」
近頃セージが本に拒否反応を示すようになってしまったし、今日くらいは絵本でもいいから、のんびり眺めて過ごしてもらうのもいい。
「ふぅん、いいんじゃねぇか。彼処は確か、図録なんかも多く揃えてあったぜ」
「へぇ、ヤカラも利用した事あるんだ?」
彼が書物に耽る姿など山でも見かけたことがなかったので意外だ。
存外博識だし、この町にはよく来るそうだから実は好きなのだろう。
「まぁな、キュイエールの伝記があるからな」
「あぁそう」
予想ついて然るべきだった答えに頷きつつ湯呑みに口をつける。
今日のお茶は僅かな塩味と後口に残る紫蘇の香りが良くて落ち着くなぁ。
それにしても彼のこの信念というか執着というか、本当にブレない男だと思う。尊敬はしないけども。
「というか、彼が出した本も置いてあるんだ?」
「いや、誰かから伝え聞いたような話を一冊に纏めたやつだったな。キュイエールに聞いたら覚えの無ぇ逸話も混じってるってよ」
「あぁ、そうだよね。一般公開なんかされる訳ないものなぁ」
置いてあるとしたら国の蔵庫あたりだろうか。
流石にそんな所に出入り出来るような伝手は……
「おいレイ、まさかキュイエールが書いた本が在るのか?」
「さー、俺は見たコト無いからな〜」
「返答になってねぇぞ。今の物言いは存在してるって事だろ!何処に行けばあるんだ!?」
「さー、誰かから伝え聞いた話なんて信憑性がないからな〜」
さて、そろそろ二人を起こそうか。
立ち上がると、地を這うような声が追い縋ってくる。
「おいアンタ……後で覚えてろよ。それより外では他所と関わんじゃねぇぞ。念の為にな」
「何に対しての懸念なの?それ」
この数日で、あの事件の残党は一掃されたと聞いているし、火薬事件で出払っていた山岳民も戻ってきて町の安全性も高くなった。
その間は俺にイオリにセージ……要はヤカラ以外の全員が寝込んでいたのだけど、それも概ね回復した。
気を緩めるつもりはないけれど、そこまで警戒しなくてもいいと思うくらいには安定しているはず。
なのに、彼は何に対して備えているのだろうか。
そう思って彼を見やるのだけども、ヤカラはたった一言呟いただけだった。
「……そりゃアンタが存外見境ねぇからだ」




