5.片田舎の漁師町 其の四
綾ノ瀬さんには、もう何の気力も残ってはいなかった。
たとえ今、隙を突いて逃げ出したとしても真友を人質に取られたなら従わざるを得ない。
…噴き出しそうな何かが胸の内を占めている。
(彼は無事だろうか…)
いや無事に決まっている、ここは砂浜だもの。
―――感情がぐるりと回る。
綾ノ瀬さんの呼び掛けに、真友は動かなかった。気絶してるワケがない。
応えなかっただけだ。
そう、巻き込んだのはこちらだ。
はしゃいでしまったんだ。痛い目に、怖い目に遭わせてごめん。
どうかそのまま動かないで何もしないで――…。
そう祈るように、綾ノ瀬さんは瞼を閉じる。
何もしなければ何も起こらずに終わる。明日になればいつも通りの日常が送れるのだから。
そもそもが元より、何の関わりもなかった二人だったのだから――…。
そう言い聞かせるように、綾ノ瀬さんは唇を噛み締めた。
きっと友達ですらない、ただのクラスメイトで単なる知り合いで…だから明日になれば何事もなかったように過ごせる。
きっと、今日を忘れられる――…。
(――…でもさ?)
感情が畝る。
これはきっと、怒りだ。
助けてくれて、有り難かった。
一緒に付いて来てくれて、嬉しかった。
きっと何かが起こる予感がした。
世界が変わる気がした。
だけど……彼は動かなかった。
真友は諦めたのだ。
そう悟った瞬間、どうしようもなく許せなくなった。
(……諦めるなら…見捨てるのなら、さ…)
ゆっくりと拳を握りしめる。
あの瞬間の、触れた感覚はまだ覚えている。
「最初から、手を伸ばすなよ………」
腹底の怒りがゆっくりと、低い唸り声となって漏れ出でた途端、堰を切って溢れ出す。
「―――掴むならちゃんと掴めよ………真友!!」
悔しさが、慟哭となって弾け飛ぶ。
自分は悔しいのだと、綾ノ瀬さんはその時に気が付いた。
何にも成せず叫ぶだけの自分と、諦めたままのアイツとに。
情けなくて悔しくて、綾ノ瀬さんの目から大粒の涙が零れ落ちた。
・・・・
「おい後輩、暫くあのガキ見張っとけよ」
黒いスーツの男はサングラスを掛け直しながら、空気椅子状態の男に声を掛ける。彼の所からは海しか見えない。
命じられた後輩は後ろを振り返り、確認するように片手をかざした…―――その時だった。
ガクンッと機体が大きく揺れ動く。
「うわあぁーーっ!?…………」
反動に耐えられなかったのだろう。
叫び声を上げながら後輩だった男は海に落ちていった。一拍の間を置いてドボンと沈んだ音が聞こえてくる。
どうやらまだ海面が近いようだ。
パイロットが波に飲まれまいと慌てて高度を上げるが機体は大きく傾いたまま。
「クソっ!一体何が起こってやがる!?」
苛立ちのままに声を張り上げるが応えられる者はいない。
男は滑り落ちぬよう機体の上の方によじ登り、片手で椅子の背にしがみつきもう片方で護衛対象の子供を抱きかかえる。
余分な重量を削ぎ落とすべくなのか、この機体はクッション等の快適性を上げるような物は設備されていなかった。
金属面が顕になったままの椅子はよく滑る。それ以前に扉すら無い。
どうやら安全性も削ぎ落とされているようだ。
機内を海風がゴウと激しく吹き荒れる。
・・・・
胴体を抱えられたまま潮気のある風に服も髪も煽られるが、綾ノ瀬さんにはどうしようも出来ない。
轟々と吹き荒れる音と機体の駆動音と護衛達の怒声。
激しく鳴り響く音の洪水の中で、綾ノ瀬さんはハッと目を見張った。
激しい音の波の中に、微かだが異質な音が聞こえたからだ。
……ガリッ……
小さく響くそれは自分の足元―――傾いた機体の下の方から聞こえてくるようだった。
……ガリッ…ガツ……ガッ
断続的に鳴る音に、その度に機体がぐらりと揺れ動く。扉の無い枠が忙しく夜景を切り替える中、ちらりと一瞬、遠くの砂浜が見えた。
―――ガッ!!
