1-6
俺が住田邸の門で待っていると、5分ほどしてから天川と住田さんがやってきた。
「すごいですね、娘はかなり聞き分けが悪いのに。一体どうやって説得したんです?」
「業務上の秘密です」
住田さんの依頼に対して、天川はすぐさま行動を開始すると宣言した。つまり、今から鶏を取っ捕まえに行くのだ。メンバーは俺、天川、住田さんの3人。しかし、その話をして廊下を歩いていたら再び住田さんの娘に出会い、一緒に行くと駄々をこね出した。住田さんの言うこともなかなか聞かず、困っていたところで天川が説得すると言い出したのだ。俺は先に門まで行って待っていたのだが、思ったより早く済んだようだ。
「天川はきっと子供の気持ちが分かるんだろうな」
「それは私が子供だと言いたいの? なるほど」
「なるほどじゃねえ! おもむろに懐中電灯を取り出すな!」
こいつ結構自分が小柄な事気にしてんだよな。いじるネタを見つけたのはいいが、カウンターにビーム打たれそうだから迂闊に使えない。
「あの、天川さん。本当にピーちゃんを捕まえられるんですか?」
「恐らくは。案はあります」
その後、天川の案とやらを聞きながら目的地へ歩く。その案は、おおよそ俺も考えていた内容だった。
俺たちは目的地へとたどり着いた。その目的地とは、商店街の路地裏だった。
「なんでまたここに来たんだ?」
「ここならひと気がないから」
俺の質問に対し、隣に立つ天川は簡潔に答えた。因みに、住田さんは別の場所で待機中だ。これから鶏捕獲作戦が開始される。まずは鶏をおびき寄せなければならないのだが。
「さあリョート。出番だよ」
「本当にやるのかよ」
そこで役立つのが俺の体質、という事らしい。受難体質を利用して、鶏を呼び寄せる。完全に餌扱いだった。確かに、俺はこの3日で2回も鶏に出会っている。実績は十分だ。
「でも、俺としては鶏が勝手に寄ってくるっていう感じなんだけど。呼び寄せるってどうしたらいいんだ?」
「簡単。あの鶏のことを思い浮かべながら、来いって念じればいい」
なんか胡散臭いマジックみたいだな。そう思いつつ、俺は目をつむり、鶏の姿を思い浮かべる。入学式の日に出会った鶏。俺の平和な高校生活の出鼻を挫いた鶏。憎むべき茶色の羽毛を思い出しつつ、俺は強く念じた。
来るな……! 絶対に来るんじゃねえ……!
……いや違う!来いと念じなければいけないんだ! でも正直来てほしくない。しかしそれでは、住田さんの依頼は解決できない。いやでも、もうあいつには会いたくない。くそっ、どうしたら……!
俺の心で深い葛藤が生まれ始めた時……!
「コケコッコオオオオオ!」
俺の迷いをあっという間に吹き飛ばす鬨の声。その声の主が、路地から悠然と現れた。
「ナンデ!? ニワトリナンデココニ!?」
テンパって何故か片言になる俺。隣の天川が、ほくそ笑むように言う。
「私がさっき言ったことは嘘。キミの受難体質は、キミが本心で嫌だなと思うことを引き寄せているんだよ。不幸ってそういうものでしょ? どうせキミのことだから、私がああ言ったら来るなって念じるだろうと予想していた」
ちくしょう完全に天川の手の上で踊らされてるじゃねえか!
