44.夏陰に憂う
町の喧騒が風に乗って聞こえてくる。
いつも一緒だった賑やかな声達は、今は居ない。
唐突に名を呼ばれることもないし、突飛な二人の動向を常に気にかける必要もない。
俺――【レイ】だけの一人きりの空間は久し振りだ。
深く、長く息を吐く。
開放感を味わう一方で、しかし、ほんの少しの物足りなさも感じてしまう。
いつの間にやら誰かと一緒に居るのが当たり前となってしまったのか……いや、一人で旅に出る前までは、それが当たり前だったっけ。
思えば一人の旅では、誰かと連れ合うこともなかったし、キュイエールの家に居候していた時も、実質一人で暮らしていたようなものだったし。
むしろ、いつから独りに慣れたのだろうか。
旅を始めた最初の頃は、やはり寂しいと感じていたと思うのに。
寝台に横になったまま、左胸にベットリと貼りついた痣に手を当てる。
昨日までは触れるだけで、まるで剣山を力いっぱい擦りつけられていたような痛みも、今では大分と軽減していた。
連日しつこい位に擦り減らされていた体力や気力も落ち着いている。
不思議なことに、このたった一晩で痣は大分と引き、昨日の今日とは思えないほどに体力は劇的に回復していた。
(これは一体どういうことだろう?)
聖石を使った分の代償を払い終わったか、体力の回復が追いついたのか。
いつもと特に変わったことはしていないし、ヤカラも薬湯を変えた様子はない……と思うのに。
(というかもう、そろそろいい加減に変えてほしいのだけど)
このヤカラの心底、全身全霊をかけて忌み嫌っている痣に早々に完敗した俺を懲らしめたいのだろう。毎度毎度とんでもなく苦い薬湯を淹れてくる。
彼の腕ならば味の調整も容易だろうに、嫌がらせだろうか。嫌がらせなんだろうな。
いっそ、その大嫌いな痣を施した神竜と似たような事をしているぞ、と指摘でもしてやろうか。
神竜に対して常日頃から、くだらない牽制に使う力があるならキュイエールの為に使え、と口癖のように言っているくせに。
……そういえば前に、キュイエールが仕えると決めた相手なのだからその意を汲んでみては?的な指摘をしたことがある。
―― キュイエールを解放して今迄の対価を支払ってからくたばってくれんのなら今際の際にその脚に口付けてやってもいい
と、真顔で言われたっけ。
そんなことはどうでもいい話。
ともあれ回復の兆しは見えてきた。
この位なら動けそうだし、取り急ぎこの国を出れば神竜の枷は解かれる。
あの二人の装備が整っていれば、ヤカラも文句はないはずだ。
(こうして、奇跡的に回復出来た仕組みも知っておきたいところだけど)
セージと共に爆発に巻き込まれた、あの日の夜の奇跡とも関係しているのだろうか。
あの村では持てる力を使い切った後、セージを庇い爆発に呑まれて死んだはず。
――それなのに、自分は死んでいなかった。
あの空間に堕ちたということは、限りなく死に近かったということだ。
もう助からない、とその空間の主にも言われたというのに。
温情をかけられたか、ただの気紛れか。そのどれにも該当する筈がない。
アランとは……理とは、そんな生温い存在等では決してない。
ある意味、そうであるからこそ俺も、諦めたのだから。
(あれはさすがに、もう御免だな)
実際はそんな言葉で片付けられないくらい、めちゃくちゃに後悔した。泣きたかったし叫びたかった。
きっとそんなみっともない衝動ですら、アランは包みこんでくれただろう。
だからこそ、関わってきた人達に示すように、情けない自分を押し込めて。
そうして理に敬意を込めて、逝こうとした。
――それから何が起こったのやら、こうして今も生きている。
(まあ、いいか。理が良しとしているのだから)
