46.口中に苦しは 其の一
刻は昨日に遡る―――。
一晩で衰弱状態から回復したと宣う青髪の莫迦の「旅に出たい」発言の後だ。
ゆっくりと深く、己――【ヤカラ】は一呼吸ついた。
隣で飯を食ってたイオリが椅子ごと体を引いて己と距離を取る。
セージは久し振りの外の空気に当てられたのか、ふらついていたのでレイの後ろで寝かせていた。落ち着けと再三言っても聞かなかったし、当然の結果だ。
レイと同じ薬湯を飲ませてやったらよく効いた様だし、次からは大人しくなるだろう。
そんな話は兎も角として。
「ほーぉ、元気になったのかそりゃあ喜ばしいなぁ?んじゃ確かめついでに組手でも一本頼もうか?」
飯を置いてその場に立ち上がると、机を挟んだ真向かいに座る翠眼の莫迦は、すっとぼけた顔で瞬いた。
「えっ…と、どうしようかな?流石にヤカラの相手が務まるほどの回復はしてないし…」
「回復しきれてねぇのに旅には出れるのか?俺程度に手子摺る程度の癖に?獣の群れにでも遭遇したら対応しきれねぇと思うがなぁ。いいから試してみようぜ?どの程度動けんのか知るのは大事だろ?」
視界の端ではイオリが懸命にセージを揺り起こしている。
そんなイオリに一瞬目を眇めるレイだが己からは視線を逸らさない。
少しでも気を逸らしたら喉笛狙うぞ、というこちらの意図は伝わっているようだ。
「それは…もしそうなったら後衛で俺がこの二人と背中を守って、大部分を君に頼るしかないけど…でもこの辺りは大丈夫じゃないかな?国境も近いし、人も多いし…」
「もしそうなったらコイツらを前に出すがな。囮でも盾でも使えるモンには遠慮しねぇぜ、俺ぁ」
寝惚け眼のセージを引き摺るようにして部屋を出ていくイオリの背に向かって言い放つ。
己を宥めるように話していたレイがピタリと口を閉ざした。
…んな顔しねぇでも、イオリなら解ってると思うがな。
「なぁレイ…つまり、だ。アンタは俺にこれから足手纏いを三人も抱えて旅に出ろっつった訳だ。護衛しながら介抱も飯の調達もコイツらの世話もしろ、と。それがアンタの云う仲間の仕事だ、と」
「そっ…違うって!すぐそこの国境越えてしまえば戒めからは解放されて、ヤカラも楽になるだろ?ここから三日とかからないし…」
「そのすぐそこ迄の道中で死にかけたのは何処の誰なんだかな?そ・ん・で・只今の最中も俺に世話されっ放しなのも判ってて云ってんだよな?」
今度こそ、レイは押し黙った。
漸く都合のいい夢想から覚めてくれたか。
そりゃあ道中で負傷したのであれば己だって庇うくらいはしてやる。が、無理を通して嵐の中を征くような無謀者を庇護したがる程お人好しでもねぇ。
好んで足手纏いになる奴に背なんざ預けられねぇし、命よりも荷物を棄てる。
当然だ。コイツだって当然そうするだろうに。
「…………ごめん」
…コイツのこれは口先だけだ。
ついぞ昨日だって謝ってきた癖に、もう同じ事を繰り返してきやがる。反省したのなら、と赦した己も大概だったな。
やはり薬は苦いに限る。
その薬湯を足すべく保温瓶に手を伸ばす―――机の向こうで俯くレイの微かな呟きが、大きく吹き込んだ風に乗って己の耳に届いた。
「浮かれてた……こんな、事……思い違いも甚だしいのに……」
―――掠れた声を、悔し気に震わせて。
……そーいやぁ…腕の立つ旅人なら路銀稼ぎに、護衛や野盗退治等も仕事にすると聞いた事がある。
己よりも数多くの修羅場を見てきたであろうコイツが、持って当然の心構えを見落としてたなんざ、洒落になんねぇのかも知れん。
それに、下手すりゃ後遺症の一つくらいは残ってても仕方がねぇ容態から、一晩で希望の見える状態にまで回復した訳だもんな…。
浮かれた勢いで煩わしい痣からも、とっとと解放されてやろうって意気込んだのも…まー、分からんでもねぇか。
「…………道具なんかじゃないのに……」
チラと見やれば、蹲る程に深く項垂れたその肩を微かに震わせていた。
思いの外……深く堪えたらしい。
………まあ、今度こそ骨身に沁みたようだしな。
「……この俺を道具扱いするなんざ、どう考えても贅沢過ぎんだろーが」
手にした保温瓶を机に戻しつつ憎まれ口を叩いてやる。
風が吹いた訳でもねぇのに、ごめん、と呟く声が流れた気がした。
・・・・
レイの反省から一夜明けた今日。
今度はイオリが何やら落ち込んでいたが、コチラは直ぐに立ち直り、人一倍の勢いで飯を掻き込んでいた。
「そういえばさ〜、この辺りに湖ってあんの?」
「ムグ?…湖がどうかしたの?セージ」
自分で選んできた朝飯に齧り付きながら、セージがのんびりと話を振ってくる。
イオリが不思議そうに訪ねるが…セージが聞きたいのはアレの件だろうな。
「【双月の湖】だな。この町の隣にあるが、伝説とやらの数が多すぎて胡散臭ぇ印象しかねぇんだよなぁ」
「伝説の…双月の湖……カッケェ…!」
「ヤカ兄も行ったことあるんだ!どんなのどんなの??」
つっついてた野菜から面を上げれば、やたらキラキラした四つの眼が己を捉えていて思わず吹き出しそうになる。
観光向けの作り話だろうし、そう面白い内容でもないんだが…。
