38.次代の加護
「そう構えなくても大丈夫だよ、二人共」
寝台から飛び跳ねるように退いたヤカラと、その背に隠されたイオリに声をかける。
その間にもセージから伸びる黒い触手は、こちらを絡め取ろうと巻き付いて来て……。
「おいっ!レイ――…」
―――リィインッ
高く澄んだ、打ち鳴らされた鈴の音のように鳴り響いた光が、セージを包み込むと霧散した。
「…セージっ!?セージ!!」
「待て、イオリ」
「っ離せよ!だって、セージがっ…!!」
イオリが飛び出そうとするのに素早く反応したヤカラが、その腕を掴んで止める。
黒い靄と光とが消えた寝台には、セージがクタリと横たわっていた。
心配で駆け寄りたいイオリを、なおも警戒して引き留めるヤカラに、俺――【レイ】も何と言ったものか考えてみる。
「うーんと、ヤカラ?もう落ち着いたみたいだし…」
「あんなぁアレが何かって事くらいアンタも解って――」
「キュイエールの加護が…」
「なら問題ねぇな。もういいぞ、イオリ」
さっきまでの警戒心露わな態度が、それこそ霧散したかのように、深く刻まれていた筈の眉間の皺と共に消え去った。
泰然と応じるヤカラの声に、解放されたと知ったイオリは弾けるようにセージの元に駆け寄る。
「セージ…!レイサン、セージは…」
「うん、今は眠っているだけだよ。安心して」
寝台の前に膝を付いて、セージと俺とを交互に伺うイオリに笑んでみせる。
さっきまで取り乱していた様子なのに、もう俺達に合わせて行動出来ている。
イオリは特に、頭の回転が速い。
「さて、と。何から話したものかなぁ…イオリは、あの谷で見た黒い吹き溜まりを覚えているよね?」
「…うん。覚えてる……さっきの黒い靄は、その谷で見たモノと……あの、帰らずの森で見た黒い水たまりと、同じ…なんだよね?」
ポンポンと寝台を叩いてみせると、イオリは少し迷ってから俺とセージとの間に腰を下ろした。
不安気にこちらを見上げてくる、察しの良い彼に頷く。
本当に…あの森での出来事は、大いに肝を冷やされた。反省点も多いし、なるべく簡潔に済ませたいところだが。
「えと…レイサンの後ろをついてったんだ。そしたらセージが黒い水たまりに入ってて…」
さっきまで自分が座っていた椅子にヤカラが腰掛けたのを見て、イオリは視線を彷徨わせつつ話し始めた。
ヤカラはあの場に居なかったし、説明を兼ねつつ整理するつもりなのだろう。
「…そのまま沈んでいくから引っ張ろうとしたんだけど、逆に引っ張られて……レイサンを呼ぼうとしたんだけど、間に合わなかった…」
申し訳無さそうに下を向くが…ちゃんと聞こえていたし、イオリがセージを掴まえていてくれたから、すぐに見つけて助け出すことが出来たんだよね。
目を眇めたヤカラが何か言いたげに見てくるが…うん、取り敢えず今は黙ってて欲しいかな。
「レイサンはその時も…いや、きっとその前からも石のマホウ…能力…?を使って助けてくれていたんだよね。……その、ボク…レイサンが疲れてるの気付かなくて……ごめぅぷ」
「ええと。その黒い靄はね、色々な呼び名があるんだけど、俺達は【理】と呼んでいるんだ」
とても不穏な空気になりかけたので、イオリの口に指を押し付けた。
「理とは万物の其のもの。つまり、天も地も俺達も、この世界の全ては理で出来ているんだよ」
「…世界は…コトワリ……?」
瞬きを繰り返して、イオリは首を傾げてしまう。
その仕草がなんともくすぐったくて、ついとその頭を撫でてみた。
「ま、理解はおいおい、ね。少し雑に話を進めるけど、あの谷には理の気配が濃く溜まっていてね。森と繋がっているから、影響が森全体に拡がっているんだ。そのせいで、キュイエールの加護も届かなくて……君たちを危険な目に遭わせてしまったのだけど……」
予期せぬ出来事だったとはいえ、やはり申し訳なく思う。二重の意味で胸が痛むし、視線も痛い。
「イオリ、言っておくがキュイエールの加護に落ち度はねぇぞ。あの森だけは、外側からの影響は一切受け付けねぇからな」
「えと、そもそも…キュイエールサン?の加護って、どーいうものなの?」
必要があるようでないようなヤカラの補足だったが、イオリは加護の方を拾ってくれた。
「ああ、言ってなかったね。旅に出る前に、彼がキミ達に防御の加護を張ってくれたんだよ」
「えっ…ボクにも…!?ど、どんなやつ?」
「簡単にとは言っていたけど…ある程度の外気の緩和。耐久力を上げるのと、あと怪我もしにくくなるし、治りやすくなるし。神域周辺は日中でも凍死するくらいには寒いんだけど、キミ達は平気だったでしょ?あの装備じゃ一晩すら越せないだろうね、って」
「おぉ〜!いつの間に…!!」
その反応からするに、自分には無いものだと思っていたらしい。