理はどんな存在に対しても、過剰に関わることはしない。
だけど示されたものは須くソレが真実だ。自身が解釈していくより他にない。
あの空間の中で、アランが示した希望は『俺自身』を写していた。
彼は、対象の心の深層に抱く真理を示す。
それは理から与えられた試練だと、云われている。
俺がずっと抱き迷っていることも、希望が俺自身と示されたのならば、自分で解決すべきことなのだろう。
そして……示された絶望は、それ次第で己が死ぬ事よりも己を殺す存在だ。
だから、考えなければならない。
俺が示された絶望を。その意味を。
アランが写したその姿が、俺自身であったことを。
・・・・
――コンコンと、部屋の扉が叩かれる。
太陽の位置からもう皆が戻ってくる時間なのだと驚いた。
寝台に寝そべり、つらつらと考えてウトウトと微睡んで。
それだけなのに、もうこんなに経ってしまうものなのか。この生活はいけない。
起き上がり、扉を眺める。
誰が来たのだろう。
ヤカラであればひと声掛けるし、セージとイオリならば問答無用で開けてくる。
そもそも扉の向こう側の気配は知らない相手だ。
皆に何かあった可能性もあるのだろうけど……正直まだ怠いし、対応するの面倒だな。
取り敢えず、ぼんやりと待ってみる。
うん、こんな生活したせいだ。これはいけない。
「……失礼致します。こちらに、かのご高名な天使様が滞在されていると知り、恐れ多くもそのお力を賜りたく、不躾にも訪ねて参りました」
……テンシとは。
ややあって述べられた口上に、やはり黙ってみる。
なんだかまた、古風な呼び方をするものだ。
おそらくは神竜に仕える山岳の民であるヤカラを訪ねて来たのだろう。
天に座する神竜の使徒。
ひと昔前では、それを天使と評するのが流行っていたらしい。
ヤカラなら部屋を知られるような失敗はしないし、多分あの子らの隙を辿って来たのだろう。
「……あのーもしもし?もしかしていらっしゃらないです?……なぁおい、いないようだぞ?どうする!?」
「どうするって……出直すしかないじゃんか。それか、また下でアイツを待ち伏せてみるとか」
「だけどアイツけっこう面倒くさいぞ?オレ様の話も聞かないし……」
訪ねてきた相手の部屋の前で問答はしない方がいい。
セージかイオリか、どちらかは分からないが対処可能な相手みたいだし、放っておいてもいいかな。
再びごろりと横になる。
うーん、早くこんな生活から抜け出さないと。
***
迷惑兄弟によるトラブルから一夜明けて、トレーニングの声が部屋に響く。
「……98、99、300っとハイ、オシマイー」
結構なハイスピードで腹筋を終えたあと。
艷やかな青い髪の自称病み上がり人は、息切れした様子も見せずにフゥ、とひと息ついた。
うっすらと汗を滲ませてほんのりと血色を帯びた頬は、昨日まで真っ青だったのが信じられやしない。
「やっぱり、もうちょっと鍛えないと不安だなぁ。ずっと寝ていたのだし……駄目?」
ボク――【イオリ】の目を見つめ、眉根をほんの少し下げてちょっと甘えるように言ってくる。
そのへんのヒトならノックアウトされそうなほどの色気を浴びせられるが、こちとら本性知ったる仲である。
たとえ天使と評されようが見慣れた自分が騙されるコトはない。
支えていた足を離して立ち上がり、ついでに窓の方を伺う。
ヤカラ特製の薬湯を渡しつつ、仕込まれたセリフをお見舞いしてやった。
「『いいか、どんだけ調子が良かろうがまたぶり返したら元も子もねぇからな。身体が訛る不安は分かるからある程度は許してやるが、制限は絶対に超えんなよ。俺が良しとする迄、旅を再開したいなんざ二度と言うな!分かったな!』」
「アハハ!ヤカラはホント、いい仕事してくれるよねぇ」
指差しながら口調も真似てみると、レイは笑ってくれた。
