16.山下り 其の三
草原を渡る風に、微かに流れる泣き声が二つ。
自分の傍らで蹲り、肩を震わせながら啜り泣く少年と、少し離れた上のあぜ道で立ち尽くしたまま、ひゃくり上げる少年のと。
どうやら伝えたい言葉は、ちゃんと届いたようだ。
藍色に染まりゆく空を眺め、俺――【レイ】は、二人が泣き止むのを待った。
ここに来る少し前のこと。
夫婦と話の擦り合せも済ませ、そろそろ寝ようかという頃合いにイオリが戻ってきた。
乱れた部屋着は汚れており、イオリ自身もボロボロと泣き腫らしている。
慌てて立ち上がったものだから、椅子がガタリと倒れそうになった。
この家の裏手に、二人が居たのは知っていた。
他に人の気配が無かったことも……なのに、これは一体。
起こり得る事起こり得た事最悪の事態への対応に、予想と予測を頭の中で組み立てていく。
気が焦るほどに、頭が重くなる。が、それをおくびにも出すことはしない。
膝を付き、イオリの方へと手を差し伸ばす。
目を合わせ、セージは?と柔く問うた。
感情は伝染する。
焦りも気後れも、今、相手に必要なのはそれじゃあない。
青褪めた顔で固く拳を握りしめながら、イオリが告げる。
自分はセージを傷つけてしまった、と。
自分のせいでどこかへ行ってしまったのだ、と。
一瞬、何だケンカか……と気が緩んだけど、外はもう暗い。
泣きじゃくるイオリの手を引いて、二人でセージを探しに行くことにした。
……斜面沿いに蹲る背中を見つけた時は安堵した。
この先の崖から転落していなくて本当に良かった。
イオリの手を引いたが、自分には合わせる顔がない、と拒み、その場に留まった。
そう言いながらも、目はセージの背中を見ていて。
(仲直り出来て、良かったね)
この台詞を手向けるのは野暮だろうと、心の内に仕舞う。
「さて、と。戻ろうか」
「そーいえば、レイ兄は気付いてたの?イオリ、の正体」
立ち上がり草を払っていると、泣き止んだセージが目を擦りつつも尋ねてきた。
「ん?気付いたも何も、見て判ったし」
「……はぁ〜ん?」
何か気に障ったのか、ユラリとセージが立ち上がる。
「つ、ま、り〜オレが何も知らないのを知ってて黙っていたと?」
何だかユラユラと怒気を孕ませていくセージだが、どうしたというのか。
俺のせいではないはずなのに、明らかに俺に敵意を向けている。
「え、いや事情があるんだろうなぁって思って。まぁ可笑し……いや気付かないもんなんだな~って見てはいたけども」
「レイサンそれ言っちゃイケナイやつ」
口に手を当てつつ試みた弁明に、ポソリと一言イオリが添える。
「って、やっぱり知ってて黙ってたんじゃねーかぁいっ!オレの純情モテアソブヤツぁくすぐりの刑じゃあっ!!」
流石にからかいに気付いたか、吠えたセージが手をワキワキさせながら突っ込んで来る。
「うえっ?ちょっ、服汚れるし」
サラリと避けるも、セージは諦めてくれない。
俺達二人のじゃれ合いを眺めていたイオリに向かって、声を張り上げる。
「イオリもっ見てないで手伝えよ!」
「……えっ」
振られるとは思ってもいなかったのだろう、戸惑っているが。
「トモダチなんだからっ……一緒に手伝えよ!」
「……うん!」
頑なに目も寄越さず捲し立てるセージに、それでもイオリは応えた。
とても嬉しそうに、満面の笑みで。
***
まだ深い夜のうちに、オレ――【セージ】は起こされた。
「……う〜なぁに、レイ兄……」
「シィ。ほら、着替えて。夜のうちに村を出るって言ったろ」
言いながらレイは、オレのとなりでいまだ起きないイオリを揺り起こしている。
そーいえばそんなこと言ってたかも、とあくび混じりに思い返してみた。
たしか、あれから夫婦の待つ家に戻ったオレたち三人は、おいちゃんが温め直してくれたお風呂にまとめて放り込まれ……たんだけど、いかんせん展開が急すぎたよね。
さっきまでオンナノコだったイオリと風呂に入るなんて、心の準備が出来ているわけないじゃん!?
