1-1
俺の運の悪さは、今日も絶好調のようだ。
今日に限らず、俺はいつだってツイてない。家族や友達と一緒にいても、なぜか俺だけがトラブルに巻き込まれる。自販機で買ったジュースがいつも人肌だったり。散歩中の犬にすれ違う度噛みつかれたり。横断歩道を歩いているとよくトラックが突っ込んで来たり。
あとは、
「はあっ……はあっ……はあ……っ」
「コケエエエ! コケコー!!」
今のように、ガラの悪い鶏に追いかけられたり。
思えば朝のアレがダメだった。ネクタイという強敵との忌々しい戦闘。大敗を喫し、肉団子のような有様となった俺のネクタイ。それを見た母親に、『あんたもお父さんみたいに不器用なのね』と優しい顔でネクタイを結び直されるという恥辱の時間を味わされていたら、出発予定の時間はとっくに過ぎていた。
新品の黒いブレザーを乱雑に羽織り、急いで家を飛び出したが、電車の時間に間に合いそうにもなかった。まさか入学式に遅刻するわけにもいかない。そこで、近道を使うことにした。商店街の脇道を抜ける、路地裏のような道だ。
そこに、奴がいた。
薄暗い路地裏に、何故か茶色の鶏がいた。養鶏場の暮らしに不満でもあったのだろうか。気持ちよさそうに羽を伸ばし、シャバの空気を吸っているところで…………俺と目があった。
そして現在に至る。
「こんちくしょうめ……!はあっ、なんでっ、追いかけてくるんだっ、はあ」
息をきらしながら必死に走る。鶏に追いかけ回されるというだけで十分異常事態だが、問題はそれだけではない。
「コケェ! グォォォ!」
「あちっ! くそっ、また火を噴きやがった!」
後ろから火球が飛んできて、俺のすぐ横の室外機を黒焦げにした。ちらと後ろを見ると、鶏の嘴から火の粉がほとばしっていた。
やはり、あいつは口から火球を吐くようだ。さっきから何度も何度も、焼き鳥にされた仲間の仇討ちと言わんばかりに俺に向かって火球を放っていた。
「くそっ、なんで俺ばっかり……! 昨日唐揚げいっぱい食ったからか!?」
本当に、なんで俺はこんなに運が悪いのだろう。今日は新しい生活の始まりだったのに。高校からは、平和に暮らそうと思っていたのに。何かが変わると、期待していたのに。
狭い路地の曲がり角を、転びそうになりながら抜ける。その先も、相変わらず薄暗い路地が続く──だけではなかった。
「!?」
一人の少女が、そこに立っていた。
小柄な少女だ。艶やかな長い黒髪をたなびかせ、優然とした佇まいだった。奇跡のように整った顔は無表情だが、凛とした眼差しが俺を射抜く。薄暗い路地で、彼女の周りだけ明るく輝いているようだった。
少女は走ってくる俺を見て、そのまま動く様子はない。しかし、俺の後ろからは鶏が迫っているから、止まるわけにもいかない。
「おい、すぐに逃げろ!」
俺は叫ぶが、少女は動かない。狭い路地で、逃げ道は1つしかない。
「コケエエエエエ!」
「おい、逃げろって! 後ろのヤバい奴が見えないのか!」
それでも少女は逃げない。俺と少女の距離はあと20メートルくらいか。最悪、少女を無理矢理抱えて逃げようかと考えていると。
少女の右手が、ゆっくりと動いた。その手には、なぜか懐中電灯が握られている。
あと10メートル。少女は腕をまっすぐ伸ばし、懐中電灯を俺の方に構えた。
まるで、銃口を向けるように。
俺の背筋に悪寒が走る。嫌な予感がする。根拠もないただの勘だが、このままではマズイ。俺がロクでもない目にあう時、大抵この悪寒が来ていた。
俺が走りながら無理矢理に体を捻るのと、少女が懐中電灯のスイッチを入れるのは、ほぼ同時だった。
その瞬間、凄まじい閃光が走る。少女の持つ懐中電灯からは、足元を照らすどころではなく、この薄暗い路地を隅々まで照らし尽くすほどの眩い光線が放たれた。有り体に言えば、レーザービームだ。
「うおお!?」
ビームは俺の左肘すれすれを通過する。事前に避けていたので当たらなかったが、体の左側に熱を感じた。少女との距離は5メートル。ビームを避けたのはいいが、走りながらバランスを崩してしまう。
「コケエエエエエ!?」
後ろから叫び声が聞こえるが、確認する余裕はない。重心が前に行き過ぎだ。もう止まれない。
少女まであと3メートル。通り過ぎる景色がスローモーションのように見える。このままでは少女にぶつかる。なんとか避けなければ。だがもうほとんど倒れこむような姿勢だ。このままでは、少女の胸元に顔を突っ込んでしまう。
………………。
いや衝突は避けたい! だがどうしようもないのだ。体勢が悪いのだから。俺にはどうしようもない。だからこのまま俺の顔が少女の貧しい胸に飛び込んでしまうのはしょうがない!しょうがないものはしょうがない!しょうがないのだから!
