final25/25「始まりのフユに」
その夜空では、雪と星が一つに溶け合っていた。
風らしい風も吹かず、ただ静かに雪を降らせていく冬空。ごく薄い雲を透かして見える星々は、雪に紛れ込んで闇を彩る光点だ。寒さに凍り付く光は、氷に閉ざされた水面のような静けさを呼び込む。
そして、天には星が流れる。
音も無く夜空に描かれていく光跡は、どれも流星群の残滓だった。
星々の儚い光だけが、広大な雪原を照らし出す。
そんな繊細な闇の只中に、突如としてオーロラめいた光が現れた。
まるで繭のように集まっていった虹光は、直径数百mもの光球となって夜空に浮かぶ。雪原と夜空の狭間、ロウソクの炎よりも微かに瞬く光球は、白く滑らかな大地をうっすらと極彩色に染めていった。
しかし、それもほんの一瞬の出来事に過ぎない。
無音の内に解けていった光の繭は、一秒とかからずに夜空へと溶け去ってしまう。繭が消え失せた後には、全高150mを誇る紅い魔神だけが取り残されていた。
全身に蒸気を纏わせていた魔神は、凍える大気の中で徐々に熱を失っていく。
白い静寂。しんしんと降り注ぐ雪は、エルンダーグの装甲上にもうっすらと積もり始めた。あまりに場違いな魔神の存在でさえ、この冬空は迎え入れようとしてくれているのだ。
あらゆるものを等しく覆っていく雪は、どこか、優しかった。
「ハル?」
「ここは」
春季がモニターを見渡してみれば、眼下には広大な雪原が広がっている。頭上は広大な夜空に覆われ、時折、サッと流れていく星の軌跡が画面に映り込んでいた。
解析を始めた機体システムは、星々の位置を照会している最中だ。ほどなくして完了を知らせる電子音が響くと、春季はモニター上に現れた数値に安堵の表情を浮かべる。
――――A.D.2152 12 / 25……
春季と冬菜が飛んで来たのは、86年前の地球に他ならない。
機体の頭上に広がる空は、まさに二人がかつて共に見たはずの夜空だ。
「やっぱり……」
春季は自分が抱いていた予想の正しさに、内心で胸をなでおろす。
空間の切り取り。空孔の本質はそんなものではない。
時空間の置き換え。それこそが空孔の本質に他ならなかった。
エルンダーグは一度限りの覚悟で、自壊しながらも空孔に自身を飲み込ませた。そうやって時間を超え、空間をも超え、時空間における2点の場所を入れ替えていたのだ。
例えるなら、宇宙に浮かぶ星々とは、太平洋を漂う種のようなものだ。
偶然に出会うことなど有り得ない。そう言い切れるほどの空白地帯が、100%近い圧倒的な割合を占めている。だからこそ、通常の外訪者のように無差別に置換したところで、真空以外の空間を呼び出せはしない。銀河系の運動、太陽系の公転、地球の公転、自転――――あらゆる条件を正確に噛み合わせなければ、この場所に辿り着けるはずは無かった。
春季と冬菜はそれでも、全ての始まりたる夜に舞い戻ってみせたのだ。それは緻密な物理計算上の必然であり、時にどんなに手を尽くしても掴めない偶然でもある。
魔神がもたらしてくれたのは、たった一度の奇跡。
冬菜を縛る呪いを解くために、この夜にやるべき事は一つしかない。
「いくよ」
「うん」
時を超えたことで崩壊し始めた機体に、そう多くの時間は残されていない。エルンダーグは自らを砂像のように崩れさせていきながら、なおも上空へ飛び立っていった。
落ちて来る雪に逆らい、薄雲の向こうへ。
機体は徐々に加速を強めて行き、更に上空の雲を裂いた辺りで一気に加速。衝撃波を引き連れて成層圏まで上昇すると、漆黒の宇宙から飛来する一つの隕石を捉える。
星々が瞬く暗幕には、赤い光点がぼんやりと浮かんでいた。
マッハ20で大気を裂き始めた隕石は赤熱し、その大質量で以て地上へ落下しようとしている。それこそが全ての始まりとなった隕石、あの夜空を裂いた流星。春季と冬菜の運命を狂わせた一筋の流星は、しかし、今やはっきりと視認できる一つの質量物体に過ぎない。