せめて今日はご勘弁願いたい!と、結局イオリが先に入ったんだっけ。
それにしても、今回も山下りとご馳走と衝撃の真実と、色々なことがあったもんだ。
おかげで日が沈んで間もないというのに藁ベッドにダイブしたとたん、ソッコーで寝落ちしたもんな。
よーやく起きてきたイオリとともに、ノロノロと着替えを済ませていく。
ドアの向こうから光が漏れていて、荷物を持って出るとランプを携えたおいちゃんが、じっと待っていた。
レイの背を叩き、顔を見合わせて無言で頷きあうと、今度はオレとイオリの方を向く。
「そんじゃあ、アンタらも達者でなぁ……『御山の土の続く限り神竜の加護と共にあれ』」
おいちゃんから小声で手向けられた言葉は、昨日の山小屋のじーちゃんから言われたものと同じだった。
静かな祈りの声に、オレたちは無言で頷きかえす。
戸口へと向かうと、ランプの光の届かない闇におばちゃんが立っていた。
「いつか近くに来ることがあったら、顔を見せに来るんだよ」
おいちゃんよりも一層小さな声でささやくその人は、柔らかい笑みを浮かべながらオレたちの方に顔を向ける。ぼんやりと揺れる視線に、オレたちの顔は見えてはいないんだろう。
けれどもオレたちは、まっすぐに彼女の目を見て頷いた。
***
『……ふっ、わぁ!!』
あの夫婦の家から一歩踏み出た外の世界は、満天の星で埋めつくされていた。
セージとボク――【イオリ】の手を引いて、ぼんやりと浮かぶ薄明かりの道を、レイが先導する。
ボクたちは夢中になって辺りを見渡した。
前も横も後ろにも、下にも。そこかしこから星が瞬いている。
眼下に連なる稜線の際までも、まさに幾千億と埋めつくされていた。
呼応するように点滅しあう、赤や青や緑の星。
視界のすみで一筋の光が流れたかと思えば、夜空の半分をおびただしい数の流星群が埋める。
山端に細長い曲線を描いて浮かぶ美しい金の筋は、向こうでは目にすることはありえないような、とてつもなく大きな月だった。
ふと、真上を見上げる。
息づかいさえ許されないような静寂の中なのに、恐ろしいほどの大音量で、荘厳な音楽を聴いているような……そんな不思議な感覚におちいった。
呑み込まれそうになるそのたびにレイがギュウと手を強く握りしめてくれ、そのおかげでボクたち二人はハッと我にかえり、地面を踏みしめる。
この山には、いつかまた来たい。
そんなことを、ボクたちは強く願った。
***
村を抜けてすぐの岩陰に入り、三人でしばしの間、朝を待つ。すでに東の空は薄く色付き始めていた。
白白と夜が明けてくると、俺――【レイ】は、二人を連れて再び歩き出す。
下る道は、もうかなり歩きやすくなっていた。
「うはぁ〜、地面がちゃんと地面してるぅ」
「うん、しかもいつの間にか岩から土に変わってるね。これならまた足踏み外しても平気だね」
「す〜はぁ〜……空気もいっぱい吸えるぅう」
「見て、セージっ階段が……あそこの崖が階段状になってる!」
「なにっ、じゃあ滑り落ちながら進まなくってもいい……ってこと?」
「うん、もう滝つぼに向かってフリーウォールしなくてもいい……ってこと!」
爽やかな朝の木漏れ日の道に、セージとイオリのはしゃいだ声がよく通る。
何やら言葉の端々に引っ掛かりを感じる気もするけれど。
それにしても、三日かけて雲より高く険しい山道を下りてきたからか、彼らは心なしか逞しくなってきたように思う。
何時ぞやの筋肉痛騒ぎも何処へやら。
足取りも軽く、次の村へは昼前に着くことができた。
