3.片田舎の漁師町 其の二
真友は、綾ノ瀬さんのことを殆ど知らない。
入学式から少しズレた頃合いに『彼女』はこの町にやってきた。
整った顔立ちとどこか垢抜けた仕草、都心から来たという転入生は人当たりも良く、瞬く間に学校の人気者となった。
その苗字を冠する綾ノ瀬財閥が、どれほどの大企業かなんてことは、こんな片田舎の子供ですら知っている。その現当主の子供である綾ノ瀬さんには当然のようにボディガードが付きまとっていた。
常に黒服をまとい、登下校時は必ず一緒、一定の距離は置いているが常に視界の端にはいる、といった徹底ぶりだ。
当然ながら真友たちのような一般男子が気軽に会話出来る相手でもなく、『彼女』は次第に高嶺の花のような存在になっていった。
綾ノ瀬さんと真友は、何の接点もない。
「彼を、離してちょうだい……家には戻るから…」
己のボディガードである黒服に向かい、震える声を張り上げて、綾ノ瀬さんはしっかりと言葉を紡いだ。
負けないように気圧されないように、真っ直ぐ前を見据えて。
(逃げたかったんじゃないの)
真友は心の中で呟く。
どうせ口は塞がれてるから声も出ないが。
「素直で結構…まったく、もう2度とこんな我儘はしないでくださいよォ」
言いながら男の手が緩む。
戯けるようなその声に込められたのは、嘲笑と侮辱。
「…アンタは『カワイイお人形』なんだからな」
ドンッと突き飛ばされて、真友はたたらを踏んだ。
すぐに綾ノ瀬さんが駆け寄ってくる。
――ごめん、とその唇が動いた。
真友も綾ノ瀬さんに向かって駆け出し―――すれ違い様にその手を取った。
「こっち!」
短く告げると勢いをつけて防波堤の上に飛び乗る。
「えっ!?」
綾ノ瀬さんは驚きながらも真友の後に走って付いてくる。
咄嗟の呼び掛けにも関わらず、綾ノ瀬さんは軽々と跳んでみせた。
「――ハァッ!?」
「このガキ何をっ!!」
一拍遅れて男たちの声が追いかける。どうやら黒服はもう一人いたようだ。
「真友くんっ追いつかれるよ!」
後ろから綾ノ瀬さんの声が飛ぶ。
そもそも砂浜とコンクリートの道の間を沿うこの防波堤は、せいぜいが彼等の背丈ほどしかないし、幅も大してないから全力では走れない。そりゃあ秒で追いつかれるだろう。
こんな塀、飛び乗ったとて何の意味も無い。
防波堤の上で真友は立ち尽くす。
・・・・
もう詰んだのか―――追いかける男たちは思わず苦笑した。
子供の悪あがきとは、どうしてこうも考え足らずで突発的でお粗末なものなのか。こちらが手加減をしてやれば大人相手でも何とかなるとすぐに勘違いをする。
実に子供らしい、短絡的な思考回路だ―――と、そう嗤わずにはいられない。
二人の男は二人の子供を前に足を緩め、ゆっくりと近付いていくことにした。
「………こっち」
振り返りもせず真友は呟く。
追い来る男たちを睨んでいた綾ノ瀬さんは振り向き、真友のその目線の先を追った。
彼はただ昏い海の方を向き、じっとその足元を見下ろしている。
自分たちが立つこの塀は、街灯が等間隔に並んでいる。道路側に向けて明るく照らされている反面、反対の海側は暗い。
さらに海側に向かって迫り出している堤防はその形状のせいで真下は殆ど見えない………筈なのに。
昏い海に向かって真友は、飛んだ。
「…………え」
咄嗟の呟きは声になっていたか。
綾ノ瀬さんは思わずその場に立ち尽くす。
目の前で、真友が落ちた。
一瞬、夜に浮かんだ彼はそのまま暗闇の中に消えていく。
防波堤の下は砂浜だ。落ちたとてある程度の衝撃は抑えられそうだが問題はその高さである。
二階建ての家くらいの高さはあるハズだ、とそう思うくらいには、この堀の真下は暗く深い。いくら砂地だろうが着地点が分からなければ受け身も取れない。
躊躇うのは当然だった。
駆け寄ってくる男たちの動きがまるでスローモーションのように感じる。
真っ白になった思考の中に届いた声は思いのほか、間近に聞こえた。
「大丈夫、信じて」
穏やかなその声に、綾ノ瀬さんは飛んだ。
・・・・
「―――ハァアッ!?」
護衛の一人、サングラスを掛けた男は思わず立ち止まった。突いて出た声に驚きと呆れが混じる。
自分等の目の前で、子供が落ちた。あろうことか護衛対象の子供まで、だ。
男の背に嫌な感触が流れる。脳内を走馬灯のように記憶が駆け巡った。