「おい、本当に大丈夫だろうな! あいつめっちゃこっち見てるんだけど!」
「キミの体質は予想以上に強力。流石にこんなに早く来るとは思わなかった」
感心しとる場合かよ。鶏はじっとこちらを睨んでいたが、唐突に走り出した。
「コケエエエエエ!」
来た! 俺としては不本意だが、ここまでは想定通り。回れ右して逃げ出したいのをどうにか我慢する。鶏が急速に距離をつめて来る──
「今!」
鶏が目前に迫った瞬間、天川が叫ぶ。それが合図となり、鶏の頭上からバケツいっぱいの水が降り注いだ。
「コケエ!?」
ビシャン! 大きな音を立てて、鶏に水の塊が直撃する。上を見ると、ビルの屋上でバケツをひっくり返した住田さんが様子を伺っていた。
これが俺たちの作戦。あの鶏は、おそらく水に弱いのだ。その根拠は、昨日俺が連れ去られた先の屋敷で、鶏に追いかけ回された時にある。俺が壺を倒して廊下を水浸しにしたら、あの鶏は追ってこなかった。水に濡れるのを避けているようだった。だから、水をかけたら何か起こるかも、と天川が提案したのだった。
「どうですか、天川さん!」
上から住田さんが叫んだ。俺たちの目の前の鶏は、ずぶ濡れのまま下を向いて動かないでいた。効果はあったのか? 俺たちは張り詰めた空気の中鶏を見つめていた。
と、不意に鶏が上を向き、嘴を開ける。
「ゴオオオオオ!」
ビルの上の住田さんに向け大きな火球が発射される。住田さんは驚愕の表情を浮かべ、間一髪で奥へ引っ込んでいった。火球はビルの壁面に直撃し、黒く跡が残った。
「おい、どうなってんだ! 全然効果無いじゃねえか!」
「仕方がない。今ここで処分する!」
天川が素早く懐中電灯を構え、スイッチを入れた。
「コケエエエエエエエエエ!?」
懐中電灯からビームが発射される。そのあまりの眩さに、俺は目を腕で庇う。どうなったか見えないが、鶏の断末魔の叫びがビームの直撃を知らせた。
鶏を鎮静化させるのに失敗した場合、すぐさま処理する。これは住田さんにも同意してもらっている。あの鶏がもはや怪物と化していることはすでに伝えた。殺してしまうのはかわいそうだが、あの危険な鶏を放置する訳にはいかない。
天川がビームの照射を止める。俺は腕を退け、目をゆっくりと開ける。するとそこには──
──いつもと変わりない鶏の姿があった。
「……………………は?」
思わず口から驚愕の声が溢れる。確かに直撃のはずだ。なのに、なぜそんな呑気に頭を足で掻いているんだ? 俺は鶏を見る。すると、鶏も俺を見る。目と目が合う。鶏のつぶらな瞳に、少しずつ殺意の影が降りて来る。
俺は無言で天川の方を見る。天川なら、何か打開策がある筈だ。そんな期待を込めた視線を送る。すると、天川は無表情のままこっちを見て……
「マズイかも知れない」
「マジですか」
俺と天川は再び視線を前方に戻す。鶏が翼を大きく広げ、天に向かって甲高く叫んだ。
「コケコッコー!」
「またかよおおおおお!」
鬼ごっこラウンド3、ここに開幕。
「ちくしょー!もうやだー! ふえええええ!」
3日連続3回目の鬼ごっこ。近頃なら小学生でもそんな頻度でやらないだろう。俺はどれだけあいつに追いかけまわされればいいんだ。しかし、今回はこれまでの2回とは異なる要素が1つ。俺の右側で、天川も一緒に走っているということだ。2人で協力すれば、この状況を打破できるかも知れない。
「おい天川! お前は例のビームで攻撃しろ! お前が足止めしている間に、俺は逃げる!」
「キミは甚だ愚かだな。あの鶏はキミの受難体質に呼び寄せれたんだから、狙いはキミに決まっている。むしろキミの方が足止めに適していると思うけど?」
協力なんてかけからもできない俺たちは2人で並んで路地を走る。意外にも天川は足が速い。俺が全力で走っているのにも関わらず、距離が開くことはない。歩幅は大分違うだろうに。
「リョート、小さいくせに速いなとか考えているなら鶏より先にキミからぶっ飛ばすよ?」