・・・・
「――あぁアンタか……ってどうしたんだその子供らは!ボロボロじゃねぇか!?」
大陸の東にある国。
その北の山に棲む神竜を敬い共に生きる山の民。
その一族は同じ山の麓にある、こちらの小さな村でも生活をしている。
昨日も滞在した、彼等が古来より住まうあの天空の村は、信仰する神竜により近しい分、環境がより過酷だ。
容赦のない自然の脅威に晒され、ろくに人口の増えない現状を打破すべく、いつからか彼らは二手に住み分けて生きる道を選んだ。
麓から最寄りの町まで仕入れた物資を運び、山の上で採れた山草や作った品を必要な物と交換しあうことで、お互いに上手くやっているそう。
ひと昔前までは、伝統を重んじる上と柔軟に変化を取り入れる下とで、互いの価値観や意見が合わずに衝突することも多々あったらしいけれど、キュイエールが仲裁に入ったおかげで最近ではすっかりお互いの相互理解が深まっている。
所謂仲良しの隣人だ。
自分も上の村人達の生活に負担を掛けないよう専らこの村の物資を頼って生活していたので、殊更この村の人達とも交流が深い。
特に世話になっているのが今、目の前にいるこの男なのだけど……
この村の集会所の管理人でもある彼に、いつも通り挨拶しに向かったその結果が、先程の驚きに満ちた声だった。
「大丈夫か!?獣にでも襲われたのか……レイは無事かそりゃそうかアンタが助けてやったんだよなってそれより手当てだなほらこっち来い……」
「うわぁあっ……!?」
「あっセージっ!?ちょっオマエ、セージを離せっ!!」
「わ、ちょっと待って!?」
一息に捲し立て、手近にいたセージの腕を取り奥に連れて行こうとする男に掴みかかるイオリ。
俺は慌ててそれらを止めに入る。
「大丈夫、彼らは無事だから。ボロボロなのはその、ちょっと急いで山を下りて来たものだから……」
「……は?山を下りただと?急いで……ほぅ」
プルプル震えるセージと威嚇を続けるイオリを自分の両腕に抱え込みながら説明すると、男はピクリと反応し、動きを止めた……のだけど。
「ふぅん……と、いう事は伝承にある『神域の子供』か。上の連中には見ない顔だものなぁ。で?レイよ、お前さんの足に合わせて?その子供らに山下りを急かしたと。あ、の、山のてっぺんから……なあ?」
「えぇと、うん……」
昨夜に感じたものよりも、圧倒的に強い怒りの波動が再び自分に突き刺さる。
含むように確認を問う言葉とともに、相手の眉間の皺が少しずつ深くなってゆく。
剣呑な雰囲気に押されるままについ頷くと、男はカッと目を見開いた。
「この莫迦野郎っ!アンタみてぇな常人離れした感覚のヤツに子供らを付き合わせるんじゃねぇ!しかもあんな険しい山道を……タダでさえ連中の村から上は熟練の山岳民ですら通れる奴が少ないってのに……」
出会ってすぐの男から思いっきりお叱りを受ける俺を見て、セージとイオリの目が点になる。
「いいか、常々言っているが普通の人間はアンタみてぇに当たり前の様に半日であの岩山を往復なんざ出来ねぇからな!そもそも雲の上にある連中の村に行くのですら並大抵の――……」
(あぁ、始まってしまった……)
胸の内でこっそりと、後悔した。
しまったと思うも時はすでに遅し。男の怒りは一息では収まらず、延々と続く。
普段は呆れたように言われる小言も、今回ばかりは本気で怒ってくるし、懇々と続く説教に加えて子供らからの視線も痛い。
結局……朝のうちに着いていたはずなのに、男の説教は昼過ぎまで続いたのだった。