―――綾ノ瀬財閥の当主に見込まれたのは十年程前。
文武共にエリート街道を突っ切っていた自分に任されたのは、まだ小さな子供のお守りだった。
破格の給金と短い契約書の内容に、裏社会に足でも突っ込んだのかと思ったものだが。
(それもあながち間違いではないな)
契約書に目を通し、こっそりと息を吐きながらそう思ったのを今でも鮮明に覚えている。
その子供の身に何かが起これば―――言わずもがなの答えに我に返った。
そうだ、先ずは安否を確認せねば。
塀に駆け寄り下を覗き込むが、暗くて何も見えやしない。ちょうど点在する街灯と街灯の間だ。
(小賢しい)
舌打ちをする。
辺りを見渡せば、遠くの方に下に降りられそうな階段が見えた。
「おいっ回り込むぞ!いや…念の為アレを手配しろ―――…」
バタバタと慌ただしさが遠ざかり、暗い海辺に暫し波音が響く。
・・・・
「………ったぁ〜」
押し殺していた溜め息が漏れた。
「綾ノ瀬さん大丈夫?……今のうちに降りよっか」
真友の囁く声がすぐ耳元から聞こえる。
ゴソゴソと彼が動くたびに、全体が揺れ動くのでバランスを取るのが難しい。
「…こ…っと、これ、船……?」
ようやく目が慣れてきて、上半身を起こした綾ノ瀬さんは辺りを見回してみる。
星空をバックに黒い輪郭が浮かび上がっているのが何となく見て取れた。
足もとまで続く影は波音が聞こえる方向に向かって先端がゆるりと細くなっており、それが船先だと分かる。
「ああうん、この船は普段から網が積まれてるんだ」
言いながら真友は足もとの布をポフポフと叩く。
どうやら自分たちは船の上に飛び降りたらしい。
積んである網には布が被せられているのだろう。着地の衝撃で破けた様子もなく、かなり丈夫なようだ。
……本当に運良く、ちょうど良い場所に降りられたものだ。
「あ、綾ノ瀬さんこっち……ここにロープがあるから捕まって……うん、もうちょい下に足を掛ける所が……うん、そうそう」
先に降りたらしい真友の指示に従って、綾ノ瀬さんも何とか砂浜に降りるが、辺りが見えないことに変わりはない。
迷いなく先を行く真友の足音と朧気な輪郭を頼りに何とか付いていく。
「あ、綾ノ瀬さんそこ……頭の上気を付けて」
言われて頭上に手を伸ばせば、確かに何かに触れた。
注視すれば角材的な何かだとは分かるのだが、やはりすぐに見分けるのは難しい。
…なのに。
砂地の上を気を付けて進むのも、どうしたって足取りが重くなるというのに、彼ときたらまるで意に反さない。
さくさくと進んで行く。
「あっ待っ……真友くんってさ、どうしてそんなに平気で歩けるの?」
「ん?ああ…オレね、見えるみたいなんだ」
さらりと真友が言う。
夜目が利くんだってじぃちゃんが言っててさ〜、と何でもないように話している様がまるで他人事のようだ。
「……見える、みたい?」
よく分からないセリフに、綾ノ瀬さんは先ほどまでの状況を振り返ってみる。
日の下を行くかのように進む彼の目には、それこそ昼間と大差なく見えているのだろうか。
防波堤から飛び降りた時も、彼には当たり前のようにそこに船が見えていた、ということになる。
(それにしたって、限度はあるだろうに?)
夜目が利くとは、まるで猫みたいだ。
学校での彼を、ぼんやりとだが思い返してみる。
真友……確か、真友セイジ。漢字は何だったか。
少し丸みを帯びた顔立ちに浅黄色の短い髪。
クリクリっとした瞳は新緑のように輝いて、人懐っこそうな雰囲気は…どちらかというと犬みたいだ。
他の級友と同じく、自分とはあまり接点がない。
そもそも、同じクラスであれ自分に気安く話しかけてくる者はそういない。
休み時間になるたびにクラスメイトと廊下へ駆け出して行く様は、やはり犬の方がよく似合う。
「……フフッ」
「えっ、どうしたの?」
小さく笑うのに、彼に気付かれてしまった。
シルエットでこちらを振り返ったのだと分かる。
「ううん…なんか、猫のような目をしてるのに犬っぽいよなぁって……ふふふっ」
言いながらどんどん笑いが込み上げてくる。
気を張り詰めていた反動だろうか。
「え〜犬っぽいかなぁ?うーん…昼間から寝てばっかりで猫みたいだって言われた事はあるけどぉ…」
困ったような口調なのに、彼の声はどこかのんびりとして聞こえる。
まだ油断出来ない状況は続いてるはずなのに、綾ノ瀬さんは何だか気が削がれてしまった。