1-5
朝が来た。カーテンの隙間からは、鳥たちの声や穏やかな朝日の光が入り込んで来ていた。俺はベッドから起き上がる。爽やかな朝の気配を浴びた俺の気分は。
「あぁ……あああ……」
ちっとも爽やかじゃなかった。
結局、俺は天川との取引に応じることになった。天川の卑劣な策略により、そうでもしなければ再び刑事の取り調べを受ける羽目になったからだ。天川の働きにより、昨日の誘拐事件に俺は全く関わっていない──そういうことになっている。お陰で何事もなく家に帰って来られたが、この先の高校生活を考えるとため息しか出ない。
重い体をどうにか動かして学校へ向かう。家を出て20分程度で学校へ到着した。こういう日に限って電車は止まったりしない。
教室に入ると、既に杉並が席についていた。
「よお多々羅田……。どうした? 地球外生命体の端末に騙されていたことに気づいた後の魔法少女みたいな表情になってんぞ」
「気分的にもそれに近いかも」
俺と杉並が話しているところに、どこからともなくカンザシが混ざってきた。
「おはよう。どうしたのリョートくん? なんだか元気ないわね。何かイヤなことでもあった?」
カンザシが心配そうな顔で俺を見ていた。ああ、カンザシの優しさが暖かい。どこかのロリとは大違いだ。
「カンザシ……お前って、本当にいい女子だよな。俺、お前が幼馴染で良かったよ」
「なに、いきなりどうしたの? もう、褒めても何も出ないよ?」
カンザシが笑いながら頬を赤らめる。それを見た杉並が、
「これは……ラブコメの波動……!?」
とか言っていた。いつもならツッコむところだが、今はその気力すらなかった。
気づいたら放課後になっていた。いかん、昨日の今日とは言えあまりボーッとしていたらダメだな。俺は自分の頬を軽く叩き、体に喝を入れた。
天川のいる情報準備室に向かう前に、1つやりたいことがあった。用があるのは、今ちょうど教卓でプリントを整理している売木先生だ。
「何、天川のことを聞きたい? 昨日本人に会えたのか」
思えば、売木先生に封筒を託されたのが昨日の事件の始まりだった。先生なら天川のことを何か知っているだろう。
「まあ、いろいろありましたよ。それで、あいつは何者なんです? どうしてあんなところで1人でいるんですか?」
「彼女はな、ウチの学校の特待生なんだ」
特待生、と言うと成績優秀者の中で学校から優遇措置を取ってもらっている人のことだろうか。まあ確かにあいつは優秀だ。特に人を陥れる方向に。
「彼女は特別中の特別。俗に言えば天才だ。とても高校生という枠には収まりきらないほどの。しかし、日本には飛び級制度が存在しない。彼女の都合で国内に居たいらしいんだ。そこで、我が校が手を差し伸べた。我が校が大学の付属校であることを利用したんだ。天川は名前だけ高校に在籍しているが、基本的に大学の研究室へ顔を出しているんだよ」
俺の通う上峰工業大学付属高校は、名前の通り大学の付属学校だ。校舎から見えるグラウンドの向こう、急斜面の上は大学のキャンパスになっている。天川のいる南棟は、高校側の建物の中で最もキャンパスに近い。そう言えば、南棟で天川と話していた時、眼鏡の女性が呼びに来ていた。きっと研究室の関係者だろう。
と言うか、売木先生が語った内容は普通なら驚くべきことだよな。特例措置をとってもらい研究する高校生なんて。しかし、俺の感情はそれほど動かなかった。その原因はすでに天川のことを知っているからか、それとも俺の感覚が麻痺しているのか。
売木先生は俺を見てニヤッと笑う。
「しかしどうしたんだ。天川のことを訊ねてくるなんて。あいつの事が好きなのか?告って振られるのか?」
「振られる前提が解せぬ。ていうか、やめてくださいよ」
「先生として生徒の恋愛事情も把握しておかないとな。天川も書類上は私の担当だし。ああ、さっき話したことは他言無用でな。あまり体裁のいいものではない」
