20.山麓の村 其の二
風渡る草原に、微かに潮の匂いが混じる。
澄み渡った空の下に佇むのは二人きり。
サァサァと草葉の鳴る世界で、自分たちの会話は誰にも聞こえはしない。
向かいに佇む少女は、ただ黙って自分を見つめている。
その目に浮かぶ雫を拭いながら口にした言葉は、思いの外弱々しく。
「戻ってくる……」
風に掻き消されたような気がして、もう一度決意を込めた。
彼女に届くように、と。
「戻ってくるよ、必ず……だから、待っていて……――……」
続く言葉にその名を乗せると、宝石の様に光り輝く少女の瞳が緩く細められ、微笑んだ。
「……――、――……」
ザァッと渡る風に彼女の声は掻き消え、聴き取ることは出来なかった……が。
「……レイ、くん……」
自分の名を呼んだ、その震える声は、ハッキリと耳に残った。
ザァザァと風渡る草原は何処までも波打って――……
・・・・
(……雨の音か)
意識が浮上すると、見覚えのある寝台に横たわっていた。
雨戸の向こうから鳴る雨音と共に水の匂いが部屋に流れてくる。
(この夢、久し振りに見たな)
思い返さないようにと、俺――【レイ】は、ゆっくりと身を起こす。
昨日はヤカラとどこまで打ち合わせたかなと、ボンヤリ考えていると、扉の向こうに人の気配が現れた。
ザーザーと響く雨音の中に、カチャカチャと小さな金属音が暫し続き……
「レーイ兄!おーは〜……ってあーっもう起きてる!」
「えー……アイツのウソツキ……」
ガチャリと扉は開け放たれて、この部屋の中が一気にうるさ……賑やかになる。
「おはよう、セージにイオリ。その鍵はどうしたの?」
どうやらたっぷりグッスリ眠れたようで、子供らの顔色はとても良い。
それは良いのだが、何故にこの二人はこの部屋の鍵を手にしているのか。
「うん、昨日ボクたちすっごく眠くてさ……」
「あの人が、そんなに眠いなら今日はとっとと寝て明日の朝一でレイ兄の寝顔のぞいたれ、って」
一体、何を考えているのかあの男は。
この村の集会所兼自宅の管理人に、どう抗議してやろうかと考えている間にも、二人はトコトコとやってきて、そのままバフッとこの布団に飛び込んできた。
何でだろうか。
「ねーレイ兄、外すっごい雨だけどどーすんの?」
「……お腹、空いた」
こちらを見上げて口々に話し掛けてくる。
本当にう……元気なことこの上ない。いつにもまして声量が大きい気がする。
「そうだね、そろそろヤカラも戻ってくる頃だろうし、それに合わせて食事の支度しようか」
「あれ、あの人出掛けてるの?こんな雨の中……わぶ」
「お腹、空いた……ぁぷ」
取り敢えず、布団ごと二人を端に退かして寝台から降りた。
気圧のせいか少し身体が重く感じるようだ。
「まぁ、俺の考えが合ってたらね」
軽く伸びをして、準備のために部屋を出る。
後ろで抗議の声が二つ上がっているが、気にしないことにする。
***
「――おう、もう起きてたのか。飯の支度させて悪りぃな」
朝の支度を済ませ、イオリと一緒にレイの手伝いをする。
朝ごはんのいい匂いが漂ってきた頃に、ふらりとヤカラが戻ってきた。
「あ、おかえり〜。どこ行って……おわ?」
予想どおり、びしょびしょになって帰ってきたヤカラに声かけようとして、オレ――【セージ】は思わず引く。
だって、羽織っていたマントを軽く払って戸口に掛けると、ヤカラはその場でイキナリ服を脱ぎはじめたんだもの。
「あぁ、イオリ、その椅子持っていって。セージはそこにある着替え一式をお願いね」
オレの上げた声の意味に気づいたレイが、指示を飛ばす。
言われるままに着替えを持って寄ると、ヤカラがコソリと耳打ちしてきた。
「で、悪戯は成功したんか?」
それに答える前に、オレたちの間にドンッとタライが置かれた。
チャプリと揺れる中身はモウモウと湯気が立ちこめている。
「はい、身体冷えたでしょ。熱いから気をつけてね?」
「いやコレ、煮え滾ってんじゃねーか」
ニッコリといい笑顔のレイに、あきれたように呟くヤカラ。
そんな二人を交互に見つつ、思ったことを口にする。
「なんか、夫婦みたい」
『誰が夫婦だっ!』
二人揃ってツッコまれた。
ヤカラに至ってはゲンコツを飛ばしてくる。
オレはただアレ、何だっけ……そう、『夫婦漫才みたい』って言いたかっただけなのにっ。
「ってぇえ〜!」
「あーっ、セージをイジメるな!」
「虐めてねぇよ!自業自得だろうがっ」
「全くもう、ほらゴハン食べるよ」
さっそくイオリがヤカラに掴みかかり、そんな二人を横目にレイが溜め息をつく。
今日もにぎやかな朝ごはんになりそうだ。
・・・・
「と、云う訳で、俺もアンタらの旅に付いて行く事になったから宜しくな」
「……と、言われましても」
「説明になってないし。何でついてくんのさ」
突然のヤカラの宣言に、オレとイオリはフォークを持ったままパチクリと瞬いた。
テーブルについて、いただきますの直後に言われた言葉がコレだ。どーいうワケなのかサッパリ分からない。
そしてオレの反応はまだ普通だと思うけど、イオリのはちょっとキビシイかなぁ〜と思いますよ?
