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俺たちは問題の集落にたどり着いた。こだちさんの話を聞いた後、早速現場に向かう事になったのだ。もう夕暮れ時に入り、空は青色が橙色に塗り替えられつつある。少し遠くを見ると山が見えるような自然豊かな土地だが、山奥に閉ざされた片田舎というわけでもない。スーパーや病院、小学校といった生活に必要な施設はあるし、鉄道も通っている。まあ、そのほかには田んぼや畑ぐらいしかないが。特段目立つものは何もないが、なんだか時間がゆったり流れているように感じる場所だ。
俺は乗ってきたミニパトから降りた。この集落には電車ではなく、婦警さんの運転するミニパトで来たのだ。ここは公民館前の駐車場。ここで例のシャケを目撃したという人と待ち合わせているらしい。
「あのー。私、お電話いただいた喜多と申す者ですが……」
俺たちがミニパトから降り、待っているところで話しかけて来たのは、ポロシャツを着た60過ぎくらいの男。こだちさんが男の方に行って、ぺこりとお辞儀した。
「こんにちは。わたしが川端です。早速ですが、お話を伺ってもいいですか?」
シャケが現れたという川へ徒歩で向かいながら、喜多さんの話を聞いていた。喜多さんはここの猟友会に所属する猟師らしい。4月上旬のある日、桃農園で熊が出たという連絡が来たので、現場に軽トラで向かったという。道中に橋があるのだが、橋を渡っている途中に突然右側の窓ガラスに水がビシャッとかかってきた。びっくりして車を急停止させ、橋の欄干から川を見下ろした。すると、川には10匹以上のシャケが縦横無尽に泳ぎ回っていた。その中の1匹は、水面から顔を出し、喜多さんに向かってパカっと口を開けていて……
「この橋です。ちょうど真ん中あたりですね、私が水をぶっかけられたのは」
喜多さんに連れて来られたのは、長さ20メートルくらいの橋。その上を歩きながら見下ろすと、川の小さな波が西日を反射してきらきらと瞬いていた。
橋の中央に来ると、天川、俺、こだちさん、喜多さんの順に並んで欄干越しに川を見下ろす。天川だけは欄干より背が低いので、両手で柵を掴んでその隙間から覗いていたが。
橋から川の水面まではおよそ4メートル。さすが田舎、川は綺麗で透明度も高い。そのおかげで、川を縦横無尽に泳ぎ回る大きな魚を見ることができた。
「シャケだらけっすね」
「わたし、泳いでいるシャケって生で見るの初めてです」
俺とこだちさんが月並みな感想を呟く。川には両手で数えられない程度にはシャケがいた。どれも大きく、体長50cmくらいだろうか。と、川の中から1匹のシャケが顔を出し、こちらを見ていることに気付いた。
その瞬間、俺と天川、喜多さんはサッと欄干から離れる。直後、俺たちが立っていたところに川から水の塊が飛んできた。
「えっ……きゃあ!?」
結果、逃げ遅れたこだちさんだけが襲いかかる水を全身に浴びることになった。水は大きな音をたてて地面に落下し、辺りを水溜りにした。水溜りの中心で、こだちさんは呆然と立ち尽くしていた。俺はこだちさんの元へ駆け寄る。
「大丈夫ですか、こだちさっ!?」
「もう、なんなんですか! ビショビショですよぉ……」
振り返ったこだちさんは言葉の通り全身濡れていて、紺色の制服が体に張り付いてその起伏がますます露わになっていて……!
「……? どうしました、リョートくん?」
なんでこんな……!濡れてるだけなのにっ!