「やっぱり読心術使えるだろお前!」
「コケコオオオオオオ!」
言い合いをしながら逃げる俺たちに、後ろの鶏が猛烈な殺気を放ってくる。嫌な予感がした俺が後ろを振り返ると、赤い火球が目前まで迫っていた。
「!? あちちちち!」
とっさに身を屈め、直撃は避ける。しかし、火球が放つ熱量からは逃れられず、後頭部がヒリヒリと痛む。髪の毛燃えてないよな、これ。
隣の天川が、走りながら後ろの鶏に狙いを定める。スイッチを入れると、さっきよりさらに眩いレーザーが鶏を襲う。確かに直撃。俺は目を細めながらもそれを確認した。だが。
「コオオオオオオケエエエエエエ!」
レーザーの切れ目から鶏が駆けてくる。そして、反撃と言わんばかりに火球を放った。その火球は再び俺の方へ飛んできた。
「あちちちちち! なんで俺を狙うんだよ! 反撃するなら天川狙えよ!」
俺と天川は並んで走り続ける。天川のビームが効かない以上、もはや逃げの一手しかない。
「どうすんだこれ! あいつは不死身なのか!?」
後ろの鶏を見る。俺も天川も息を切らしながら走っているのだが、鶏は心なしかさっきよりも元気になっている気がする。マジでなんなんだあいつ。
「リョート、前……!」
天川が言葉を絞り出す。俺は鶏から目をそらし、前を確認する。
「……………! 行き止まり!?」
俺たちの走る先にはビルの壁。左右に抜け道などは無い。鶏に追われ、袋小路へ来てしまってようだ。
俺たちは壁際までたどり着くと、止まって息を切らしながら後ろを向いた。鶏も俺たちから少し離れた場所で止まり、翼をバサバサさせていた。まるで、もうどこにも逃げ場はないぞと言っているようだ。
俺たちと鶏は対峙して動かない。鶏は様子を伺っているのか、すぐに襲ってくることはない。が、時間の問題だろう。
「どうだ天川? 不幸な状況に陥った気分は?」
「最高」
天川は真顔のままそう答えた。俺は皮肉のつもりで聞いたんだけどな。やっぱりイカれてる。でも、こんな状況だと天川のそういうところが頼もしく思えたりもする。
天川は懐中電灯を握りしめ、俺をかばうように前に出る。
「約束だから。キミのことは守ってあげる。そこでじっとしてて」
背中を見せながら天川が言う。俺は少し驚いていた。律儀にも約束を守ってくれるとは。天川に任せれば、きっとなんとかなるだろう。彼女には、そう思わせてくれるだけの雰囲気がある。頼もしい限りだ。頼もしい限りなのだが……これで本当にいいのか?
……………………ダメでしょ。
「天川、俺に出来ることはないか?」
「リョート?」
「女の子にただ守られてるなんて情け無いこと、死んだ爺ちゃんに呆れられるからな。協力させてくれ」
天川が俺の顔をじっと見てくる。俺も目をそらさず見返す。天川の澄んだ瞳に、俺の内面まで精査されているようだった。彼女は表情を変えず、視線を鶏に戻す。
「今から奴に、私の最大出力……戦略兵器級のレーザーを放つ。でもその為には時間が必要。だから、少しでいい、あいつの気をそらして」
かなりの無茶を言う。あの鶏の姿をしたバケモン相手に素手で時間を稼げと。普段ならそんな危険な真似を自分からしないのだが。
「分かった。やるしかねえか」
このまま手をこまねいていても埒があかない。どうせ逃げ道はもうないのだ。俺は息を吐いて心の準備をする。そして、息を大きく吸い、
「トサカ野郎おおおお!勝負じゃあああああ!」
鶏に向かって全速力で駆け出した!
「コケ!? コゴオオオオ!」
突撃してきた俺に一瞬怯んだ鶏だったが、すぐさま火球を発射した。だが、それを読んでいた俺は身を低くして躱す。低姿勢のまま鶏に突撃すると、流石の鶏も横へ回避。
俺が急ブレーキをかけて後ろを向くと、今度は鶏の方が俺に向かって突撃してきていた。
「コケェー!」
鶏は走った勢いを利用して大きくジャンプ。空中でライダーキックの構えをとった。その姿は、誘拐された時のあの光景と重なった。
これは……金的狙いッ!