一際に例の音が鳴り響いて止まる。
「……あ」
溜め息の様な声が漏れる。何故、ここに居るのか。
「…………真友……くん」
床の縁から小さな手と、浅黄色の頭が覗いていた。
日に焼けていたその顔はいまやすっかり青褪めており、恐怖に顔が引き攣っている。が、それでも彼は無理矢理に歯を食いしばりニヤリと笑ってみせた。
「……ははっ………やっぱこえぇ〜〜!!」
必死にしがみついてはいるがツルツルとした機体の中、そもそも掴めるような取っ掛かりが極端に少ない。
振り落とされまいと懸命に足を絡ませているがだいぶプルプルと震えている。
「……っ真友くっ……っぐぅ!!」
綾ノ瀬さんが慌てて手を伸ばすが、その胴体に組まれた腕に締められた。
「綾ノ瀬さっ……ゔぁっ!?」
真友が慌てて這い上が――ろうとして悲鳴をあげる。
見れば苦痛に歯を食いしばる彼の手を、護衛の革靴がふみしめているではないか。
「ったく……こんな所まで付いて来やがって…!」
男は真友を睨みつけている…のだろう。正直サングラスのせいでよく分からないが。
「お前のせいでヒト一人落ちただろうがっ!!」
「それについてはすいまっせんしたっっ!!」
少年は素直に謝っていた。
・・・・
力でねじ伏せ黙らせた筈の少年を、男はサングラス越しに見下ろす。
片手は変わらず機体に掴まり、もう片方の腕では護衛対象者の首すじを捕らえておく。
暴れるようならその首を締めて落とすのも辞さない構えだ。
「おい、クソガキよぉ……お前何しに来やがったんだ?人様の家庭事情に首突っ込むなって教わらなかったかァ?ん?そもそもがお嬢と釣り合うわけもないだろうがよ…ったく……なーァ?」
グリグリと少年の手を踏みにじりながら一方的に言葉を投げかける。苛立ちは募る一方だ。
「あのまま大人しく寝てれば良かったのによぉ…も一度聞くがお前、何しに来たんだよ?」
ただガムシャラにしがみつくだけの少年に何が出来るというのか……憐れみさえ感じるがこちらも仕事だ。いつまでも時間をかけるわけにもいかない。
真下は海。
高度はだいぶ上がってはいるが問題はないだろう。
先に落ちた後輩が何とかするかもしれないし……何とか出来なかったとしても、夜の海難事故ならば仕方がない。
綾ノ瀬財閥は自社開発中の機体で夜のフライト試験に臨んでいただけだ。……少年の姿など見ていない。
改めて少年の顔を見やる。彼もこちらを見据えていた。
―― 何しに来た?
男の投げかけた質問が頭の中で反芻する。
少年はまるでそれに応えるかのように言葉を発した。
「綾ノ瀬さんが呼んだから」
「……ハッ、犬かよ……!!」
男は心の底から嘲笑した。
この無計画で無鉄砲で浅はかで愚かな子犬にうっかりと愛情すら抱きそうだ。男の口元が歪んでいくのが分かる。
「…ご主人様が呼んだから来たってか?」
足下の子犬を見下ろしてやる。
青褪めながらもギラギラとした目でこちらを見上げてくるが、必死に虚勢を張るしかない状態であるのが手に取るように分かる。
丁寧に丁寧に、虐めてやりたくなった。
「大した忠誠心だなぁ…ん?まだ子供だってのによぉ」
手を踏む足に力を込める。
子犬が苦しげに鳴いた。
構わずに踏みつける。
「だけどよ、番犬はもう事足りてんだ……残念だけどな」
本当に残念だと、男は心から思う。
何が出来るっていうのか…何も出来やしない。
力が無ければ、知恵すらも無ければ護れるモノなんぞ何もありはしないのだ。
「さて、どうすんだよ?お嬢を助けに来たんだろうが……何もしねぇのかよ?」
どれだけ挑発してやったところで足下の少年はもう直に力尽きる。目だけは諦めてないようだが、どんだけ睨まれてももう詰んでいるのだ。
……このまま海に落として終いにしよう。
「……奇跡が起こせるもんならやってみろってんだ…」
男は少年に最後の言葉を放り投げ、スゥと感情を閉じた。
足を離し大きく振り被る―――と、その時。
「噛めっ!!綾ノ瀬さん!!」
足下の子犬が…少年が大きく吠えた。
何だ、と思うのと同時に片腕に痛みが走る。見れば護衛対象である子供が自分の腕に齧り付いているではないか――。
ブチっと肉の切れる音がした。
「っいっってぇ!!?」
思わぬ痛みに腕の中のモノを椅子に叩きつけた。
―――ザシッ
振り被った男の足が何かを蹴りつける。
一瞬だけ見えたのは少年の横顔。それは直ぐに真っ赤な飛沫に覆われて―――次の瞬間、それらは彼の視界から消えていた。
「――っんなァっ!?」
一瞬の出来事に頭が真っ白になったが、身体の方は既に反応している。咄嗟に手を伸ばし子供の腕を取ろうとする―――……が。
(―――クソッ!子犬が…クソガキが落ちる分には問題が無かったってぇのに!?)
そもそもが少年の方は落とす予定だったのだし。だが……まさか護衛対象までもが少年のあとを追い飛び降りるなんて…―――。
「おじょっ――くっ!!」
しかし彼の手が掴んだのは虚空。
慌てて機体から身を乗り出してみるも――――――……。
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―――ザザァ……ァン……
波の音がやけにハッキリと耳に纏わりつく。
見下ろす先には昏い海ばかりで。
「……………………消えた?」
男の漏らした呟きは、しかし風に呆気なく掻き消された。