ビームを撃ち終わった少女の胸に、俺の顔が……っ!
「おっと」
俺の顔が少女の胸元に到達する前に、少女が一歩後ろに退く。俺は顔面から地面に倒れこんだ。
「ねえ、大丈夫?」
うつ伏せで倒れている俺に、儚げな声がかけられる。鼻がすごく痛い。どうして俺はいつもこうなんだ。俺は地面に額をくっつけたままボヤく。
「分かってはいたよ……俺にラッキースケベなんてものは起こらないって……」
「頭おかしくなっちゃったの?」
俺は不幸人間なのだ。そんな俺が棚から牡丹餅的なラッキースケベを期待するのは荒唐無稽だ。ラッキーもスケべも、自分の手で掴まなければならない。そう思いながら顔を上げると。
そこには、絶景が待ち構えていた。
意外と近くに居たらしく、俺の目の前には少女の美脚が伸びていた。ニーソとスカートで素足は隠されている。だがしかし。今のように寝そべりながら見上げると、隙間から僅かだがその白い太ももを拝むことができるのだ。ニーソに締め付けられ、ぷっくりと膨らむ柔らかそうなふともも。ちょっと2時間ほど膝枕をお願いしたくなるふともも。パンチラならぬモモチラ。ふとももを晒すファッションなんてざらにあるが、隠されているからこそ、そこにロマンがあるのだ。俺は違いが分かる漢だ。
素晴らしい景色に感激した俺は、日曜の礼拝のごとく指を組んだ。
「なんて神々しいふとももッ……!」
「……?………………あっ」
俺の視線の先を辿った少女が一歩後ろに下がる。奇跡の絶景の鑑賞会もここまで。俺は立ち上がって、少女へ爽やかに声をかける。
「怪我とかない? 大丈夫?」
「キミの頭の方がダントツで大丈夫じゃないよ。人のスカートの中覗いておいて何を言ってるんだか。それに、もっと気にすべきことがあるんじゃないの」
ジト目で睨んでくる少女。その視線を受けて、俺の頭がスーッと冷めていくのを感じた。
「………………さっきの鶏どこ行った?」
「ようやく正気になったみたいだね。鶏なら逃げていったよ。あとちょっとだったのに」
すっかりまともになった俺の頭に、さっきの光景が蘇る。懐中電灯からビームが出るという、どこのSFだと言いたくなるような光景だ。慌てて俺は少女に質問しようとするが、急に動き始めた脳みそに口が追いつかず、言葉が空回りしてしまう。
「あのっビーム! なんでビームが鶏で俺はドーン!」
「何言ってるの?まあいい」
少女はつかつかと俺の方に近付いて来て、
「さっきの鶏も、私のこともどうでもいい。それよりも、キミ。……私はキミに興味を持った」
俺の顔を見上げる。
「あの鳥を追いかけてここまで来たけれど、もっと面白いものを見つけた。その受難体質……極めて興味深い」
……今、この子はなんて言った?