この間の経験が生きる。どこを狙ってくるか予測できれば、避けるのも容易くなる。鶏が飛来する直前、俺は体を捻りながら、受け流すように鶏を避ける。まさか鶏も避けられるとは思ってもなかっただろう。そのまま落下していき、着地するが、少しバランスを崩した。その隙に俺は後ろから接近し……
「コゲエ!?」
「よーし捕まえたぞ!」
俺は左手で鶏のくちばしを抑え、右手で両足を鷲掴みして、そのまま持ち上げた。今まで散々追いかけ回された経験から、こいつの脅威は強靭な脚と嘴から吐く炎だと分かっている。接近さえ出来れば、こうして無力化出来る。鶏は手を解こうと暴れているので、手の力は抜けない。
「コラッ、暴れんな! しかし、思ったより上手く行ったなあ。流石に3度目ともなればこんなもんか」
「コ、コグエエエ……!」
「今までよくもやってくれたなコラ。コケコケコケコケと追いかけ回しやがって。お陰で昨日の夕飯のチキン南蛮食ってる時もずっとお前のことが頭にちらついとったわ」
「クオオオオ……」
「なんだあ? そんな目で見たって…………おお!? なんか熱い! アチチチチチチ!」
鶏の体が急激に高温になったかと思うと、いきなり炎が鶏を包み込んだ。俺はたまらず、火だるまになった鶏を向こうに放り投げ、天川の後方に逃げ込んだ。
「天川もう無理! ヒリヒリする!すごいヒリヒリするよお!フーッ、フーッ!」
涙目になりながら、赤くなった手に息を吹きかける。鶏の奴、まさか自分を炎に包むとは思わなかった。そんな俺を、天川が顔だけ振り返って冷たい目で見てきた。
「随分カッコつけて向かっていったのに情け無さ過ぎ。きっと天国のお爺様とやらも呆れるを通り越して大爆笑だよ」
「う、うるせいやい!」
「でも、時間は稼げた。合格点だね」
そう言うと天川は、大きく息を吐き、両手で懐中電灯を構える。狙うは、炎の中から現れた鶏。翼の一振りで、体を包んでいた炎を振り払っていた。
「コケエエエエエエ!」
鶏が懐中電灯を向ける天川に向かって走ってくる。いや俺を狙っているのか。なんか目が合った気がするし。向かってくる鶏に、天川の切り札が放たれる──
「こらーーーー!」
放たれることは、なかった。その原因は、唐突に響いた女の子の声。それによって、鶏の動きがピタリと止まったのだ。
鶏は向こう側を見ている。その視線を辿っていくと、そこには小さな女の子が立っていた。もちろん天川ではない。
その女の子は、住田さんの娘だった。ツインテールを揺らしながら、鶏に向かって臆することなく歩いていく。鶏を見下ろすように立つと、腰に手を当てて、まるで子供を叱る母親のように怒鳴った。
「もう、ピーちゃんったら! いままでどこにいたの! ちゃんとお家にかえってこないとダメでしょ!」
「コ、コケエ…………」
鶏の方もなんだかしおらしくなっている。さっきまで俺を殺意剥き出しで追っかけていた姿はどこに行ったのだろう。しゅんとうなだれる鶏を見て、女の子は表情を緩める。
「まったく、ほんとに心配したんだから。もういなくなっちゃダメだよ?」
優しく諭すように呟くと、少女はそっと鶏を抱きしめた。
すると、鶏の体が淡く光り始めた。
「……!?」
気のせいかと思ったが、暖かな光が強くなっていく。暖かな光の粒が鶏から出て行き、シャボン玉のように空へ登っていった。女の子は鶏を抱きしめたままだ。俺はその幻想的な光景を唖然として見ていた。
「…………なんだこれ」
さっきまでの緊迫した戦闘から一転。路地裏に溢れる優しさと暖かさに、俺は困惑するしかなかった。
やがて光の粒の量が減っていく。鶏からの光が収まった頃、女の子の後ろから住田さんがやってきた。
「ユキ!? なんでここに!」
住田さんは娘がここにいることに驚いていた。それと同時に、娘の腕に抱かれた鶏を警戒する。
「ユキ、ピーちゃんから離れなさい! つつかれたらケガしてしまう」
「なんで? ピーちゃんあたしのことつついたりしないもん。ねー、ピーちゃん?」
「コケエ!」
女の子の問いに、鶏は元気いっぱいに答える。その仲睦まじい様子に、住田さんは再び呆然とする。
「どうやら、上手くいったようです。もう取り憑いたものは綺麗になくなっていますよ」
「い、一体どういう……」
天川の言葉に住田さんは訳が分からないという様子だったが、それは俺も同じ気持ちだ。散々苦労させられた鶏が女の子の抱擁だけで元に戻るなんて。愛の力とか言わねえよな?