俺は自分のブレザーを脱ぎ、こだちさんへ差し出した。
「あの……これ……上に……着て……」
「あっ、ありがとうございます。でも、どうして顔をそらすんですか?」
「では、わたしはこの辺で。学生のお二人も、調査頑張ってくださいね」
そう言って、喜多さんは元来た道を歩いていった。俺たちは橋を渡り、堤防の階段を降りて川岸まで向かうことにした。ここから先は天川に任せることになる。
「くしゅん! もう、全身隈なく濡れてます……」
階段を降りている途中でこだちさんがくしゃみをした。日が落ちるにつれて少し気温が下がっているので、濡れているこだちさんには肌寒いだろう。自分の体を抱くようにしているこだちさんに、先頭を歩く天川が前を向いたまま言い放った。
「喜多氏の話を聞いていたら、ああなることは予測できる」
こだちさんが眉間をピクッとさせる。天川が振り返って、少し首を傾けて煽るように言った。
「馬鹿じゃなければね」
「射殺してやるッ!」
「おおお落ち着けぇ! 気持ちは分かりますが、気持ちは分かりますが!」
こだちさんは目をカッと見開き、腰に提げていたリボルバーを両手で天川に向かって構えた。俺は慌ててその腕を掴んで銃を降ろさせて、こだちさんをなだめる。だが、こだちさんの力は思ったより強く、気を抜いたら銃口が天川の後頭部を捉えかねなかった。
天川は俺たちの方は気にも留めず、先に階段を降りきっていた。石や砂利で埋め尽くされている河岸を歩き、川のすぐ側で立ち止まる。川面をじっと見たまま、畑のカカシのように動かなくなった。
俺はこだちさんをなだめてひとまず階段に座らせる。こだちさんは、膝に顔を埋めてそのまま動かなくなってしまった。俺は「とりあえず休んでてください」と言い残し、天川の側へ向かった。
「リョート、霊の気配だ」
天川は俺が隣に来ると、川から目を離さずにそう呟いた。
「霊? 前の鶏みたいに、何か取り憑いているのか?」
俺も川へ目を向ける。西日を反射する川面に、シャケの魚影がいくつも動き回っているのが見える。一見ただのシャケだが、普通のシャケは口から水を吐いたりしない。摩訶不思議な現象、霊が絡んでいるのは明白だろう。
「取り憑いているというか、操られているみたい。……少し調べないといけない」
天川は俺にその大きな瞳を向ける。そして川のシャケを指差し、子供が母親にお菓子をねだるようなノリで無茶なことを言ってきた。
「リョート、一匹捕まえてきて」
俺は川の中へ足を踏み入れた。最初は靴を脱ごうと思ったが、川底を転がっている石で怪我しそうなので履いたままだ。片足を突っ込むと、冷たい水が靴下に染み込んできた。チャパチャパと川の中央へ歩く。水深は俺の膝下に及ぶかどうかというくらい。川遊びとかするのにぴったりだな。
「しかし、どーしたもんか」
俺の周りには悠々と泳ぐシャケ。何の道具も持たずに来たが、天川はどう捕まえろというのか。渓流の魚の手づかみ体験とかテレビでやってたけど……あれってアユだっけ? シャケって手づかみで捕まえられるものなのだろうか。俺が足元を見ながら考えていると、前方で水音がした。それにつられて俺が顔を上げると。
目の前に、鮭の顔面が迫っていた。
「にょあああああ!」
瞬時に体を右にずらし、なんとかファーストキッスがシャケに奪われるのは回避。シャケはそのまま俺の後方に着水した。