「なぜ俺には話したんです?」
売木先生は俺の質問にふむと考える。10秒ほど経過すると結論を出したようで、口を開く。
「君には天川の様子を見てもらおうと思ってな。クラス委員長だろ君。話を聞いたからには、ちゃんと面倒見ろよ?」
「おいそれ今考えたろ。よくもそんな短時間で俺に面倒を押し付ける言い分を考えたな」
「教師を舐めるなよ。ではよろしくな」
ドヤ顔を置き土産に、売木先生は去っていった。
俺は南棟へ歩みを進める。売木先生との会話でなんだか全てが吹っ切れた。もう、なるようになってしまえ。
情報準備室の扉を開けると、天川がデスクで待ち構えていた。
「こんにちは。よく来た」
「取引を無下にしても俺にいいことはないからな」
皮肉っぽく言うが、天川の表情は変わらない。俺は改めて部屋を見回す。入ってすぐ正面に年季の入った木製デスク、右の棚にはポットやら箱やら雑多に物が収められている。左方向を見ると本棚、そしてソファ。若干狭い部屋だが、ソファで寝ればここで生活することだってできるだろう。これが天川の才能への優遇か。俺が天川へ視線を戻すと、彼女と目が合う。
「その通り、これは私への優遇措置。と言っても、この部屋は元々空き部屋だったから、大したことではないけれど。羨ましい?」
「別に。てかさらっと心読むんじゃねえ。読心術も使えるのか?」
「そんなもの使えなくても、キミの視線を見ていれば大体分かる。人の目は正直者」
俺は露骨に顔をしかめてみせた。こいつには嘘や隠し事が通じないかもな。面倒な奴だ。
「で、天川の手伝いって何をすればいいんだ?」
「基本的には私と行動を共にしてくれればいい。そうだね、早速だけど活動開始といこうか」
「どこへ行くんだ?」
立ち上がった天川に問う。天川はデスクに置いてあった懐中電灯を持って答える。
「住田氏の家だよ」
電車と徒歩で、俺たちは住田さんの家へ向かった。俺の家と近いらしく、俺の家の最寄駅で降りた。昨日天川は住田さんとも話をして、今日のアポを取りつけたらしい。住田氏はお金持ちらしいので、さぞ豪勢な御宅だろうと思っていると。
「なんじゃこれでっけえ」
想像を遥かに超えていた。いやまだ門しか見えてないけど。その門が、城か寺のものだと思わせるほど壮大な構えであった。しかし、確かにここが個人の家だと、目の前の住田と書かれた表札が証明していた。
「行こうか」
天川の方は全く臆する様子もなく、インターホンを押していた。
「こちらです。さあ、お入りください」
俺たちは住田さんにある部屋へ通されていた。中に入ると、なにかの作業台のようなものが部屋の中央を占拠していた。壁際の本棚には古い本がぎっしりと並んでいる。俺たちは作業台を囲むように立つ。立ち作業を前提としているのか、天板はやや高めの位置にある。天川は肩から上だけ天板の上に出していた。その目は、作業台の上に置かれ、黒い布を被せられた何かをじっと見ていた。
「色々とお話したいことはありますが、まずはこちらを見ていただきたい。松島圭一の『魂手箱』です」
住田さんが布を退けると、現れたのは大きな木箱だった。一辺が30センチメートルほどの立方体だ。壁面には、複雑な幾何学模様が彫られていた。じっと見ていると、なんだか異次元に飛ばされてしまいそうだ。箱の蓋には、孔雀のような鳥が羽ばたいている様子が細やかな彫刻で描かれていた。
「天川さん、あなたは松島圭一をご存知ですか?」
「数年前亡くなった芸術家ですね。彼の作品は国内外で非常に人気で、オークションでは1000万円以上の値がつくのは当たり前。その人気の理由は、作品の芸術性以上に、それがもつ不思議な力にあります」
住田さんの問いに、天川はすらすらと答える。松島圭一、俺もどこかで聞いたような気がするが……まあいいや。