天川は、しゃがんでピーちゃんを撫でている女の子の方に近付き、諭すように話しかけた。
「約束。箱の中身を渡しなさい」
「…………分かった」
渋々、と言った感じで女の子はスカートのポケットに手を突っ込む。そして、テニスボールくらいの球状の石を取り出した。
その石は紅く輝いていた。宝石と言った方が正しいか。ルビーのような真紅の石は、太陽光の届かないこの路地裏でもキラキラと美しさを主張していた。紅い宝石は、女の子から天川の手に渡る。
「勝手ながら、私が彼女を呼びました。住田さん、これが魂手箱の中に収まっていたものです。お返しします」
「ええ!? こ、これがですか!? どうしてこれをユキが……」
住田さんが女の子の方を向くと、彼女は気まずそうに目をそらす。だが、天川が女の子の肩に手を置いたことで、観念したように白状した。
「ごめんなさい、わたしが箱から取り出したんだ。このまえ、おうちに来ていたおじさんにたのまれたの。『君のおとうさんが、作業場にある箱の中身を取ってきてほしいって言ってるよ』って。それでわたし……」
「この前来ていた……美術館の人か。いやそれより、どうしてそのことを黙っていたんだ?」
「それが……運んでるとちゅうでほうせきから赤いヒトダマみたいなのが出てきて、かべをすりぬけていったの。そうしたら、ピーちゃんがおおごえで鳴いて、家の外のほうに走っていくのがみえて……」
住田さんの考えは正しかった。あの箱が、正確には箱に入っていたこの紅い宝石がピーちゃん暴走の原因だったのだろう。
「わたし、お父さんにおこられると思ったから……だまってた。ほんとうにごめんなさい!」
今にも泣きそうな顔で謝る女の子。女の子の話を聞いていた住田さんは驚いたような様子でいたが、ふと女の子の頭を撫でる。
「今回は怒ったりしないよ。でもこれからは、隠し事はしないで、お父さんにちゃんと相談しなさい。いいね?」
「…………うん!」
顔を合わせ、笑顔を見せる親娘。なんだかこっちの心も温まるような光景だ。足元の鶏も嬉しそうにコケコケ言っている。
天川が住田さんに話しかける。
「正直、あの宝石を鶏に接触させることが正解だという確証はありませんでした。上手くいったからいいものの、娘さんに危険が及ぶ可能性もありました。勝手なことをして申し訳ない」
「いえいえ、そんな! お二人とも、本当にありがとうございました。むしろ、私の管理不足でした……このような危険なものを、鍵もかけず置いていたのは失敗でした。ともあれ、ピーちゃんが戻ってきたのが何よりですよ。感謝してもしきれません。ほら、ユキもお礼を言いなさい。この人たちがピーちゃんを見つけてくれたんだよ」
住田さんに言われて、女の子は素直に俺たちの方へペコリとお辞儀をする。
「ありがとうございました。美人のおねーちゃんと、さえ……おにーちゃん!」
おにーちゃんの前に何か言いかけたのはスルーしてあげよう。
「あっ、でもわたしのおにーちゃんはおにーちゃんだけだし……なんて呼べばいいんだろ」
女の子は腕を組んで首をかしげる。そういえば、住田さんには息子もいるんだっけ。俺は女の子に優しい笑顔で話しかけた。
「だったら、俺のことはにーにって呼んでくれてもいいんだぞ?」
「えー」
「多々羅田さん……感謝はしていますが、娘に手を出したらタダじゃ済みませんよ?」
「なんたるロリコン。おぞましい」
俺の発言に対しての周囲の反応は散々たるものだった。特に最後。ロリっ子にロリコンって言われるのって思ったよりダメージでかい。ジト目で俺を見てくる天川。その天川に、女の子が不思議そうに視線を送っていた。
「おねえちゃんって……………………おにいちゃんの妹なの?」
