19.薬香に咽せる 其の二
机の上に頭を預けたまま、ぼんやりと窓の外を伺う。
時刻の割に随分と暗い。
「一雨来そうだな」
俺――【レイ】の向かいに座る男がポツリと呟いた。
薬草の香りは、いつの間にか薄れている。
彼の言葉に特に返事を返すこともなく、そのままの体制で外を眺めていると、ガタリと椅子の動く音がした。
「なんだ、拗ねてんのかよ。それとも薬草に当てられたか?」
サラリと前髪をかき分けられて、ヤカラが顔を覗き込んできた。
赤スグリ色の瞳が心配そうに揺らいだのが分かる。
たしかに、立て続けに効能の強いお茶を飲んだせいか、少し身体が怠い。
だけども気が重いのは、それだけが理由ではなかったりするのだけど。
「待ってろ、今白湯を……」
「ヤカラ、話があるんだ」
席を離れようとする彼を引き止めて、重い身を起こす。
「キュイエールの、こと」
「――っ!何だ、何かあったのか!?」
名を出した途端、表情が一変し、眉根を寄せ必死な目で詰め寄ってきた。
ガタリと机を揺らすものだから湯呑が倒れそうになるも、お構いなしだ。あと近い。
「うん、落ち着いて?直ぐにどうなるって訳じゃあないから……多分」
「んな説明で落ち着けるかっ!キュイエールはどうした!?」
「シィ……二人が起きてしまうよ?」
……これなのだ、あの二人に寝てもらった理由は。
イオリとセージに話の内容を聞かれたくない訳じゃあない。
【アラン】については、そんなものはこれから先、嫌でも知らねばならないのだし。
本当は、キュイエールのこととなればこんなにも簡単に狼狽してしまうこの男の、そんな情けない姿を見せたくなかったから。
彼は、ヤカラは心からキュイエールを慕っている。
返しきれない恩があるのだという。
まだ若い身そらで、キュイエールと共に神域に籠もろうと、幼い頃から努力し続けているほどだ。
出会った当初など、神域に通う俺に敵対心的なものを抱かれてたりもしたし、そのせいでちょっとした騒動も起こったりしたのだけど……まぁそれは置いといて。
「……〜っなら早く教えやがれっ」
窘められた本人は、それでも素直に声を抑えてくれる。
(優しいんだよなぁ、ホント)
苛立ちを隠そうともせずにこちらを睨みつけながらギリと歯を軋ませる、野犬のようなその形相からは想像もつかないけれども。
「神竜がもうじき召されるそうだよ。キュイエールはずっと付きっきりで……」
「んなこたぁ前々から分かってた事だろうがよ……なぁレイ」
落ち着いてもらおうと用意した前置きは、どうやら不要のようだった。
押し殺した声がもはや唸り声に聞こえる。
今にも噛みつかれそうだ。
「キュイエールは……次の神竜に成る為に血を与えられた生贄だろうがっ」
唸りは悲痛な声色に変わった。
剥き出していた怒りは一転して霧散し、机の上に両の拳を作り大きく項垂れる。
次の言葉も紡ぎ出せず、肩を震わせるばかりの彼を眺めつつ、胸の内で大きく溜め息をつく。
(まったく……貴方の懸念した通りになったよ、キュイエール)
神域を出る前に、キュイエールに頼まれたことは二つ。
一つは、隣の部屋で寝ている二人のこと。
神竜に気付かれる前に、速やかに山から離れて欲しいとのことだ。
知られると煩いのだと、溜め息をつかれた。
もう一つは、ヤカラの説得。
……これが本当に気が重い。
『御山を護りし次代の神竜』と成る。
そんなキュイエールの身の上は、当人曰く「大した事ではない」とのことなのだが、このヤカラが納得するわけもない。
彼にとっては、恩人がこの山に幽閉されるようなものだ。
キュイエールが、彼が自分に気を囚われることなく自由に生きて欲しいと願うように、彼もまた、キュイエールはもう何も囚われずに生きるべきだと考えている。
いや、それが叶わないのならば、せめて、己も共に在りたい――と。
「キュイエールは元気だよ。数年前の疲労ももう残ってないって……ただ」
目の前で項垂れていた彼が、ゆるりと面を上げる。
その目に険は既になく、ただ、今にも泣きそうだ。
「キミを心配していたよ……とても。恩返しなどしなくていいから、人生を謳歌しなさい、と」
こんな言葉が届くわけもない。
そんなこと……キュイエールも分かっていたろうに。
真正面から目が合うように、少し近づいてみる。
この言葉は、受け入れられるだろうか。
「だからさ、ヤカラ。――俺たちと旅に出てみない?」
***
――咽せ返るような香の中で目を覚ます。
叢に寝かされているかと思ったが、今ならあれら全てが薬草の束だったと分かる。