くいーっと薬湯をあおると、ぷはと満足気に笑む。
「うわ、その薬湯苦いんでしょ。よく一気にイケたね」
「うん、夕べからちょっと変わったんだよね。随分と飲みやすくなってさ」
飲みすぎて味覚障害気味になってるのではとも思ったが、一応改良されていたらしい。
「イオリも、なんかごめんね?俺が我儘言ったから……残ってくれたんでしょ」
「えっいや、大丈夫、だよ!ボクものんびりしたかったし」
ふいにレイが謝ってくる。
チラチラと窓の外を伺うボクを見て、よっぽど外に行きたかったのかと思われたらしい。
とても申しわけなさそうな顔だが……これは昨日のやり取りを気にしているのだろうか。
昨日――初の買い出しを終えたあとのランチで、調子が戻ってきたみたいなんだ、と言うレイに全員で一斉に冷たい目を向けてみた。
ちなみに病み上がり人その二のセージは、やはり疲れが出たらしく、ベッドサイドに腰掛けたレイの後ろで伸びている。
ヤカラが「ま、確かに顔色は戻ってきたかもな」と、面倒臭そうにケバブに齧りついた。
でしょ、と当人は得意気に笑んでいるが。
たしかに前日までの衰弱っぷりがウソみたいに、血色がよく、健康体には見える。髪のツヤも増したような。
だが今までの容態がかなり悪かったのもあり、様子見も兼ねてどのみち当面の静養は免れないだろうに。
そんなことくらいボクにだって分かるというのに、あろうことか旅を再開したいなどと言ったものだから、まぁ、ヤカラがキレた。
当然の如く始まった説教に、起こしたセージと風呂場へと避難する。
戻る頃には静かになっていたが……部屋をのぞけば腕を組んでるヤカラと俯いたレイが無言のまま向かい合っているのが見えたので、そっとドアを閉めた。
――そんな一件がありまして。
今日は、元気になったと自称するレイが調子に乗って無茶をしないように、という理由で見張りを立てることになった。
本日の買い出し担当はヤカラと、リハビリも兼ねてセージが行っている。
ボクは進んで見張りを申し出た次第だ。
(実は、居残りたかった理由があるんだよな)
昨日も外で会った、あの迷惑な兄弟。
あの時のセリフから推測するに、兄弟はこの部屋を訪ねて来たのだろう。
たまたまレイが寝ていたかで応対されなかったのか……なんにせよ、誰も居ないと判断して帰る途中に、偶然帰ってきたボクたちと出くわしたらしい。
出会った初日、外からこの建物の見ていた兄弟と目が合った気がしていたが、その時に部屋の位置を特定されたか。
最悪、押し入ったアイツラのせいで療養中のレイに危害が及んだかもしれなかったのだ。
……さっきの筋トレの様子から、もう何の心配もないのでは?と思わんこともないけども!
とにかく、自分の失態は自分で責任を取らないと。
よほどこっぴどく叱られたのが堪えたのか、床の上でシュンと落ちこむレイに慌てて適当な理由を考える。
「あーえっと。実は聞きたいことあってさ?その……レイサンて普通にお風呂入りに行くよね?」
「え、うん……もしかして、臭う?」
そんな悩みとは無縁そうな顔立ちしておいて申し訳なさそうにしないでほしい。
「違うって!その……お風呂でさ、周りの視線が気になって……レイサンは何か対策しているかなぁって」
「対策……?」
やばい、恥ずかしくなってきた。
んなもん、気にしたって仕方ない。の一択だろうに。
自衛のしようがないし、寄ってきた虫は自分で払えばいいだけで。
間抜けな質問をした後悔に打ち震えた時、窓の外にヤカラとセージの姿が見えた。
グッドタイミングだ!
「あっ帰ってきたみたい!荷物多そうだし、ちょっと手伝ってくるねっ」
「あ、イオリ待っ……」
レイに何かを言われる前に、勢いよくドアを開けた。