遥か数十km下の地上では、今も幼い春季と冬菜が夜空を眺めているはずだった。
天から降り掛かろうとしている運命を知らず、無邪気に肩を並べる少年と少女。二人はきっと、このまま放っておけば再び同じ運命を辿るに違いない。
家族を喪い、互いを喪い、そして人の身ではいられない地獄へと――――。
だから、今度こそ変えてみせるのだ。
何も出来なかったあの日とは、もう違うのだから。
片腕しか残っていないエルンダーグは、裂傷だらけの右腕で槍の柄を掴む。ずるりと背から引き出されて行ったのは、全長150mに達するパイルバンカーの偉容だ。
本来、外訪者核を破砕する為に設計された槍は、星々の微かな光で銀に煌めいていた。そして、ガクンという衝撃と共に、内に秘めていた鉄杭が射出される。
隻腕の魔神が手にするのは、最後に残された一条の槍。準備は整った。
「ハル!」
「これで、終わらせる……!」
瞼を閉じたままの冬菜は、それでも手を添えてくれる。
春季は万感の思いと共に、二人の手で力強く操縦桿を押し込んでいた。
エルンダーグはぼろぼろと崩れ落ちていく機体を奮い立たせ、右腕を引き絞っていく。不気味に震える大気、あまりに膨大な電力で白熱する肘部駆動モーター。破滅的な腕力は徐々に溜め込まれて行き、今にも弾け飛びそうな勢いで不協和音を奏で始める。
そして、エルンダーグから衝撃波が迸った。
溜めを解放した右腕は、音速の数十倍以上という速度で振り切られる。握り締めていたパイルバンカーは、視認することさえ難しいほどの速度で夜空に打ち上げられていた。
尖端で裂いた大気を数万℃のプラズマに変えながら、全長150mの槍は闇を貫く光矢と化す。
数秒後、夜空にはパッと閃光が弾けていった。
頭上の暗闇に浮かび上がるのは、幾万もの線を散らしていく弩級の花火だ。上空80km付近、大気圏に突入し始めたばかりの隕石は、パイルバンカーの直撃で数mm単位にまで砕け散っていた。
空を貫く流星は爆発的に増え、高熱に耐え切れず次々に燃え尽きていく。
――――もう幼き日の二人に、隕石が襲い掛かることは無い。
その結果が確定した途端、世界には深刻な矛盾が生じようとしていた。
鶏が先か、卵が先か。
外訪者が先か、冬菜が先か。
論理循環に軋む世界の理は、外訪者を排除する方向に流れ始める。
綻んだ因果律を修復するために、星ほどもある歯車が無音で噛み合っていくような感覚。特に目に見える景色が変わった訳ではない、なにか物体が現れた訳でもない。それにも関わらず、想像を絶する轟音を発しながら切り替わっていく歯車の存在が、内臓を縮み上がらせるほどの畏怖を伴って感じられる。
世界が、切り替わっていく。
当事者たる春季と冬菜は、思わず全身に鳥肌を立たせていた。
そして、外訪者の排除作用は彼ら自身にも及び始める。
コックピットに収まる二人は、光の粒に全身を囲まれようとしていた。痛みは無く、音さえもなく、徐々に全身へ突き刺さっていく燐光が身体を改変し始める。
外訪者を排除してもなお、春季と冬菜が生まれて来ることに変わりはない。
その事実に繋ぎ止められた二人は、外訪者因子だけを抜き取られようとしていたのだ。しかし、特異点たる二人の身体は、それでも完全には元に戻らない。
人ならざる身体へと改変されていく春季と冬菜は、世界の排除作用の狭間で揺らいでいる状態にあった。
春季は存在自体が揺らいでいる身体で、冬菜をぐっと抱き寄せる。
「フユ」
彼が優しく手を伸ばすと、春季の顔は冬菜に近付けられた。
額と額がぴったりと触れ合い、瞼を閉じたままの顔が間近に迫る。春季も同じように瞼を閉じると、燐光に突き刺される身体を自ら冬菜に干渉させていった。
きっと、今なら出来る。
不思議とそう確信していた春季は、しばらく経ってからゆっくり顔を離していく。互いに瞼を閉じたまま、春季と冬菜はある種の確信を以て見つめ合う。ほとんど同時に開かれて行った瞼の奥には、それぞれ紫色の瞳が宿っていた。
