57.雲中の二匹 其の二
奥まった部屋の扉を開けりゃ、異臭と湿り気を帯びた空気が鼻を突く。
曇天の窓に採光は望めねぇというのに、寝台に掛かる天蓋は厚く閉ざされていた。
「……重いスね」
天蓋を開け放したロンが眉根を顰める。手早く口元を覆ったのは伝染を恐れてだろう。
その目下には、厳しい面の男が横たわっている。
弱々しい呼吸音と最早一滴の汗すら出そうにもない乾ききった肌が、その男の容態を物語っていた。
「このヒト、ここの現当主っス。この数ヶ月姿を見ないとは思ってたスけど、まさかここまで酷くなってるとは……」
打つ手無しと判断したのか、その場から動かないロンを片目に残し、手持ちの薬湯を布に含ませて男の唇に当ててやる。
「――おい、言い遺すコトはあるか?」
「…………後、継は……息子の、ダンに……譲る」
己――【ヤカラ】の言葉に、男は薄っすらと目を開けた。
焦点の合わぬその目には執着に満ちた意志がギラついている。
「息子が継がぬなら……ば、我らが血筋など……絶えればいい……っ」
憎悪に満ちた言葉を絞り出し切った男は再び眠りにつく。
今際の際と思って吐き出したんなら、それがこの男の本心なんだろう。
「ロン坊、煎じてやれ。俺等はここを離れる」
「えっちょっ……ジブンではもう間に合わないスよ!?今から病原特定するなんて……」
踵を返した己の背にロンが慌てて声を上げる。
確かに男の脈も臭気も、病人特有の症状だが……
「よく嗅いでみろ。ソイツは病じゃねぇ」
放置された部屋の臭いに混じった草の香。コイツは元来薬として配されるもんだが、加減を違えりゃ毒になる。
誤って盛られたのかどうかは、少なくとも、この男には判っているらしい。
己の放った声にロンの顔つきが変わった。
もう十分だろう。
「……――それで、ヤカラ?」
部屋を抜けた己に、今度はレイの声が掛かる。
目を向けてやったのに、レイは扉の前に立ったまま。部屋の中の男を見据えていた。
「この人はどうだったの?」
「さぁな。ただ、火薬の匂いはしなかったぜ」
訊ねて向けるその目の奥に、何かがチラと揺れた気がしたが、敢えて無視してやる。
「大方、跡目争いとかその辺りだろ。ロン坊が掻き集めた噂だと一連の首謀はその息子となっちゃいるが、あの口振りだと嵌められてんのかもな」
「そう……だね……そうか。それなら、彼がこの部屋に閉じ込められてるのも理由がつくか、な。裏の人間も自由に出入りしてたみたいだし、何も知らない可能性もある、かも」
ふ、と肩の力を抜く様に息を吐いて、レイは再び部屋の中を見やる。
些か自身に言い聞かせている節があるが……現当主との対話で、己とレイの見解は一致したようだ。
――ここの当主は息子に跡を継がせたがっているが、それに反対する者が息子を貶めようと画策した――
その内容は、村の爆発と町での拐かしの主犯にさせる事らしい。
邪魔をされないように当主を弱らせ監禁しておく。
荒くれ者を雇い入れ、頃合いをみて両者を屠ればこの家の主導権が手に入る。と、そんなところだろう。
尤も、その荒くれ者の大半はあの村で片付けちまったみてぇだが。
「で、話の続きだがよ。例の再現と火薬とは何か関係があんのか?」
クイと顎で先を促すと、漸くあの男への関心を逸らしてくれたようだ。
己の方へと歩み寄ってきたレイの目に、険はもう無い。
「いや、少なくとも、今まで見てきた中では火薬と関係した儀式はなかったよ。今回のこれは別件かもしれないね」
「んなしょっちゅう見かけるもんなのか?その胸糞悪い儀式はよ」
「そうだねぇ……雷帝に限らずとも、イシマトイを作りたい輩は後を絶たないんだよね。人為的な儀式なんか何の意味も持たないのにねー」
「俺に当たんな。ならさっさと首謀者見つけて教えてやんねぇとな」
すっとぼけた様な面で棘を含ませる姿に、ほんの少しだが安堵する。
先へ進みかけた己等の背に、部屋から慌てて飛び出してきたロンがまた声を掛けてきた。
「あのっレイ先生、ヤカラが暴挙に出ないよーに監視をお願いするス!」
すぐ追いつくんでー、と部屋に引っ込んだロンに、呑気なもんだな、と胸の内で呟いた。
もし仮に、『雷帝の再現』の首謀者がその当主だ、と判断されていたら、暴挙に出るのは己ではなくコイツだったろうに。
「……監視してんのはこっちだっつーの」
フワリと笑んだその面は、誰に向けてのものなんだかな。
***
それから二人でいくつかの部屋も見て回ったけれど、どこも同じような有り様だった。
どの部屋でも調度品や家具の装飾品の部分的なものまで、いっそ清々しい程に金目のものが剥がされ須らく持ち出されている。
