2.片田舎の漁師町 其の一
青い空に悠々と飛び交うウミネコと、そこかしこで腹いっぱいに鳴く蝉の声。
この町は今日も平和だ。
山と海に囲まれた豊かな自然に、内湾に面した地形にあって波は通年穏やかだ。
気候も温暖とあって、最近では都心から気軽にアクセスできる観光スポットとして注目されているらしい。
これには、長年続いた道路交通整備が整ったおかげもあるだろう。とくに都心からダイレクトに海を渡る道路の完成は全国の注目の的となったものだ。
…とはいえ、この辺りはその海上道路が降りる町からは更に奥へと離れているし、海産物と果物以外は特に目立った特色も無い。
かといって、町興しに意欲的に取り組むといった姿勢もあまりなく……。
この片田舎の町は、ただただ長閑だった。
・・・・
「まーとーもーっ!おっはよー」
「おう、おっはよ」
そんな海沿いにある町の中学校でも、登校時間は賑やかなものだ。
とくに今日は今学期の終業日ということもあり、中学に入ってから初めての夏休みを迎える一年生たちはもう浮き足立って仕方がない。そこかしこで明日からどう過ごすかの話題で盛り上がっていた。
「なあなあ!昨日の夏休み特集見た!?」
先ほど元気よく声をかけてきたクラスメイトの友人は、その勢いのままぐいぐいと詰め寄ってくる。
「ふぁ…あー、昨日はじぃちゃんと一緒に漁に出てたからなぁ…」
「ええーっまぁた漁かよぉ~!真友もよく行くよなぁ」
真友と呼ばれた少年が欠伸混じりに答えると、彼は大げさなリアクションで肩を落としてみせた。
「お前もさぁ〜もう中学生になったんだぜ?もっとこう、遊ばないとさぁ?あっという間にジジィになっちゃうって〜」
がっしりと肩を掴まれ、真友はそのまま前後に揺さぶられてしまう。
「そっうっ言わっ、れってっも…仕事だっし…!!」
がくがくと揺さぶられるままに説明をしてみるが止めてくれる気配がない。舌を噛みそうだ。
家が代々漁師をしている事も、真友がその手伝いをしている事も目の前の級友は知っているというのに。
(まぁ、一応じぃちゃんは働いてないってことになってるからなぁ)
彼らにとって『真友のじいさん』は昼間からゴロゴロしてばかりの偏屈じじいとしての認識しかないが、実はその界隈では名人として知られていたりもする。
その老人は夜に船を出して漁をするという独特のスタイルで質の良い釣果を上げるという。
ただし当の本人は「家督は息子に譲った、己は隠居の身」として、贔屓の取り引きなど一切せず、依頼が入ってもその時の気分で受けるか蹴るかを決めているらしい。
だがそれがかえって、界隈において 『依頼を受けてもらえたら一流と認められた証』 だと噂されるようになってしまい……おかげで名の知れた料理人やら企業からの依頼が未だに絶えないのであった。
なお、それらの依頼を捌くのは母の仕事である。
「だ~か~ら~!そのじいさんの道楽に真友が付き合うことはないだろぉ!?」
納得がいくわけのないクラスメイトの訴えに揺さぶられながらも真友少年は思い返してみる。
物心ついた頃には既に祖父の船に乗っていた。
それも決まって夜の漁に限ってなものだから、もうそれはそれは長年に渡って母と祖父がバッチバチに喧嘩ばかりしていたものだった。
今はどう折り合いが付いたのか、母は何も言わなくなったが、それでも祖父と漁に出るときは戻ってくるまで必ず起きて待っていてくれる。
ずっとそうであったし、真友自身も祖父や夜漁が煩わしいと思ったことはない。
友人と遊ぶのはもちろん好きなのだが…。
「ま〜、毎日ってっわっけでもないっし…ってっ!いい加減止めろって……っと!?」