「その通りです。松島の作品は、その力で所有者に幸福も不幸ももたらすと噂されています。ある者は大金持ちになり、ある者は妻に浮気がバレて離婚届を突きつけられ、さらに高額な慰謝料も取られたり、と」
何故か不幸の例が妙にリアル。ツッコんだら藪蛇になりそうだからやめとこう。
「話を本題に移しましょう。私の今の本業は学者をやっておるんですが、その傍、美術品の鑑定なんてやってましてね。この箱は、私に依頼の入った品なのです。松島の魂手箱は4つ存在すると言われていますが、これはその中で鳳凰の箱と言われるものです」
そうか、この蓋に描かれているのは鳳凰か。俺は改めて蓋を見る。彫られた鳳凰が、今にも羽ばたいて飛んでいきそうなくらい、生き生きとしていた。美術素人の俺でも分かるくらい、見事な作品だ。そう思いながら、俺はふと左を見ると。
天川がプルプル震えていた。よく見ると、つま先をピンと伸ばして自分の小さな身長を少しでも伸ばそうとしていることが分かった。表情には出さないが、その必死さが俺にも伝わってきた。何故そんなことをしているか、俺はすぐに検討がついた。
「んー? どうした天川? もしかして、ちっちゃくて蓋が見えないのかなー? 俺が抱っこしてあげまちょうかー? 」
天川が無言無表情で懐中電灯を取り出したので、俺は全力で部屋から逃走した。
「なるほど。これは見事ですね」
天川が蓋を凝視し呟く。その足は、住田さんが持ってきた小型の脚立の上に立っていた。
「住田氏は、この蓋を開けましたか?」
「とんでもない。この作品は、名前の通り開けたら何が起こるか分からないという噂です。松島作品の中でもある意味最も危険ですよ。気にはなりますが、中身を改めようとは思えませんね」
天川は住田さんの話を聞きながら、箱をじっと見ていた。机に手をつき、さらに顔を近づけると。
乗っている脚立がガタッと揺れる。前のめりになりすぎていたようだ。バランスを崩した天川の頭が急降下し……
「ふべっ」
額から机に突っ込んでいった。住田さんと俺は天川を心配して駆け寄る。
「わ、大丈夫ですか!」
「天川ー! ふはははは! だっ、だいじょうぶかふはははは!」
「多々羅田さん、ひどいですよ!」
自分でも人としてどうかと思うが。普段俺を見下してくる天川のドジな光景に笑いが抑えきれなかった。
ただ、しばらくして天川が起き上がり、おでこを真っ赤にしながら俺に食卓を飛び回るコバエを見るような目を向けてきたら、俺の笑顔も引きつった。
「キミ、あとで泣かせてあげる」
天川の呟きに冷や汗が抑えられなくなった。
「あの、大丈夫ですか……?」
住田さんが恐る恐る尋ねた。天川は額をさすりながら住田さんの方を向く。
「問題ありません。それで、住田氏はこの箱を開けてはいないということでしたね」
「ええ、この場所に運び込んでから一度も動かしていません。しかし、この箱がウチに来た直後でした。ピーちゃんの様子がおかしくなり、家から逃げ出したのは」
つまりは、この箱が全ての元凶……かもしれないのだ。箱を叩き潰してやりたい衝動がふつふつと湧いてきた。
「おとうさーん?」
どこからともなく声が聞こえてきた。俺たちの視線が入り口の方に向くと、小さな女の子が入ってきた。ツインテールが似合う可愛らしい女の子で、ランドセルを背負ったまま近づいてきた。
「ただいまー。また鳥さんの箱を見てたの? ほんと、あきないね」
「おかえり。そんなことより、お客様にご挨拶しなさい」
住田さんに指摘されて、女の子は素直に俺たちの方へペコリとお辞儀をする。
「こんにちは。美人のおねーちゃんと、さえないおにーちゃん」
「はっはっは。小学生なのに冴えないなんて言葉知っているんだな。よし。おしりペンペンしてやる!」
「ちょちょちょやめてえ! 娘が悪かった、悪かったけど大人気ないですよ多々羅田さん!」
女の子に手を伸ばす俺を住田さんが後ろから羽交い締めにしてくる。女の子はこの妙な光景を前にしても、全く気にする様子がなかった。