ていうか、顔が近い。
すごくドキドキします。
雪のように白い肌のきめ細かさや、長いまつげの数も数えられそうだ……
俺が何も言えず固まっていると、少女は俺から離れた。
「無反応? 私みたいな美少女に迫られてるんだから、もっと喜んだらいいのに」
「君は……君は一体何者なんだ? 俺のこと、受難体質っていうのをどうして……」
「答えてもいいけど」
少女は、腕時計をちらりと見ると。
「キミ、入学式は間に合うの?」
「あっ」
「おお……」
高校の正門前に立って、思わずため息を漏らした。
正門からは左にカーブする道が続き、道に沿うように桜が植えられている。すでに満開の桜はラストスパートと言わんばかりに薄紅色の花びらを降り注ぎ、新入生を歓迎していた。とても、綺麗な光景だった。
とは言え。
「新入生、ここには俺しかいないけどな」
ひらめく桜の雨の元に1人ぼっち。
あの少女と別れた後。
俺は大慌てで駅へと向かい、電車に乗り込んだのだが。
『えーお客様にお知らせします。ただ今、前を走ります電車が踏切で異常音を検知したため、現在この電車も止まっております。発車まで、今しばらくお待ちください』
電車が駅でもないところで止まったかと思うと、こんなアナウンスが流れた。
そこからなんだかんだと苦労し、ようやく高校までたどり着いた時には、決められていた時間を1時間以上オーバーしていた。
正門を通り抜け、桜の並木道を早足で抜けて行く。少し歩いて、校舎の昇降口にたどり着いた。
しかし、なんて言い訳しよう。
登校途中に突然鶏に追いかけ回されて、そこに懐中電灯からビームぶっ放す少女が現れて助けられたものの結局間に合いませんでした。
うん、誰が信じるんだこれ。そもそも俺自身が今朝のアレは夢じゃなかったのかと思うくらいだ。
昇降口に掲示されていたクラス分けで自分のクラスと出席番号を確認して、下駄箱で上履きに履き替える。
もっとマシな言い訳はないかとあれこれ考えながら教室に急ごうとした時。
「おっ、多々羅田だ」
と苗字で呼び止められた。
声の方を向くと、そこには顔見知りがいた。
「ああなんだ、杉並か……」
「なんでそんな残念そうな訳? おい無視して置いていくな、泣いちゃうぞ。坊泣いちゃうぞっ」
やかましさには定評のある杉並。俺の中学の同級生は、どうやら相変わらずのようだ。
「ふーん。電車の遅延か」
俺たちは廊下を歩いて教室へ向かう。杉並によると、すでに入学式は終わり、体育館から教室へ戻る途中で俺と出くわしたらしい。まさか、入学式に参加できないとはなあ。
俺は、歩きながら遅刻した理由を説明していた。鶏と少女のことは話していないが。
「遅延っていうか、運行停止だったけどな。そんで途中の駅で立ち往生して、バスに乗り換えようとしたんだけど。バス乗り場が、新型スマートフォン発売前の携帯ショップみたく並んでて。結果こんな時間になりました」
「そっかそっかあ。多々羅田のタタリは健在か」
「それを言うな」
「そんな落ち込むなよ。俺たち高校生だぜっ。これからいいことあるよ」
「杉並にそう言われてもなあ。あ、そうだ」
これから、と言われて思い出した。クラス分けの名簿で、俺の真上に杉並の名前があったのだ。
「杉並も3組だよな。お前とまた同じクラスってどういうことなの? なんなの? 呪われてるの?」
中学3年間ずっと一緒だったので、4年連続4回目である。腐れ縁もいいとこだ。
「いやもうこれは運命だっしょ。小指と小指にレッドスリングだよ。どうする? 付き合っちゃう? 」
腐ってるのはコイツの頭だけでいいのに。
話している間に、俺たちは教室にたどり着いた。1年3組。ここが俺の教室だ。意を決して扉を開けた。
教室は基本的に中学校と変わらないものだった。大きな黒板、教卓、整然と並べられた座席には見知らぬクラスメイトが座っている。何もすることがなく居心地悪そうに座っている者、友人と春休みに何をしていたか楽しそうに話している者、もう既に爆睡態勢に入っている者など様々だ。
