11-3
「フェ、フェリシアンさん、何をする気ですか……」
「あなたは相当リュシアン殿下に大切にされているようですね。王家に連絡したときの様子でわかりました。あなたが死んだら悲しむだろうなぁ。ルナール公爵管轄の屋敷で大切な婚約者が死んだとあっては、公爵もただでは済まないでしょう」
彼はナイフをこちらに向けながら、歪つな笑みを見せる。ベアトリス様がすぅっと私の横を通り抜け、フェリシアンさんのそばに行った。
彼女は止めようとするようにフェリシアンさんの腕に手を伸ばすが、その手はあっけなくすり抜けてしまう。
「殺人犯になってしまってもいいんですか」
「もちろん覚悟の上です。俺は処刑されるでしょう。けれど、王家とルナール公爵に復讐できるのならどうなっても構わない」
フェリシアンさんの目には一切の迷いがなかった。
静かにこちらに近づいて私の腕を掴もうとする。
慌ててその手から逃れ屋敷の奥へ逃げようとするが、あっけなく距離を詰められる。フェリシアンさんは私の腕をつかんで庭に引きずり出した。私は地面に倒れ込む。
フェリシアンさんは扉を塞ぐようにドアの前に立っていた。これでは屋敷の中に逃げ込めない。
「逃げてもいいですよ。どうせ庭の門より先には出られないんだ」
フェリシアンはうすら笑いを浮かべて言った。その顔はどこか楽しんでいるように見えた。
私は恐怖に駆られながらもよろよろと立ち上がり、彼から離れようと庭の奥へ駆けて行く。
フェリシアンさんはわざとらしくゆっくりと歩いて私を追った。まるでわざと泳がせて、少しずつ追い詰めるのを楽しんでいるみたいだ。
私はわけがわからないまま、とにかく走った。
彼が油断しているうちにとにかく逃げて、隙をついて屋敷の中に入らなければ。監視係は二人以上でないと屋敷の中までは入れないはず。
それだけを目指して逃げ回るが、すぐに息が切れてしまう。
後ろを見ると、フェリシアンさんに縋りつくように、ベアトリス様が口をぱくぱく開けて必死で何か言おうとしていた。
フェリシアンさんは全く気付く様子がない。
随分と長いこと、彼から逃げ続けた。
とうとう体力が限界に近づいたとき、足元がふらついて、前のめりに転んでしまった。後ろから足音が近づいてくる。
何とか顔を上げると、視界の端に紙袋と中から飛び出た二つの瓶が見えた。
ああ、こんなものすぐに放り出せば少しは体力が持ったかもしれないのに。パニックになって、ずっと抱え込んで走っていたのだ。
足音はすぐ後ろまで迫っていた。足の痛みに耐えて起き上がろうとした瞬間、腕を強く掴まれる。
「どこから刺されたいですか? すぐには殺さないから安心してくださいね。じわじわ痛めつける様子をリュシアン殿下に見せて、たくさん苦しんでもらう予定ですから」
「……それはちょっと心惹かれます。リュシアン様が痛めつけられる私の姿を見て苦しんでくれるなんて」
「ははっ。あんた、意外と図太いな」
フェリシアンさんは口を大きく開けて笑った。ベアトリス様はずっと彼の隣で何か呼びかけているが、その声が届くことはない。
彼女はいつもの無表情が嘘のように、泣きだしそうな必死の顔をしていた。
「今すぐ通信機を……」
フェリシアンさんは何か言いかけ、言葉を止める。
不思議に思って見上げると彼は目を見開いてじっと一点を見つめていた。視線の先を追うと、そこには先ほど落とした二つの瓶が転がっている。
「あれは……あの色は……」
「あれですか? 庭の薬草から作りました。フェリシアンさんにお渡ししようと思って詰めたんです。お渡しできるような状況ではなくなってしまって残念ですけれど」
「あの色は、母さんでなければ出せないはずだ。魔力を込めなければ煮出したって平凡な茶の色になるだけで……」
フェリシアンさんは相当動揺しているようで、手の力はすっかり緩んでいた。その隙に抜け出すが、彼が気にする様子はない。瓶をじっと見つめたまま動かなかった。
ベアトリス様はそんな彼をただじっと見つめている。
「これを作るときにベアトリス様もそばにいてくれたんです。もしかしたら気づかないうちにその魔力を込めてくれていたのかもしれませんね」
フェリシアンさんは戸惑い顔でこちらを見た。
そして縋るように尋ねる。
「あなたには、本当に母さんが見えていたのですか?」
「最初から言っているじゃないですか。私はずっとベアトリス様といましたよ。今日だってずっと。今もベアトリス様、フェリシアンさんの横に立って心配そうに見ています」
そう言った途端、フェリシアンさんがきょろきょろと辺りを見回す。ベアトリス様はすぐ隣にいるが、彼の目には入らない。
その時、ベアトリス様のいるほうから冷たい風が吹いた。
右頬に手を当てたフェリシアン様は呆然とそちらを見る。それから彼の頬を涙が一筋伝ったかと思うと、しゃがみ込んでぼろぼろと泣き崩れてしまった。
小さくなって子供のように泣くフェリシアンさんの頭を、ベアトリス様はいつもの真顔で、けれどどこか愛情を感じさせる目で見つめながら、ずっと撫でてあげていた。