実際に強過ぎる香に咽せていると、目の前に盃が差し出された。
柔らかい笑み。
透き通る様な緑翠の瞳が、己を見下ろしていた。
今でも昨日の事のように思い出せる。
それが、己――【ヤカラ】と、キュイエールとの出会いだった。
キュイエールは己の恩人であり、敬愛する師匠でもあり……己の魂の片割れだ。
そんな事は目の前の男も、レイもよく知っている筈だろうが。
「……アンタら、と……旅……旅に出ろって……?」
噛み締めるように繰り返してみる。
が、思考がその意味を理解しようとしない。
「旅に出ろ、って……言ったのか、それ……キュイエールが……」
ひたと己を見据える男に向かって言葉が流れていく。
受け容れたく無いのに、その目からは何故か逃れられない。
「キュイ……が、俺に……離れろって」
「違うよ、ヤカラ。それは意味が違う、彼の意図をはき違えないで」
「……――っ、おんなじ事だろうがっ!離れても構わねぇってこたぁ……要らないって事と同意義だろうが!」
同じだろうが。
居なくなっても何とも思われないって事は。
あの男の心に残らないって事は――……
……――己が此の世に在る意味が無いに等しい。
己はキュイエールの、あの男の傍に居る為に、出会ってからずっと努力し続けた。
人の住まわぬ地に住もうとするあの男と行動を共にするのは、身体に異常な負担をきたす。
血反吐を吐くのも日常茶飯時だ。
肉親らにも幾度となく止められた。
それでもあの男と共に生きたいと、同じ世界を見たいと鍛錬も薬草学も欠かさず続けている。
真理を得たいと何度も夢に見た。
キュイエールの役に立ちたくて……隣に居たくて。
だが、要らないと云うならば……
「同じじゃないよ、ヤカラ」
その声に、腹の底から黒いナニカが込み上げて――意識が追う前にレイの胸ぐらを掴み上げていた。
ガシャンと何かが砕け落ちる音がしたがどうでもいい。
拳を硬く握る。
目の前の男の唇が動いた。
「本当のキュイエールは、そんなこと思わない。キミが今、抱いているキュイエールは、違う」
何を言うかと思えば。
己が理解しきれていないだけで、アンタの方は理解してるとでも言いたいのか。
たかだか数年しか居なかったくせに随分と馬鹿にしてくるものだ。
己の中のキュイエールは、あの瞳は……
―― ありがとう、ヤカラ……
差し伸べる手が、慈しむように低く響くあの声が。
―― 共に居てくれて、ありがとう
嬉しそうに微笑んだ、あの顔は……
「キュイエールは……俺を必要だと、言ったんだ」
唐突に、あぁそうか、と腑に落ちた。
何時も何時も何時も――教えを乞う己に、付きっきりで応えてくれた。
その身が疲労で倒れるまで。
山の異変は神竜の不調を示す。
己と神竜との世話に、休む事無く何年も対応していた結果に倒れた男を、だが介抱に向かうことすら叶わなかった。
己は、神域には入れない。
レイに頼るしかなかった己の弱さを痛感し、これからは独りで強くなると決意した。
己に足りないものも、その時に、気付いた筈だった……本当は。
「俺は外の世界を知らない。キュイエールが見て来た世界を見た事が無い」
この山に来るまでは、あの男もレイと同じ旅人だった。
旅人であるレイが神域に行けるというのなら或いは――と。
「俺に足りないものが……見聞を広める事で、真理を得る事が出来んなら」
あの男は、旅に出ろと言った。
だが戻ってくるなとは言っていない。
あの男が、己を必要としてくれてるのなら……己に必要なものを与えようとしているのならば。
「俺は、アンタらと旅に出る。――キュイエールと共に在る為にな」
あの男が、旅に出ろと言ったのならば。
己はそれに応えるだけだ。
***
「……はあぁぁ〜」
俺――【レイ】の口から、長い長い溜め息が漏れる。
おい、隠しきれてねぇぞ、と目の前の男が胡乱な目を向けてくるのに対し、正直に言ってみる。
「いやもう、ね。キュイエールのことになると、本っ当に面倒臭くなるよね、キミ」
「アンタ随分言うようになったな?前はもうちょい俺に対しても遠慮してたろが。てかンな風に思ってたんか」
「あ〜……口の軽くなるお茶なんて飲まされたせいかも〜そんな人と一緒に旅なんて出来ないかも〜」
「そーかそーか、待ってろ今残った茶ぁ煮出し切って飲ませてやっからなぁ」
お互い椅子から立ち上がり、軽口を叩き合いながらもテキパキと床に割れ落ちた湯呑の欠片を拾い集める。
何時ものこの空間は、手放すべきだったこの関係は……
どうやらまだ続けられそうだ。