「あー…俺が見に行った時は、只の小せぇ湖って印象だけだったがな。確か…新月の夜には二つの月が浮かぶ、とか。あぁ…失くした物を与える女神も居るってな」
「あー……女神…」
「ヤカ兄、それって…正直に答えたら豪華な斧くれるってやつ?」
興味が無さすぎて忘れていたが、幾つかの女神話っぽいもんを捻り出してみる。
途端にイオリの目が据わったが…そのまま手元の骨付き肉をひっ掴んでムシャムシャと食い始めた。
一方でセージの言ってる意味がよく分からん。豪華な斧って何だ。んなモン与えて何をしろってんだ女神は。
「斧かどうかは知らんが…要は大切なモンを啓示してくれるとか、そんな話なんじゃねぇか」
己の言った、大切なモノ…と復唱していたセージがハッと目を見開いた。
何に気付いたのかニマリと己を見てくる。
「ヤカ兄〜それってぇ〜運命の相手を教えてくれるってやつでしょ〜?ヤカ兄も聞きに行ったんだぁ〜??」
「あ?俺の唯一はキュイエールに決まってんだろ。んなモン態々聞きに行くかよ」
啓示される迄もなく分かり切ってる答を遥々問いに行く必要もない。
当然の事を言い放ったつもりだが、セージは何故だか軽く眉間に皺を寄せ遠い目で、どゆこと…と呟いていた。
己の隣ではイオリが呆れたようにセージを見ている。
「セージ…キュイエールサンは、ヤカラサンにとっての恩人なんだって。てゆーかそのおとぎ話も、元は女神じゃなかったって話みたいだし」
「そーなん?じゃあ誰が斧くれんの?おっさん??」
男神だろうが女神だろうがどのみち与えられるのは斧らしい。そんなに欲しいモンか?斧。
「男の老人だったってのもあるらしいよ。金や銀の斧を用意するくらいなら、そのまま塊で渡してくれた方がいいのにね。どーせ売るコトしかできないんだしさ」
「そーなん?強そーじゃん、金の斧!」
鈍く輝く斧を手に、大木の前で立ち尽くすセージの姿が思い浮かんで可笑しくなる。
「ハハッ…確かに。んなモンじゃあ木も切れねぇし、何の役にも立たねぇわな」
「ね!道具として使えるから需要があるのにさ。使えないんじゃ意味がないよ。ね、レイサン」
イオリの言葉に、対面に座するレイの肩が極々僅かだが跳ねたのを己は見逃さなかった……が、敢えてそれには触れない事にする。
「…ふー、思ってたより食べられないなぁ…やっぱ体動かさないと。そーいえば、レイサンは外に出ないの?」
「……え、俺?……いや…どーだろ。まだいい…かな」
「だってもうワリと元気なんでしょ。筋ト……うーんと、鍛錬?してた感じ、フツーに散歩する分には問題なさそうだったし」
唐突に名を呼ばれたレイは、珍しく目線を彷徨わせる。昨日まで出立を急いていた癖に歯切れが悪い。
「そーだよレイ兄!リハビリ大事!」
「ええと、りはびり…とは?」
まあ、己が許容した範囲は全てこなしてたようだしなぁ。いまいち信じられねぇが、本当に回復しているらしい。
畳み掛けるようにセージもイオリの案に賛同してるみたいだが、レイが首を傾げるのと同じく、やはり言ってる意味が分からん。
「えーと…機能回復訓練って言うんだっけ?少しずつ体を慣らしていく行為なんだけれど…ほら、レイサンもジッとしていると鈍るって言ってたじゃん」
「ああ…うん、それは……あーでも、戻れなくなったら心配かけるし…」
「え?ヤカラサンに付いて行ってもらえばいいじゃん。レイサン一人だけならいいでしょ、ヤカラサン?ボクたちは留守番してるしさ」
不意に己にも話が回ってくる。まあ…確かに、コイツらの面倒見るよかレイ一人の方が断然楽だろうが…。
しかしここ最近の厄介事の気配に、レイが頷く筈もなく。
「それは駄目。ほら、今朝も一悶着あったばかりだし…二人を置いて出る訳にはいかな…」
「大丈夫だって!もうボクたちの方から開けたりしないし。何なら別の部屋で鍵掛けて静かに籠もってるし」
先刻からやけに押し強く勧めてくるイオリに、レイも漸く訝しんだ様だ。
少し迷った末に口を開こうとして…そこにセージが割り込んでくる。
「レイ兄〜、外行くの?じゃあオレ食べて欲しいヤツあるよ!えーとね、クレープみたいなヤツでぇ~…」
「え待って。それならボクもオススメあるし!えーと肉まんなんだけど…それのあっついヤツがね…」
「…ええと、二人共……」
どんどんとワチャワチャになってく会話に、レイも段々と押し負けていく。
…コイツが言い負けるなんざ、なぁ。
大分と珍しいその姿に……やはり黙って眺めておく。……どっちでもいいしな。
「ヤカ兄と一緒なら大丈夫だって!疲れたらおんぶしてくれっし!それに人混みでも歩きやすいし…な!」
「そーだよね。ヤカラサンがいれば安心安全だよねぇ。まず声も掛けられないし…な!」
『な〜〜!!』
「…俺は人避けか?んな怖がられてるみたいな言い方しやがって…」
流石に話し掛けられる事位あるわ。……いや。
―――そん時は決まって隣に誰か居たような……。
残ってた野菜を口に放り込む。
苦いのに当たったようだ。じんわりと口中に広がるその味を黙々と噛み締めた。