「った!?」
しつこく揺さぶられたのでいい加減に首が痛い。
振り払ったその勢いで、ドン、と誰かにぶつかった。
すぐ後ろで小さな声が上がり、真友は慌てて振り返る。
「わわっごめん……って綾ノ瀬さん!?」
すぐ間近でその目が合う。ぶつかった相手は同じクラスで、且つ有名人であった。
ふんわりした髪はピンでまとめられており、整った小さな顔立ちがよく見える。
真新しい制服に身を包んだその同級生は、月と同じ色の瞳を細め、ぶつかってきた相手に対しても柔らかく微笑んでくれた。
「ううん、大丈夫だよ。おはよう真友くん」
にっこりと笑顔で挨拶を返すその姿は、まるで花が綻ぶようで。
しばし固まる男子二人を置いたまま、綾ノ瀬さんは先に教室へと入っていった。
「……っはーっ!びっくりしたぁ〜!!間近で綾ノ瀬スマイルくらうとは…無事か真友!?」
大げさに息を吐いたクラスメイトの隣で真友もこっそりと息を吐く。
「うん……ってかお前も悪いんだからな!?」
友人の胸を思いきり肘で突いた。
まったく…朝から心臓の鼓動が騒がしい。
・・・・
その日の夜、真友は海沿いの道を一人で歩いていた。
初夏の空気に潮の匂いが混じる。
昼の暑さも、この時間ともなればずいぶんと涼しくなっていた。
今夜は新月で、いつもより星がよく見えるはずなのだが、街灯が点々と続く路上では大して差が分からない。
彼にとっては、むしろ煩わしかった。
(海の上からなら、よく見えるのに)
防波堤に沿って続く道をとぼとぼ歩きながら、昨夜の漁を思い出していた。
いつもと同じ、静かな夜だった。
―― 明日は新月だな。普段は隠れちまうような星が出てくる
ポツリ、とそれだけを呟いた祖父の声が波の間から響いて消え……そのまま再び声を発する事もなく老人は作業に移り、少年もそれに倣って仕事を手伝う。
後ろを振り仰ぐと、祖父の背が星空に浮かんで見えた。
共に漁に出てはいるが、普段から寡黙な祖父が進んで仕事を教え込むということは滅多にない。
ただ依頼が入れば荷物のように孫を船に乗せ、とくに手伝えとも言わず黙々と己の作業に没頭するような、そんな男だった。
真友少年も最初のうちはそんな祖父の仕事を見ているだけだったのが、そのうち少しずつ手伝うようになっていった。
聞いてもろくに答えず、失敗しても怒らずただ必要最低限のことにはポツリ、と呟き手を添える。
ただそれだけの教えでしかなく。
だけども少年はそれを辛いと思うことはなかった。
海は当たり前のように昏く、星は頼りなげに瞬く。町の明かりは遥か遠くで揺らめくだけ。
怖くて、寒くて、寂しくて―――それだけしかないような世界の直中を、ピタリと祖父に寄り添いともに享受していた。
そんな夜だった―――。
(オレは変わっているんだろうな)
今夜は漁はない。
だけども何となく落ち着かなくて、海沿いをぶらぶらと散歩しているだけだ。
まだそんなに夜も更けてはいないのに、浜辺には誰もいない。漁師の多いこの町の住人はとくに早く眠る。
度々夜の漁に連れて行かれ、放課後はまっすぐ帰って昼寝ばかりを繰り返す少年を、周りは遠ざける事も腫れ物の対象にすることもなく、むしろ若干の同情を含めながらも合わせてくれた。
真友少年もそんな隣人たちに感謝をしながらも、漁が入ればいそいそとそちらを優先した。
(皆で遊ぶのは本当に楽しいと思ってる……けど)
言い訳めいた呟きを心の中で独りごちる。
むしろ休み時間はチャイムが鳴るのと同時に級友たちと校庭へ飛び出して行くのだ。
漁がない日は日が暮れるまで彼らと過ごすことも多い。
それらの時間はとっても楽しい、と心からそう思う……けれども。