こんなかわいい顔で塩対応されたらオレなら泣くね、うん。
「いーじゃねぇか。ついでに未熟なアンタらを鍛え上げてやっからよ」
「レイサンがいるので間に合ってます」
「イオリっつったか?可愛気ねぇなぁ」
ヤカラもさすがに胡乱な目つきになるけれど、大して気にしていないとでもいう風に、ヒョイパク食べながら会話している。
オレも食べながらにレイを伺ってみると、ヤカラの発言に驚いた様子もなく、モクモクと食べ進めていた。
もうすでに話がついていたんだろーか。
(と、いうことは……)
「ヤカラ兄ちゃん……ヤカ兄?」
「お、兄貴に昇格したんか。なら気合い入れて育てねぇとなぁ、セージ」
こちらの呟きが聞こえたヤカラに、初めて名前を呼ばれる。
思わず見上げると、こっちを力強く見据え、ニィッと口の端をつり上げて笑っていた。
「俺等に任せとけ――なぁレイ?」
「……調子良いなぁ、もう」
ついでと言わんばかりにレイの肩を組み、すぐに冗談めかした顔になったけど。
初めて見たその笑顔は、めちゃくちゃにカッコ良くって、すごく頼もしかった。
***
今日の朝食は、レタスサラダとチーズオムレツに昨日の残りのスープ。
少し物足りない気もするが、ここは山深い辺境の村だ。贅沢を言ってはイケナイ。
ボク――【イオリ】はよく味わいながら食べ進める。
思えば、向こうでは大抵食欲が沸かず、いつも食べ残してばかりだった。
自分にとって食事とは演じながら、監視されながら口にモノを押し込むただの作業で、グルメになんて興味を持ったことがない。
それなのに……こちら側に来てからは、何を食べてもとびきり美味しく感じるのだ。
干し肉を戻しただけのスープしかり、焼いて塩振っただけの魚しかり。
お喋りしながらというか、笑いあいながら食事をするなんてのも初めてだ。
誰もテーブルマナーなんか気にしていない。
セージと競うように食べ、毎食キレイに平らげている。
なんなら、しょっちゅうお腹が空く。
今朝の分もあっという間に食べ終わり、皆で食後のお茶を飲む。
ちなみに今回はヤカラが淹れてくれたらしい。
昨日寝る前にももらったが、彼の淹れるお茶も美味しかった。何となくくやしいが。
「そーいえばヤカ兄、さっきまでどこに行ってたの?」
「んぁ?ああ、ちょっと身内に挨拶しにな……そうだ、アンタらに渡せって言われてたんだったわ」
セージのぶつけた質問に、ヤカラは何かを思い出したのか、戸口に引っ掛けていた荷物を持ってきた。
「全部俺の使い古しだがよ。まぁその格好よかマシだろ。町に出るまで着とけ」
ヤカラのバッグからドサドサとテーブルの上に積み上げられたのは、どこかで見た覚えのあるような刺繍が施された布地の、束。
「アンタらの体型に合わせて見繕ったって言ってたから大丈夫だろうが……つかどんだけ用意したんだよ母者は」
溜め息をつきながらヤカラが布地の一枚を広げると、たしかに彼が着るにはだいぶキツイであろうサイズだ。
全体的に少しヨレてはいるが、キレイに整えられた感じを見るとまだまだしっかり着れそうではある。
と、いうか。
「……母者?ヤカラサンのお母さんが、何でボクたちに服をくれるの?」
この村では彼以外は誰とも会っていな……いや、共同浴場の入り口に見張りっぽいヒトはいたけども、あれは男性だったし。
「あーそっか言ってなかったな。俺ぁ上の村の出身でな、アンタらそこで夫婦に会ったろ?俺の両親だ」
『えっ!?』
事も無げにサラリと告白された事実に、セージと共に固まる。
「……あの、のぞき見魔がヤカ兄の父ちゃん……」
「あ?何だって?」
「う、いやっ何でもない」
ボソリと隣りのセージが呟くのに、ヤカラが訝しげな顔をしている。
のぞき魔云々は分からないけども、まさかこのヒトの両親だったとは。
たしかによく見れば山岳民の特有らしい赤茶けた肌色に赤い瞳、オレンジ色の髪は母親と一緒だ。
「よく分かんねーが……ずっと気になってたんだと。そりゃんな格好じゃあ心許ねぇもんなぁ、つかよく凍死しなかったな?」
言われてみれば、あんなに標高が高い場所にいたわりには、寒さはそこまで堪えなかったというか。
それはそうとして、心配になるのはごもっともだとは思う。
なんせ自分たちの格好は、いまだに向こうから来てきた服装のまんまなのだから。
ボクの服である、汗を逃さないナイロンのジャケットと薄地のカーゴパンツは、過酷な山下りの最初の方からすでにボロボロだし、靴なんかソッコーでパカパカになって以降、無理矢理に布と紐で縛ってる始末だ。
セージに至ってはTシャツ一枚に、レイから借りたストールを羽織っているのみである。
これは心配されても仕方がない。
「うわぁ〜、おばちゃんサンキュー!イオリっ着てみよう!」
「うん、ありがとーヤカラサン」
「……?さんくぅ?」
それでも周りの心情などどこ吹く風、とばかりにテンションの上がったセージに便乗して一緒にはしゃいでみる。
だってこんな異国感漂う民族衣装を着られる機会なんてそうそうあるものでもないし、そりゃあもうすっごくワクワクする。
セージの言葉の意味が分からないヤカラはあえて放っておいて、ボクたちは色々合わせてみることにした。