それはそう、盗賊稼業の輩を雇った時点でこうなる事は目に見えていただろうに。
ともあれ、特に目新しい情報は手に入れられないまま。
正面口の広間に到着すると、ちょうど玄関から誰かが入ってきたところだった。
「お、昼間に町を回ってた灰装束じゃねぇか。丁度いいな、レイ。アイツらに教えてもらうか?」
柱の陰から様子を伺っていると、俺――【レイ】の頭上からはしゃぐ様な声が降りてくる。
勿論、隠れているので声は抑えてくれているけれど。
全員が同一色の布地で全身をすっぽりと覆い隠しているというのに、この赤スグリの目をした男は、広間の灰装束が町で見かけたのと同一人物なのだと、一目で見抜いたようだ。
昔、一緒に旅をしていた仲間にも同じ特性の者がいたけれど、この芸当は未だに真似できないし、ここまで来ると最早変態的というか何というか……
勿論、そんなことは言わないけれど。
思考を切り替え、どうするか模索する。
このまま泳がせても良さそうだけど、そろそろあの子達のおやつを用意する頃合いだ。
そもそもまだ体が本調子ではないのだし、この辺りで休みたい気持ちもある。
ここは手っ取り早くこのヤカラに絞め上げ……もとい話を聞いてきてもらう方法がいいのかも。
その間にも、広間に居座った彼等は背負ってきた籠の上にどっかりと腰を降ろし、仲間内でワイワイと談笑を始めた。
中には頭巾を脱ぎ捨てたり、どこに持っていたのか酒瓶を煽る者もいる。
「……なぁ。一応聞くが、アレらは本物か?」
「そんな訳ないでしょ。本当の灰装束は生者と関わらないし、関われない」
前者であるならば、此の世を棄てる意志がある故。
後者は意志すら持たない故。だ。
何方にせよ、こうやって他人の家に入ってきて我が物顔で寛いだりはしない。あれは正真正銘、只のならず者達だ。
それに、あの系統の顔触れは……
「一応言っとくがよ、レイ……」
いつの間に立ち位置を変えたのか、すぐ耳元で吐息の如く絞りきった声が掛かる。
「アイツらから、火薬の匂いがするぜ」
・・・・
「……ヤカラは、何をやってるんスか?」
何の迷いもなく偽灰装束を縛り上げた頃、処置を終えたらしいロンが追いついてきた。
その顔と声の明るさから、現当主の容態は大分と安定したのかもしれない。
しかし駆け足で広間に入ってきた途端、ロンの表情は怪訝なものに切り替わっていた。
細めた視線の向こうには、ぐったりと倒れ伏す偽物達と、ソレが背負ってきた籠に頭を突っ込んでいるヤカラの姿がある。
「……っあー、この中身は日にち経ってんな。花売りか何かだろうな」
籠の底から萎れた花をつまみ上げ、ヤカラが顔を出す。
「同じ場所へ運び出してんな、土の匂いが一緒だ。死臭はしねぇから全員生きたまま運ばれたろうが、その後はどうだかなぁ」
ひと通りの籠の中を嗅ぎ終え、顔を揉みながら戻ってくるヤカラを見て、ロンはコクリと首を傾げた。
「……犬スかね?」
「おうロン坊。そーいやぁ鼻が鈍ってたよなぁ?一寸鍛えてやっからこっち来い」
「嫌スね。つか、ヤカラの鼻はジブンらの中でも異常だって爺様が言ってたスもん。絶対敵わないス」
いい笑顔で手招くヤカラから隠れるように、俺の後ろに入り込むロン。
行動があの子達と被って見えるのは、年代のせいかもしれない。
「あ?俺が異常なら爺爺連中は化け物だろうが。到底敵わねぇよ」
「いーや、絶対ヤカラの方が異常っス。だって数年間使われていなかったキュイエール様の椅子を嗅ぎ当てたって話聞いたスもん」
「そんなもん簡単に判るだろうが」
「ある意味キュイエール様に失礼スよ」
ヤカラの異常性は、たしかにその一部分だけ常軌を逸してるのかもしれないが……ヤカラも、俺の昔の仲間も同じ系色だし、これは常識だろう。
「えぇと、まぁほら、赤目は鼻が利くって言うし……」
「何スかそれ?聞いた事ないスけど」
ギャアギャアと埒が明きそうにもないので口を挟んでみるも、ロンにバッサリと切り返されてしまった。
もしかしたら、この常識は自分の周りだけなのかもしれない。
何気なく足下に落ちていた頭巾を拾い上げてみる。
よく見ると薄い染みが付いていた。
「ん?おいレイ、それ……」
それまでロンと言い争っていたヤカラが、俺の手ごと頭巾を掴むとそのまま頭を突っ込んできた。
うわぁ……、と隣でロンが引いてるが、聞こえている様子はない。
「レイっ!」
「うぉ、ビックリした」
急に顔を上げるものだから、その頭が顎をかすめそうになる。ヤカラの頭突きは食らいたくない。
何時になく真剣な眼差しに、どうしたの、と問う前にヤカラが口を開く。
「こいつぁ俺の薬湯だ」