そのセリフに、その場の全員が固まった。天川の首が、歯車の錆びた仕掛け人形のようにガタガタと動き、女の子の方を向いた。その目は極道も裸足で逃げ出しそうなドス黒いものだった。間違っても女子小学生に向けるものではない。女の子がアワアワしだす。さすがに怖がっている、と思いきや。
「ごめんね、おねーちゃんのおにーちゃんを取ったりしないから! わたしのおにーちゃんは、1人だけだから!」
と言って、なだめるどころか天川の堪忍袋の緒に痛烈なダメージを与えた。天川の目が今度は俺を捉える。その目は、『誰がこいつの妹やねん』と言っている気がした。前観たホラー映画でこんなシーンがあったな。しかし俺は気後れすることなく、天川に向かってドヤ顔で言い放った。
「俺のことはにーにって呼んでくれてもいいんだぞ?」
──晴れた空の下。もう鶏が暴れ回ることもない、平和な路地裏を。
戦略兵器級のレーザービームが突き抜けていった。
──────────
高校に入って、最初の1週間が過ぎた。今日は土曜日。授業もなく、普段なら欲望の限り惰眠を貪るのだが。俺は平日と同じような時間に起き、1階のリビングに向かった。
「あらおはよう。制服なんて着てどうしたの? 今日は土曜日だって忘れてるの?」
俺は欠伸をして、ソファに座りながら母さんに答える。
「今日は部活があるんだよ」
俺が情報準備室の扉を開けると、すでに天川がデスクに座っていた。
「ああ、キミか」
「おはよう」
極めて質素な挨拶を交わすと、俺は左奥のふかふかなソファに埋まる。ここ数日で、ここが俺の定位置になりつつあった。他に座るところといえば、天川の目の前の木椅子しかないし。
「それで、あの鶏の件は片付いたのか?」
「そうだね。まず、住田ユキに箱を開けるようそそのかしたという美術館の人間。特定されたよ」
天川が1枚の写真をこちらに差し出した。俺はソファから立ち上がり、その写真を受け取る。
「!! こいつ、俺と住田さんを誘拐した黒スーツ!」
「そう。例の密輸組織の、美術館に潜入していた内部協力者だった。彼が美術館側から情報や、時には物品も横流ししていたらしい」
「そうか…………。いや待てよ? 住田さんはこいつのこと知らない様子だったぞ? 誘拐された時も、その後も何も言ってなかったような」
「それはこいつが住田氏の家を訪れた時、本人は出張中だったから。代わりに秘書が対応していたそうだよ。名目は魂手箱の鑑定依頼の書類を渡しに来たということで家に上がり、実物を奪う腹積もりだったんだろう。住田ユキをそそのかし、箱の中身を手に入れようとした。しかしその途中で、鶏の脱走騒ぎがあり、それどころではなくなった」
あの鶏や、住田さんの娘であるユキちゃんはこの悪巧みに巻き込まれた形となったわけだ。その2次被害が、主に俺に降りかかってきた。迷惑な話だ。
「この男は現在行方不明。美術館や組織では『旗川』と名乗っていたそうだが、おそらく偽名。あの箱や紅い宝石について聞きたいことがあったけど……それは分からずじまい」
天川によると、黒スーツもとい旗川(仮)は、鶏が組織のアジトに乗り込んできたどさくさで行方をくらましたらしい。あの後やって来た機動隊に殆どの構成員は捕まったが、旗川(仮)だけは逃げ失せたそうだ。
俺は天川に気になっていたことを聞いてみる。
「なあ、結局あの時、天川はどこまで読んでいたんだ? 最初っからユキちゃんを呼んどけばよかった気がするんだけど」
「前にも言った通り、確証がなかったんだよ。結果として宝石を鶏に接近させて、鶏に憑いた霊は除かれたけど。依頼主の娘に危険が及ぶことは、極力避けたかった」
「俺とかが代わりに宝石持ってけばよかったんじゃないのか?」
「住田ユキが頑固で、宝石を頑なに渡してくれなかった。どこかに隠していたらしいんだけれどね。だから、鶏に会いたかったら、私達の後から宝石を持って商店街裏のあの場所に来いって言っておいた」