しかしほっとする間も無く、俺の周りから次々にシャケが跳ねて来た。咄嗟に俺は身を屈めようとするが……
「あてっ!」
シャケ弾幕に安地はなく、俺は背中に直撃を食らった。バランスを崩した俺は、水面に顔から突っ込んでいった。
「げほっげほっ、うええ」
すぐに水面から顔を上げるが、少し水を飲んでしまった俺は咳き込む。着ているワイシャツはべったりと体に張り付き、ズボンも水を吸って重くなっている。
俺は川を這うようにしてシャケが飛び交う川の中央から天川の方へ避難する。天川は俺のことを哀れんでいるような、バカにしているような目で見下していた。こいつも水の中に叩き落としてやろうか。
「はぁ……。それより、本当にどうしようか」
俺が避難したことで、シャケが飛び跳ねることはなくなった。だが、川の中を泳ぎ回りながら俺の方を睨んでいる気がする。これだけいっぱいいるのだから、一匹ぐらいなんとか捕まえられるだろうという考えは甘かった。そもそもこいつらはただのシャケではないのだ。それをただの男子高校生が手掴みで捕まえようとするのは無謀なのではないか。いやそもそも、俺がやらなきゃいけないのかこれ。せめて後ろで偉そうしているチビっ子にも手伝って欲しいのだが。
「リョートくん、私も手伝います」
俺が途方にくれていると、いつの間にか隣にこだちさんが立っていた。俺のブレザーを着たこだちさんは、なんだかやる気に満ちているようだった。
「いいんですか、手伝ってもらって」
「当たり前です。住民の方々はこのシャケに困らされているんです。警察官として、見過ごすわけには行きません」
正義感に溢れるその姿は、まさしく警察官の鏡であった。とてもさっきまで天川にいじられてしょげていた人とは思えない。きっと真面目な人なんだな、こだちさんは。
「じゃあ、お願いします。さっさと捕まえて乾いた服を着たいですし」
「はい、頑張りましょう!」
30分後。
「つ、ついに……」
「捕まえましたぁ!」
1匹の大きなシャケが、俺とこだちさんによって取り押さえられていた。俺が頭、こだちさんが尻尾を持っている。ここに至るまで、シャケに水かけられたり、シャケにどつかれたりと散々であった。被害の9割は俺だったわけだが、どうにも残りのシャケがこだちさんの胸やおしりめがけて飛び跳ねていたように思えた。
「ちくしょう、なんて羨ましいシャケだ」
「なんでシャケに嫉妬してるんですか……」
こだちさんに冷えた目で見られていると、後ろから天川の声が飛んでくる。
「何をしているの? 早く持ってきて」
俺は振り返って天川を睨みつける。結局、あいつだけ濡れてないんだよなあ……
「リョートくん」
こだちさんに呼ばれて俺は顔の向きを正面に戻す。するとこだちさんは意味ありげな視線を俺に送ってきていた。視線を一旦シャケの方に向けたかと思うと、今度は天川の方を見る。そして再び俺の目を見ると、少しだけ頷いた。
……なるほど。こだちさんの意図を察した俺は、合図する様に頷き返した。こだちさんの口元が、少しだけ綻んだ。
「「せー……」」
俺とこだちさんはシャケをぶらんこの様に振りかぶると……
「「のっ!!」
憎き天川の方へ思いっきり放り投げた!
放物線を描き飛んでいく叛逆のシャケ。ずぶ濡れになった俺とこだちさんの希望を託されたシャケは、ヌメッとした鱗で西日をキラキラと反射しながら、諸悪の根源たる天川を正面に捉える。そして落下軌道に入りながら、口をパカっと開けて……!