これから一年、ここで過ごすのかと感慨にふけっていた時。
「あれぇ、りょーくん?」
今度は懐かしいあだ名で呼び止められた。俺が慌てて振り返ると、目の前に小柄な女の子が立っていた。
癖のないストレートの髪をボブカットにした、小動物的な女の子。俺より頭一つ低いその子が、俺の顔を下から覗き込むように見ていた。
「ゆ、結由!?」
「えへへぇ、久しぶりだね。高校でもおんなじクラスになれるなんてね」
俺や吾妻、杉並と同じ中学だった、青葉結由がニコニコ笑っていた。
「というわけで、青葉さんもおんなじクラスなのでしたー。言うの忘れてたわ。というわけで、これからよろしく、青葉さん」
適当な謝罪を俺に放り投げた後、ニコニコ顔で結由に挨拶する杉並。一方の結由は、キョトンとした顔で。
「あっ、うん、よろしくね。えと、1、2年生のときいっしょのクラスだった、杉崎くん、だよね?」
「うーん、誰だろうな杉崎くん。知らないなー、北中にそんな奴いたっけなー。俺の苗字であるところの、杉並に似てる気がしないでもないなー」
言葉では茶化しているが、表情に名前を忘れられた哀しみがにじみ出ている。隠すの下手かお前。
杉並の反応に結由はあっ、という顔をして、
「う、うん! 杉並くん! もちろん覚えてたよ! さ、最初のは……軽い冗談だから!クラスメイトの名前を忘れるわけないよぉ!」
お前も取り繕うの下手か。
「そっかそっかあ。やっぱり覚えていてくれたかあ。これから1年間仲良くしてくれよ。はははは」
「うん、こちらこそ。楽しい1年になるといいね。えへへへ」
旧友との再会を笑いながら喜び合う2人。そんな和やかな光景を前にして、俺はポツリと呟いた。
「では、下の名前は何でしょう」
「うッ!?」
結由が普段からは想像できないような低い声を出した。俺は杉並の顔は見ないようにした。
杉並はどんよりした背中を見せながら自分の席に向かって行った。ちょっとやりすぎたな。後でジュースでも奢るか。
「もおー、りょーくん意地悪だよ!そりゃ、杉並くんの名前忘れてたわたしも悪いけど」
「いやあ、悪い。ついついな」
俺もクラスメイト全員のフルネーム言えるかと聞かれたら厳しい。だがあんな常にテンションゲージがフィーバーしている奴を忘れるものか? とは言わないでおこう。
「そういえば、今朝はどうしたの? 入学式の前にはいなかったよね」
「あ、ああ。まあ色々あったんだよ」
「ふーん」
もう一度説明するのも面倒だし、適当に誤魔化そう。どのみち後で先生には言わなきゃいけないだろうけど。俺の曖昧な回答に、結由はさして気にとめる様子はなかった。
「あ、そうだ。りょーくんに聞きたいんだけどさ」
「ん? 何を?」
「四条簪ちゃんって覚えてる?」
「シジョウ……カンザシ……?」
パッと思い当たるものがない。名前からしておそらく女子だろう。1、2年の時にそんな奴は同じクラスにいなかった気がする。となると、同じ部活の同級生。先輩、もしくは後輩……?
必死に結由との共通の知り合いを総当たりする俺。一向に答えの出ない俺を、結由が不服そうに睨みつけてきていた。
「もお、やっぱり覚えてない! りょーくんだってわたしのこと言えないよ」
「そう言われてもな……」
やはり思い当たらない。可能性があるとすれば、部活の2つ上の先輩、あるいは2つ下の後輩か。テニス部は人数もそこそこ多かったし、2つ学年が違う部員とは3ヶ月程しか顔を合わせなかったので忘れている可能性はなくはない。
結由がちゃん付けしていたので、後輩かなと思い、それを尋ねようとした。
ちょうどその時。
「あーあ」
結由の後ろから、1人の女の子がため息をつきながらこちらに来た。
女の子は結由より身長が高く、俺より少し低いぐらいだろうか。ゆるくウェーブのかかった髪を長く伸ばしていて、前髪を真ん中で左右に流している。大きな瞳に小さな口元。かなりの美人で、どこか大人びた雰囲気をまとった女の子だ。