(でも、それだけじゃあつまらないんだよな)
何で後ろめたい気持ちになるんだろうか。
足を止め、防波堤に寄りかかりながら海を眺めていたその時、遠くの方から誰かが走ってくる音がきこえてきた。
浜辺に沿って続くこの道はランニングコースとして利用する者ももちろんいる。
何も珍しくないのだが、近づいてくる靴音にはどこか違和感があった。
なんというか………追われているような。
真友もそう思いながら視線を向けると、どこかで見たことのある顔とすれ違う。
「……え、あっ!?……綾ノ瀬さん!?」
声が裏返った。
同じクラスであるその顔はよく知っている。今朝も間近で拝んだばかりだ。
それでも認識するのに一拍の間が空いたのは……きっと初めて見る私服のせいだろう。
「……っ!!真友くん…」
相手も驚いたようで、数メートル先で立ち止まる。
普段は校内で制服に身を包んでいるが……むしろその格好でしか見かけた事がないのだが、今は黒い服に短パン、同じ色の靴下と靴、と全身黒ずくめである。
それだけならまだしも、更に黒のジャケットと明るい髪色を隠すようにニット帽をすっぽりと被りこむ、といった念の入りようだ。
……どう見てもおかしい。
季節でも間違えたのかと顔を見やるが、そうではない証拠にびっしりと汗をかいている。
ハアハアと苦しそうに呼吸しているが、それは走っていたからという理由だけではきっとない。ちらりと覗く首すじが、街灯に照らされてぬらりと光った。
「えっと……」
思わず黙って観察してしまったが、声を掛けられ真友はハッと我に返る。
「……っあっ…とご、ごめん!えーっと、あー…綾ノ瀬さんも散……歩?」
慌てて話題を振ってみたが、その間にも綾ノ瀬さんはちらちらと辺りを伺うように忙しなく動く。
余程急いでいるのだろう、小さく息をのみ込むと……。
「うんっ、ちょっと用があるのっそれじゃっ」
いつもの明るくかわいらしい声で言い切ると踵を返して走り出してしまった。
「あ、うん……じゃあ…………っ!!」
―― じゃあ、また明日!!
そう言おうとして明日から夏休みではないかと思い出し、それなら何を言うべきか逡巡し……。
衝撃とともに唐突に息苦しくなった。
「――っ!?真友くんっ!!」
悲鳴に近い綾ノ瀬さんの声が辺りに響く。
何がどうなっているのか―――咄嗟に口を塞ぐ何かを取ろうとしているのに身体が一向に動かない。
「離せ!そいつは関係ないんだ!!」
まるで綾ノ瀬さんらしくない声が響く。
取って付けたような可愛らしい声でなく、少し低い少年のような声。
(あぁ…これが普段の綾ノ瀬さんなのかも)
ぼんやりそう思うのと同時に。
「いけませんねぇ、お嬢。お父上に叱られますよ?」
低い男の声が頭上から降ってくるのに、真友はようやく状況を理解した。
自分は誰かに捕まっている。
それに気づきはしたが、恐怖を感じるよりも一瞬早く動いた綾ノ瀬さんの表情に思考が停止した。
だって、あまりにも女の子のイメージと違ったから。
か弱いその子は、目の前の乱暴な扱いにあからさまに怯え狼狽える……はずだった。
ぺたりとその場に座り込み、酷く青褪めた顔でぼろぼろと大粒の涙を流し、震えるながらも止めるよう懇願するような。
そうだろうと――いや、そうすると思い込んでいただけで。
パチクリと瞬きをしたあとに見た綾ノ瀬さんはしかし、そうではなかった。
怯みながらもしっかりと足を踏ん張り、顔を上げてこちらを…自分を羽交い締めにしている男をキリッと睨み据えている。
小さく震えながらも、綾ノ瀬さんは堪えていたのだ。
おそらくきっと、真友を守る為に。