8-5
***
その日の晩、初めて監視係のロイクさんから連絡が入った。
玄関横のプレートからじりじりと音が鳴るのを聞いて、何事かと一瞬腰を抜かしそうになった。
「ジスレーヌ様、こんばんは。そちらの様子はどうですか?」
プレートからロイクさんの明るい声が聞こえてくる。こちらはリュシアン様が通信に使う鏡と違い、映像は映らず声だけ届く仕組みのようだ。
「ロイクさん、こんばんは。こちらは変わりないですよ」
「それはよかった。魔女の幽霊はまだ出ますか?」
「出ます。今日もほぼ一日中、一緒にお屋敷を掃除したり、庭の草むしりをしたりしていました」
答えると、しばらくの間沈黙が訪れた。
「掃除に草むしり、ですか。一緒にって幽霊がどうやって?」
「ベアトリス様は箒やバケツに触れたりはできませんけれど、私がわからないこと色々教えてくれれるんです。たとえばそ……」
倉庫が閉まって困っていた時、鍵の場所を教えてくれたのだと言おうとして、監視係のロイクさんにそれを伝えるのはまずいだろうと慌てて口を噤む。
ロイクさんは親しみやすい態度で接してくれるのでつい気を抜きそうになるが、本来は罪人がおかしな行動をしないか見張る役割の人なのだ。
「そ、掃除をしている最中に薬草を見つけたんですけど! それで薬を作ろうと作り方を見ていたら、ベアトリス様がこちらのお茶のほうが作りやすいんじゃないかって指で差して教えてくれたんです!」
慌ててそう誤魔化したら、ロイクさんは静かな声で言った。
「ベアトリス様って呼んでるんですね。その幽霊のこと」
「え、あ、はい。本人に尋ねたらうなずいていたので……」
言いながら、信じていない人が聞けば完全に異常者の言葉だろうなと思った。
幽霊に作りやすいものを教えてもらっただの、名前を確認しただの。しかしロイクさんは馬鹿にする風でもなく言う。
「あなたはその幽霊が怖くないのですか?」
「最初は怖かったですが、今は全く怖くありません。ベアトリス様はいい人ですもの!」
迷わず言ったら、ロイクさんは「それはすごいですね」と驚いたような声で言う。
「ロイクさんも実際にベアトリス様と会ったらそう思うと思います。私、ベアトリス様にいろいろ教えてもらったお礼に、幽閉期間が終わるまでにお屋敷をきれいにしておこうと考えているんです。あの方も住んでいるお屋敷が綺麗なほうが居心地が良いでしょうから」
そう宣言したら、再び沈黙が訪れる。
「あの、ロイクさん……?」
「あぁ、いえ。いいと思いますよ。罪を犯した人間の亡霊にもお優しく接するその姿、慈悲深くて大変素晴らしいです」
ロイクさんは明るい声で言う。しかし、その声にはどこかトゲが含まれているような気がした。口では褒めながらも、こちらを嘲笑っているかのような。
少し戸惑ったが、些細な違和感を口にすることもはばかられ、私は笑ってごまかした。
すると、急に肩のあたりが冷える。振り向くとベアトリス様がそこにいた。
「それでは、ジスレーヌ様、今日はこれで……」
「あ、ロイクさん、待ってください。今、ベアトリス様が来ました」
あまり考えないままそう告げると、プレートの向こうで息を呑む気配がした。
「え……?」
「今私の隣にいます。プレートが気になるんでしょうか。ぺたぺた触っています」
ベアトリス様はプレートに手を触れながら、時折首を傾げて不思議そうにしていた。
「今監視係さんと通信しているんですよ。通信機が珍しいですか? 二十年前にはこういうの、あまり普及していなかったそうですものね」
『ジスレーヌ様、今話しているのは……』
「ベアトリス様が不思議そうに見ているので説明していました」
ロイクさんは随分と動揺しているようだった。急に幽霊がそばにいると言われ、驚いたのだろうか。それとも馬鹿なことをと呆れているのだろうか。
『……すみません。次の仕事が控えているので、もう切りますね。何かあったら遠慮なく連絡してください』
「あ、はい! 引き止めちゃってすみません。お仕事頑張ってください」
私がそう言うと、ロイクさんは曖昧な返事をしながら通信を切った。明らかに動揺が収まっていない様子だった。
「どうしたんでしょうね、ロイクさん」
まだプレートをぺたぺた触っているベアトリス様にそう言うと、彼女はこちらを向いてふるふると首を横に振った。私には彼女の仕草の意味がわからず、ただ首を傾げるばかりだった。