そんな見ず知らずの子が割り込んできて、戸惑う俺。しかし、結由の方は特に驚く様子もない。
「あーカンザシちゃん。ごめんね、やっぱりりょーくん覚えてなかったみたい。本当に薄情者だよね」
「そうねぇ。リョートくんったらひどい。私はちゃんと覚えてたのに」
美少女2人が俺をこき下ろしてくる。俺にそういう趣味はないので普通につらい。
「ねえりょーくん、本当に覚えてないの?幼稚園の時一緒に遊んだじゃん」
「幼稚園?」
結由から言われた意外な一言。おかげでようやく思い出してきた。
「幼稚園……カンザシ……」
「そう。おんなじクラスだったよ」
「同じクラスで……よく一緒に遊んだ……」
「そうそう! 鬼ごっことかね!おままごともしたよ!」
「……思い出した! 俺の給食のご飯によく牛乳かけてたあのカンザシか!」
「思い出が! 最初に出た思い出がそれなの!? なんでそんなグロテスクな!」
愕然とした様子の結由。一方のカンザシは顔を華やがせて、
「なあんだ。やっぱり覚えていてくれてた。嬉しい」
「カンザシちゃん!?」
こんなやりとりも随分懐かしく思えた。
ふたりとの話を終えて俺は自分の席へ。左から3列目、前から4番目だ。
俺の一つ前の席は杉並だった。席は名簿順に並んでるみたいだな。
俺が席に着くと前の席の杉並が振り返って、こちらに胡散臭いものを見るような目を向けてきた。
「…………なんだよ」
「いやあ、あの可愛い子と随分仲良しだなーと思って。んで、あの子はなんなの? 昔結婚の約束をした幼馴染?」
「結婚の約束はしてないけど、まあ幼馴染だな」
「なん……だと……」
驚愕を顔に浮かべる杉並。俺は杉並の反応は無視して話を続ける。
「俺がもともと本島に住んでたのは知ってるよな? んで、結由とあの子、カンザシは同じ幼稚園でちょくちょく遊んでたんだよ。その後は3人とも別々の小学校になって、俺はこっちに引っ越したし。もう会えないもんだと思ってた……おい、聞いてんのか?」
俺が話している間、杉並は徐々に俯いていって、しまいには頭を抱えだしていた。
「なんですかい……つまりは中学校で青葉さんと奇跡の再会、高校であの子と運命の再会ってわけですかい……。なんだよそれ生き別れたと思っていた幼馴染と再会しかもそれが2回とかなんですか主人公ですか羨ましい妬ましい俺もほしい幼馴染ほしい」
「わかった、わかったから。俺が悪かった。よくわからんけど、悪かった」
呪いの言葉を垂れ流す杉並に、何故か謝る俺。すると杉並はようやく頭を上げた。未だに拗ねたような顔をしている。
「……あんな可愛い子と仲良くできるなんて羨ましい」
「別に今はすごく仲がいいってわけでもないよ? さっきだって、カンザシのことが思い出せなくってふたりに散々言われたし」
「……あんな可愛い子に罵られるなんて羨ましい」
「…………」
今日も杉並は平常運行でございます。
そんなやりとりをしていると、教室にチャイムの音が響いた。おしゃべりに興じていた人たちも、ぞろぞろと自分の席へ。
「そういえば」
前の席の杉並がまた話しかけてきた。
「もうすぐ俺らの担任の先生が来ると思うけど、多分びっくりするよ」
「なんで? 」
「見りゃわかる。おっと、来た来た」
ちょうどいいタイミングで、教室の扉をガラリと開けて、我がクラスの担任教師と思わる人物が入ってきた。
それは女性だった。黒のスーツに折り目のついた黒のタイトスカート。髪は短めに切り揃えられている。黒縁の眼鏡を掛けていて、目鼻立ちは整っているが、なんとなく規則に厳しそうな先生だ。
「よし。全員席へ着きなさい。ホームルームを始めます」
先生は教室の扉を閉めると、教卓の方へ歩いて行く。その目線は、座っている俺とほぼ同じ高さで……
「!?」
いや待て。なんで歩いている先生と座っている俺の目線が同じ高さなんだ?