「ねえ、れーぞうこに『匠のプリン』があったんだけど、食べてもいい?」
「ああ、食べていいから早く行きなさい!」
「やたっ!」
女の子は元気に走り去っていった。俺が大人しくなると、住田さんは俺から手を離した。
「すみません。俺、取り乱しました。どうも最近、ロリっ子に舐められる場面が多くて……」
「いえ、こちらこそ娘が失礼しました。話がそれてしまいましたね。私はこの箱がピーちゃん家出の原因だと思っているのですが──」
女の子が出て行った部屋の入り口を見ていた俺と住田さんは、箱の方へ振り返る。すると、脚立に乗った天川が箱の蓋をガバッと開けていた。
「「うわああああ!?」」
俺と住田さんはそろって大声を上げた。両手で蓋を持ち上げている天川が怪訝そうな顔でこっちを見てくる。
「何? いきなり大声を出さないで」
「いやお前! 何開けてんだよ、話聞いてただろ!?」
「そうですよ! 本当に何が起こるか分からないんですから! ああ、早く逃げなきゃ……!」
あわあわする俺たちをよそに、天川は箱を指差した。
「空っぽだよ」
「……え?」
俺は唖然としつつ、箱の方へ向かう。住田さんも一緒に中を覗く。
箱の内側にも繊細な彫刻が施されていた。箱の底面は火山のように膨らんでいて、丁度火口にあたる部分には何か球状のものがすっぽり収まりそうな窪みがある。
「ここに、何かが収まっていたのでしょうか……」
何かが収まりそう、つまりその何かは存在するはずだが、行方不明ということだ。住田さんは半ば放心したような顔をしていた。
「私はてっきり、ピーちゃんがおかしくなったのはこの箱が原因だと……」
「この箱からは霊的な気配は感じません。今のところ、その可能性は低いでしょう。この箱の鑑定依頼はどこから?」
「表門美術館です。亡くなったコレクターの遺品を、遺族が寄付したそうで。まさか、最初から空だった?」
「さあ。その辺りも詳しく調べなければなりません」
住田さんは困ったように腕を組む。結局、鶏が暴走した理由は分からないままか。ふと、俺は思いついたことを口にした。
「そう言えば住田さん、あの鶏にタマ潰されてましたけど……」
俺の言葉に、住田さんがビクッとする。心なしか、股間を手で守っているような……。
俺は全てを察し、お辞儀をしてお悔やみの言葉を申し上げる。
「この度は…………」
「やめてください! 葬儀の万能フレーズを私に向かって使わないで! 無事です、無事ですから!」
住田さんが大慌てで否定する。なんだ違うのか。あの鶏の足のめり込み具合からして、間違い無いと思ったんだが。まあいい。俺が話したかったのはそこでは無い。
「それはともかく。住田さんってあの鶏の飼い主ですよね? でも襲われてたから、ひょっとして懐いてなかったんじゃ無いかと思いまして」
「な、何を言いますか! 私とピーちゃんはラブラブですとも。これを見てください。仲よさそうでしょ?」
住田さんは財布から一枚の写真を俺に突き付けてきた。そこには、住田さんと鶏が一緒に写っていて……
「いや指噛まれてますやん」
住田さんが撫でようとしているところを、鶏がイラッとした表情で噛んでいた。
「こ、これは甘噛みです! ピーちゃんなりの愛情表現ですよ!」
「いや結構痛そうですやん」
写真の住田さんは、苦悶に表情を歪めているようにしか見えない。俺が指摘すると、住田さんは肩を落とす。
「う……。まあ、日頃の世話は娘がやっていますし……。名付け親も娘、最初に生まれてきた時立ち会っていたのも娘ですが。あ、愛情だけなら負けませんよ!」
つまり全然懐かれてないんだな。刷り込みすら娘にとられて、もはや勝ち目はないだろうに。しかし、その愛情とやらは本物らしく、住田さんは俺と天川の前で頭を深く下げた。
「天川さん。どうか、ピーちゃんを元に戻して欲しいのです。貴女ならそれが出来ると信じております。よろしくお願い致します!」