「ユキちゃんを説得しに行った時か。天川は最初っから水作戦は上手くいかないと思っていたのか?」
「住田ユキはあくまで保険。水をかけてどうなるかは分からなかったけど、少なくとも、私のレーザーで無力化できると思っていた。あんなに凄まじい生命力だとは、流石の私も想定外だった」
天川の話を聞き終えて、俺は息を吐く。天川は想定外と言っているが、結果論で言えばすべての状況は天川の手の上だったように思う。俺と出会った、その時からずっと。
「もう一つ聞きたいことがある。天川はユキちゃんが箱を開けたと気付いてたようだけど、どうして分かったんだ?」
「ああそれか。箱の位置の高さだよ。住田ユキに初めて会った時、魂手箱のことを『鳥さんの箱』と言っていた。しかし、私よりも背の低い彼女が、蓋に描かれている鳳凰を見ることは出来ない。脚立でも使わない限りね」
そう言えば、天川も蓋が見えなくて必死になっていたっけ。作業台が少し高めだったからな。
「つまり彼女は、脚立を使ってあの箱の蓋を見ていた。そこまでしたなら、好奇心旺盛な年頃の住田ユキが、蓋を開けていないと考える方が不自然。だから本人に直接確認したんだよ」
文字通り、天川ならではの視点で気付いたのだろう。ユキちゃんと天川、大して身長変わらないし。
「リョート、失礼なことを考えているね」
「いや別に」
俺の誤魔化しに天川は鼻を鳴らす。
「言い忘れていたことがあった。キミが組織のアジトで鶏に追いかけられた時、壺を倒して廊下を水浸しにしたら鶏が追ってこなかったっていう話だったね」
「……ああ」
「鶏は水を避けていたんじゃない。壺を避けたんだよ。昨日その壺が、松島の作品だと判明した。どうやら魔除けの効果があると言う曰くつきの品らしい」
「水じゃなくて壺か……。だから、鶏に水をぶっかけても何の効果もなかったんだな」
不思議な力をもつ松島圭一の作品。その力の種類は様々で、まさしく人を幸せにも不幸にもする。あの時限りは松島の作品に助けられたわけだ。もし松島本人に会えるなら引っ叩いてやりたいという気持ちは変わらないが。
天川は指を組んで、話を続ける。
「まあそれはいい。本題はキミがその壺を倒したってこと」
「ああ、それがどうかした?」
「キミが倒して割れたよね、松島の壺が」
「ああ…………あっ」
「キミが倒して割ったんだよ。いずれの作品も1千万は下らないと言われる、松島圭一の作った壺をね」
俺は額に変な汗が流れるのを感じた。あの時俺は、鶏から逃れる為に廊下にあったものを片っ端から倒していった。その中に高価な物があるなんて微塵も考えていなかった。俺の内心を見越しているのかは分からないが、天川が言葉を続ける。
「キミが焦る必要はない。何故なら私が、キミはあの場にいなかったということにしてあるから。話はちゃんとつけてある」
そうだ。俺は天川に協力することを見返りに、刑事の取り調べから抜け出したんだ。それによって、松島の壺を俺が割ったという事実も消してもらったことになる。それはつまり、天川への借りが大きくなったということである。そこにつけ込まない天川ではない。
「だから、キミの頑張りに期待しているよ。私には、キミの力が不可欠。だからこれからもよろしくね、リョート」
そんなどきりとする様なことを言って、天川が珍しく笑顔を見せる。それは老若男女問わずどんな人間でも魅了してしまうような、完璧な笑顔。
だが俺は知っている。これが作り物であることを。俺は知っている。魅惑的な言葉や表情を俺に向けるこの子は、天使に見せかけた悪魔であることを。
俺の内心をよそに、天川が笑顔を貼り付けたまま言った。
「私と一緒に、不幸になろう?」
もう本当に、嫌な予感しかしない!
ep.1 【桜の雨が降る頃に】