その理由が、先生がとても小さな体でいらっしゃるからだと脳が認めるのに、しばらくかかった。
「びっくりしたろ? 俺たちの担任、あのロリっ娘なんだぜ?」
「バカな……実在していいのか、あの愛らしさは」
小さな女の子が学芸会で教師の役をやっているみたいだ。
「新入生のみなさん、入学おめでとう。わたしがこのクラスの担任となる、売木希だ。1年間よろしく」
見た目相応の可愛らしい声で自己紹介をすると、必死で背伸びしながら黒板に自分の名前を書きだした。
もうほんと、小学生にしか見えません。
俺は笑いそうになるのをなんとか堪えて、人生史上最高の真顔を作った。
名前を書き終えた先生がこちらを見渡すと、不思議そうな顔をした。
「……? なんだかみんな表情が硬いな。別に緊張しなくてもいいぞ? 明るいクラスを作っていこう」
どうやら、俺以外のクラスメイトも同じような心境のようだ。
売木先生がいくつか連絡事項を伝えて、ホームルームは解散となった。みんなが帰り始めている中、遅刻した俺は先生の元へ自首した。
「ほう。電車の遅延か」
売木先生がこちらをジロリと睨む。体は小さいのに、とてつもない威圧感が俺を襲う。
あれ、なんだろう。今朝も同じような状況になってた気がする。自分より一回りも小さい女性に睨まれるという構図。俺は意気消沈しながら先生に答えた。
「はい。それで、バスで来ざるを得なくて……。それで遅れました。すいません」
「なるほど。事情は分かった。しかしあれだな。君、携帯電話くらい持ってるだろう。 遅れると分かった時点で学校に連絡を入れられたんじゃないか?」
「あ」
確かにその通りだ。なんで気付かなかったんだろう。
「君が朝の時点でいなかったので、家の方へ電話したよ。そしたら君の母親が出てね。『涼砥のことだから、きっと誘拐でもされてるんですよ』って言って笑っていた…………。なあ、これって冗談なのか? 私は笑えばよかったのか?」
「さあ……」
そんなこと聞かれても。まあおそらく半分は本気だと思う。流石に誘拐されたら心配してほしいな。
「まあいい。君には後日何かしらのペナルティを与える。今日は帰りなさい」
とりあえず解放された。俺が荷物を取りに席へ行こうとすると、杉並がニヤニヤしながらこちらを見ていた。
「よう遅刻野郎。明日は何分遅刻するんだ?」
「1分たりとも遅刻しねえよ、杉崎くん」
「ただいまー」
学校初日が終わり、俺は今ちょうど帰宅したところだ。
今日はなんだか色々あった。特に今朝会った不思議な少女。俺を助けて、俺に興味があると言っていた少女。しかし結局、お互いに名前も知らないまま別れてしまったので、もう会えないかも。
リビングに行くと、母さんが昼ドラを見ながらくつろいでいた。
「あら、おかえり。無事に帰ってきたのね」
「別にダンジョンに潜ってるわけじゃないんだから。傷だらけになったりしないって」
「そうは言い切れないでしょ? 実際今日あんた遅刻してたんだし」
「…………」
先生が家に連絡してたの忘れてた。
「あ、そう言えば今週末はお父さん帰ってくるから。チケット取れたみたい」
「え? チケットって何?」
「あれ、言ってなかったっけ。土曜、私とお父さんは美術館デートしてくるの」
間違いなく初耳です。
「じゃあ俺はお留守番な訳?」
「そうなるね。今、表門美術館で松島圭一展やってるの。すごい人気で、チケット2枚がやっとだったんだって。だからあんたは彼女とでも勝手に遊んどきなさい」
「彼女は、まあ、ねえ」
目線を逸らした俺を見て母さんは呆れたような顔をした。
「クラスに可愛い子の1人や2人いるでしょ? そういう子を口説いて、デートに誘ったりしなさいよ。なんのために高校入ったのよ?」
えっ、勉強するためじゃないの?
「まあ彼女作るのがハードル高いなら、せめて何か部活やりなさいよ。おっけー?」
「おう、おーけー」
なんか押し切られてしまった。
翌日、少し早めに起きて学校へ。最寄駅で偶然、俺や杉並の共通の友人である吾妻健太に会った。
「お、久しぶりだな吾妻」
「おはよう多々羅田。変わらずか?」
朝にふさわしい爽やかな笑顔を見せる清涼系イケメンの吾妻。電車に乗り込みながら聞いたところによると、吾妻は隣の4組だったらしい。4組さん、ウチの杉並と交換しませんか?