「甘い」
「「ああっ!」」
天川はしなやかな動作で懐中電灯を構え、飛んでくるシャケに向かってビームを照射。威力はいつもより控えめだが、それでもシャケを一瞬でこんがり焼くには十分だった。
俺たちは黒焦げになった希望が天川の足元に落ちるのを呆然と見るほかなかった。天川はシャケを一瞥した後、呆れを丹念に込めた視線を俺たちに送る。
「何をするかと思えば。あんなの、目を瞑っていたって迎撃できる。どういうつもりか知らないけど、もっと頭を使わないと私をおぼぼぼぼぼ」
いつの間にか天川の近くに泳いで行った別のシャケが天川の顔面に放水。セリフの途中だった天川は浴びせられる水の中でぶくぶくといっていた。
放水を終えたシャケはすぐさま方向転換して上流の方へ泳ぎ去っていった。河岸には俺たちとお揃いとなった天川が、髪から水を滴らせながら証明写真のような無表情さで突っ立っていた。
なんか思っていたのと違うが、俺とこだちさんの悲願は達せられた。サンキューシャケ。
「私たちの苦労を見ていれば、こうなることは予測できる……」
こだちさんから、そんな言葉が溢れた。さっき天川に言われたことの仕返しだろうか。ならば俺も乗らない手はあるまい。こだちさんの言葉を引き継ぎ、俺は天川を見下し言い放ってやった。
「バカじゃなければな!……………………懐中電灯、しまってくれる? 謝るから」
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「あー、腰痛い……」
チョークを持った手を一度止めて、俺は腰をトントンと叩く。昨日のシャケとの一戦のダメージがまだ残っているようだ。シャケを捕まえようとして、ずっと中腰だったからな……
「おい多々羅田、さぼってんじゃねーぞ。そんなに腰が辛いなら、俺のゴットハンドで昇天させてやろうか?」
「お前に昇天させられるのはやだなあ」
杉並の提案を却下し、俺は再び黒板に書き込み始める。今何をしているかというと、来月のオリエンテーション合宿に向けて班分けを行っているのだ。教室後方の黒板に、決まった班から書き込んでいく。
「……じゃあ次4班な。俺と多々羅田、富田、結由ちゃんとカンザシちゃん……何だこの構成。多々羅田が幼馴染2人とイチャついているのを俺と富田で邪魔する未来しか見えねえ」
「そんな未来はゴミ箱に捨ててしまえ」
「まさかお前、くじに細工してねえだろうな。もしくは、貴様のその右手に宿る力で……」
「なんか宿ってたらよかったけどな」
杉並が言っているのは今期放送中の、右手に異能の力を宿した少年がなんやかんや戦ってなんやかんやモテるアニメのネタだろう。だが俺には受難体質しかない。異能の力を打ち消したり、封印されし眷属を召喚したり、自傷行為によって巨人化したり、そういう能力はまったくもちあわせていない。持っていたら俺だってもっと…………
……いや、俺が知らないだけで実は、なんてパターンは……ないか?
「は? あるわけがない」
放課後。いつものように情報準備室に行き、俺は天川に聞いてみたのだが。椅子に座る天川にジト目で見上げられながら、俺はちょっとへこんだ。
「本当に、俺ってただ不幸なだけなの? なんかすごいパワーとか秘めてて、ピンチになると覚醒するとか……」
「じゃあ試してみようか?」
天川が懐中電灯を取り出してきたので、俺は丁重に「遠慮します」と後ずさった。リュックを置き、息を吐きながらソファにどさっと座ると、天川が口を開く。
「まあ、強いて言うなら。それだけ強力な霊が居るんだから、君自身にも霊感が芽生えていても不思議じゃないと思う」
「霊感?」
「第六感と言った方がいいか。例えば、キミが危険な目にあう寸前、それを予知できるような感覚。覚えがあるんじゃない?」
「そういえば……」
たまにくるあの嫌な悪寒。大体その直後には酷い目に遭うが、ある程度身構えることができて被害が軽くなることも多かった。俺はポンポン車に轢かれるが、骨折以上の大怪我になったことは意外とない。今まで生き延びられたのは、その第六感のおかげかもしれない。
「だから、キミにも霊能力もどきはある。予知と言うより、察知能力かな。それなりに有用だろう」
懐中電灯からビーム出す人に有用と言われても。天川と比べなくたって、随分地味な能力だ。俺には受難体質もあるし、総合的には限りなくマイナスだし。まあ無いよりマシと割り切るか。今度、その第六感とやらを意識してみよう。上手く使いこなせればいいが。
「話は変わるが、例のシャケについては土曜日に出直すんだな?」
「ああ。結局シャケからは原因を特定できなかった。今度は集落で変わったことがないか調査するつもり。手掛かりは必ずどこかにあるよ」
昨日は辺りが暗くなってしまったので調査を中止。時間を取れる土曜に持ち越すことになった。俺も休日は暇なので特別文句はない。こだちさんにも会えるし。ただ、願わくば穏便に事が済んでくれればと思う。
だが、そこで天川が言った。
「鬼が出るか蛇が出るか。週末はお楽しみ」
「…………」
穏便に済んでくれよ、頼むから!