存外嬉しそうなイオリに、キュイエールも挨拶したがっていたと付け加える。
神竜を刺激しないように、夜明け前の一時でしか会えなかったけど、彼は眠っている二人を前に手早く必要な対処をしてくれた。
…本当は俺ももう少し、彼のもとで学びたかったのだけども……。
微かに湧いた不安を押し戻し、話を続ける。
「要は、キミ達の身体に過分な負荷が……あ、ありがと。…負荷が掛かるのを防いでくれるし、弾いてもくれる。さっきのセージみたいにね」
「…っ。セージは…どうなっ……あ、ども……………」
今しがた手渡された湯呑に視線を落とし、そのまま黙ってしまったイオリに、俺も受け取ったお茶を一口啜る。
「――『光の孵りし安寧の床にて永久に還るは試練を賜われ』ってな。イオリ、帰らずの森の由来は聞いてるか?」
機嫌も良さげに、それぞれに茶を配膳し終えたヤカラが口を開く。
どこか満足そうにしてるのは、キュイエールの話題が上ったからだろう。
「あの道中で誰ともすれ違わなかったか?つうか、アレの事を何も知らねぇみてぇだがな、【理】ってぇのは、誰しもがいつかは死に還る処でもあるんだぜ」
「…ヤカラ」
「躊躇ってんじゃねぇよレイ。いいかイオリ。其処から全てが生まれるって事は、須らく其処に還るってことだ。あの森はな…」
「ヤカラ!」
目線も合わせず、興が乗ったかのように、ヤカラは止まらなかった。
「…―― 死に急ぐ者に理を与える処、だ」
***
――――カランッ、と乾いた音が響く。
指先がじんわりと熱いが、視線を動かすことが出来ない。ボク――【イオリ】は今、ドコを見ているのだろう。
「…要因は定まっていないだろ。単に道を逸れただけかもしれない」
すぐとなりにいるはずのレイの声が何故だろうか、薄いカーテンでも挟んでいるかのように離れて聞こえる。
そうかもなぁ、とヤカラの声も遠く響いて。
ぼんやりと、思考が動き出す。
死に急ぐ……死にたがってる…………セージが?
「――心が欠けたか体が欠けたかはたまた両因か、それとも他者の思惑か……昔からあの森には、んな連中ばかりがやって来てな。何れもその目的は一つ、『己の生を終わらせる事』…なんだとよ」
ヒンヤリと冷たい感触にようやく視線を落とすと、赤く染まった指先を、レイの青白い手が包んでいた。
見上げれば、心配そうな目の色とかち合う。
レイの瞳は、エメラルドのようにキラキラとしていて、薄暗い室内でも輝いて見えた。
彼の後ろに見える窓の外は、明るい太陽光が燦々と降り注いでいて、レイの体温とそぐわないなと思った。
「あん中は感覚も狂うからな。抜けるには山岳民の道標を辿るのみで、それ以外は大抵彷徨った挙げ句に朽ち果てるもんだ。ただ、極稀に生還してくる奴もいるらしい」
淡々と話すヤカラの手が、足下に転がるカップを拾いあげる。
「曰く、『試練を受けた』んだとよ。その黒い水溜りの底でな」
目の前に迫ったその顔が、その目がこちらを見据える。
深く濃い、ルビーの色。よく磨かれたそれは強い光を蓄えていて…何でか、怒っているようにも見えた。
「イオリ…それについては不確定な要素の方が多いんだ。その事を踏まえて聞いて欲しいんだけど、理の試練とは…『死の気配に近しい者が選ばれる』、とされているんだ」
言いづらそうなレイの声が耳を打つ。
あの水たまりの底で…いや、理の中で、セージは試練を受けていた?
試練を与えた者がいるのなら、セージはそこでソイツと会っていた……?
思い出そうとしてみるが、それこそ黒い靄がかかったようにうまく思い出せない。
ボクの呼ぶ声に、振り向いたセージの顔はビックリしていたようで……怯えていたようで。
「まー、もう一つ条件があるっちゃあるがなぁ」
レイの沈んだ声とは反対に、のんびりとした口調でヤカラが口を挟んできた。
「ヤカラ、いい加減に…」
「大丈夫だよ、レイサン。ボクは…知りたい」
ボクを気遣ってくれているのだろうその気持ちはありがたいが、ボクは、前に進みたい。
もっと情報を組み立てて、可能性を整理して…セージの真実を知りたい。
だって、セージが…そうだなんて、とうてい信じられないじゃないか。
(そうだよ、死に急ぐだなんて…)
セージは病気なんてしてないし、いつだって元気だったと思う。学校でだって、よくクラスメイトと笑いあってたし。こっちの世界でだって…―――。
いつかの夜を思い出し、慌てて首を振る。
「ヤカラサン、教えて。試練の条件って何?」
向かいの、イスに戻ったヤカラに願う。
テーブルに頬杖を付いた彼の目が、ボクをジッと見下ろした。
「…もう一つの条件ってのはな、『纏った聖石が更なる同化を求めた時』だ。つってもコイツぁ、セージがイシマトイになっていたら、の話だがな」