吾妻か同じ高校に入学したことは知っていたが、昨日は俺が遅刻して会う機会を逃していたので、積もる話もあった。吾妻とそれを消化しながら、学校への道のりを進む。
「そういえばさ」
学校の正門が見えてきた頃、吾妻が切り出した。
「多々羅田は部活動するの? テニス続けるのか?」
「あぁ……」
ちょうど俺が考えていた話題だった。中学の時のテニス部は、そこそこ頑張ったし、結構楽しかった。大会ではろくに勝てなかったが。
「うーん、微妙だなぁ。めっちゃテニスやりたいって訳でもないし。まあ見学には行こうかなーって思ってる」
中学の時には上手くなりたいと燃えていたが、今ではその情熱はない。不思議なものだ。
「吾妻はテニス続けるのか?」
「ああ、続けるよ」
吾妻も俺と同じくテニス部員だったのだが、テニスを始めたのは小学生かららしい。入部当初から十分上手かったが、部活以外にも積極的にクラブの練習に参加していたようだ。最後の大会では全国大会まで勝ち進んでいた。
「高校でも頑張るつもりだよ。多々羅田も、中学の時はあんなに頑張っていたんだから続けたら?」
吾妻の言葉に、俺は苦笑いで返すしかなかった。
今日は上級生による新入生歓迎会が行われた。その中で部活動紹介の時間もあったので、俺は面白そうな部活はないかと思いながら見ていた。
そして昼食後の今。
「それでは、クラス役員を決めようと思う」
売木先生が教卓越しになんとか頭を出して生徒に宣言した。
「まずは一番重要な役職。クラス委員長を決めよう。立候補はいるか?」
さて、クラス委員長。これには絶対にならない方がいい。いや別に面倒くさいからという身勝手な理由ではない。俺のような奴が委員長になったらきっとクラスが崩壊してしまう。してしまうのだ。
「んーいないのか。委員長はいい経験になるぞ」
耐えるんだ。そのうちこの空気に耐えられなくなった奴が勝手に挙手するだろう。それまでの辛抱だ。
「誰もいないのか。じゃあ多々羅田で決定」
多分、意識とコミュ力が高い体育会系男子か、眼鏡と三つ編みがトレードマークの委員長系女子が委員長になるんだろ、う?
んんん?
気がつくとクラス全員の目線が俺の方へ集まっていた。そして、売木先生は黒板に『委員長 多々羅田』と書いていて……
「えっ!? 俺?」
「そうだお前だ愚か者。さっさと前に来て抱負を述べたまえ」
「ちょちょちょなんで俺なんすか」
「君昨日遅刻したろ。その罰……いや、委員長の仕事をこなすことで君の時間管理能力を矯正するんだ」
いや今罰って言ったろ。教師がクラス委員長の役職を罰って言っていいのか。
「確かに遅刻しましたけど、だからこそ俺なんかにクラス委員長任せちゃダメじゃないですか」
「つべこべ言わないで観念なさい。それでは、多々羅田が委員長でいいと思う者、拍手を」
教室に拍手の音が響く。どうやらクラス全員が拍手しているようだ。特に前の席の奴は必要以上に強く手を叩いている。こいつは後でしばこう。
「よし、反対の者はいないな。では、多々羅田で決定」
俺は今日ほど民主主義を恨んだ日はなかったと思う。
だが、もう手遅れだろう。とても断れる雰囲気ではない。俺は大きくため息を吐いた。何が悪いって言ったら遅刻した俺が悪い。ちくしょうめ。
クラス委員長……面倒だな……。
「ああ、副委員長も決めないとな。立候補はいるか? できれば女子がいいんだが」
こんな遅刻野郎が委員長で、副委員長やりたがる奴いるのか? また沈黙合戦になるんだろうな。
ところが、俺の予想に反して、右手を挙げる女子が1人いた。
「はい。私やります」
「おお。やってくれるか。他に立候補は……いないな。では、ええと……四条。1年間よろしく頼む」
「はい。精一杯頑張ります。クラスの皆さんも、よろしくおねがいします」
立ち上がって挨拶したカンザシに対して、再び拍手が響く。特に前の席の奴はさっき以上に大きな音を出している。こいつは後でしばいて桜の木の下に埋めて帰ろう。
しかし、カンザシが副委員長に立候補するのは意外だった。カンザシの方を見ると、彼女もこちらを向いた。目が合うと、カンザシは少し首を傾げてはにかんだ。
クラス委員長……最高だな!