冬菜の右眼は光を失ったまま、左眼が紫色に。
春季の左眼は光を失い、右眼が紫色のままで残る。
涙を滲ませる冬菜は、いつか見せてくれたあの微笑みを浮かべていた。
彼女にとっては80年振りに見る景色、その中心にいるのは他でもない春季だ。
泣き笑いの表情で、冬菜は途切れ途切れに話し掛けて来る。
「髪、伸びてたんだね」
「ずっと切る暇が無かったから」
「目、綺麗だったんだね」
「ずっと……見せられなかったね」
冬菜の瞳に映る自分の姿は、大きく変わってしまったのだろうか。
否、と春季は自答する。彼女が変わらない微笑みを向けてくれるのなら、きっと変わってはいないのだろうと思えた。あるいは、たとえどんな姿になり果てていたとしても、冬菜にとって春季は春季なのかも知れない。
彼には、ただそれだけで充分だった。
時を超えて来た負荷、そして外訪者排除作用による負荷。
二重の要因による崩壊が決定的となったエルンダーグは、成層圏から落下し始める。
散り行く破片を光の粒に変えながら、紅い魔神は風を裂いて地上へと向かう。成層圏を抜け、薄雲を突き抜け、その巨体は再び雪が舞う夜空へと戻ろうとしていた。
落下で揺れるコックピットの中、春季は冬菜を抱き締めながら操縦桿を握る。
もはや制御が利かなくなりつつある魔神は、基本動作でさえなかなか受け付けようとしない。今は広げた翼をパラシュート代わりにして、辛うじて亜音速で踏み止まっている状態だ。
それでも、モニターの幾つかは未だに生きている。
側面モニターに展開される望遠映像の中に、春季は2つの人影を見つけていた。白い地平線を超えるかどうかという位置で、小さな二人組は微かに姿をのぞかせている。
一人は、白いコートに身を包む子ウサギのような少女。
一人は、赤いジャンパーでもこもこと着膨れした少年。
ノイズを増していく望遠映像の向こうに、春季は二人の顔に浮かぶ驚愕の表情を見たような気がした。
唐突に冬空を割って、雪原に落下しようとしている150mもの鉄塊。紅い魔神の姿を目にした二人は、きっと揃いも揃って目を見開いているに違いないのだ。
きっと、自分ならそうなるに決まっている。
込み上げて来るおかしさと切なさで、春季は胸が詰まるのを感じていた。
幼き二人が紅い魔神の事を話したところで、誰も信じはしないだろう。
足らない言葉で必死に伝えようとする2人でさえ、いつしかあれは幼き日に見た幻だと思うようになるだろう。
エルンダーグの存在は、もはや誰にも知られることは無い。
初めから、この世界に存在してはいけない。
とある冬の夜空に現れた幻影として、魔神には記憶の中に埋没していく運命が待っているはずだった。
しかし、それで良いのだ。
あの二人に、もう残酷な運命は降りかからないだろうから。
地表までは、あと100m。
骨翼で速度を殺し続けていた魔神は、その眼に燃え立つような光を宿す。
残光を曳いて雪原に突っ込んでいく機体は、突如として空中に静止していた。力強くも柔らかな風が雪を巻き上げ、雪煙の中に魔神の姿を覆い隠す。最期の羽ばたきをみせた翼が落下を押し留め、魔神は羽毛が落ちるような軽やかさで雪原に舞い降りていた。
その瞬間、遂にエルンダーグは光の粒となって消え始める。自ら巻き起こした微風に流され、魔神を形作っていた痕跡が夜空に溶けていく。
初めから存在しなかったかのように、一柱の魔神は闇夜に還っていった。
――――ありがとう。
崩れ去る魔神を内側から見届け、春季はその想いを浮かべる。
数多の命を喰らって来た魔神は、それでも冬菜を救う為の力になってくれた。敵であり、戦友であり、自分自身を映す鏡だった。半身との別れを告げる寂寥感に、彼は胸に小さな穴が空いたような感覚を覚える。
その間も、冬菜はただ春季の手を握ってくれていた。
「ね、ハル」
エルンダーグがそこに居た事を証明するように、雪原は半径数十mだけが窪んでいる。低い雪の壁に囲まれた二人だけの世界で、春季は冬菜が指さす方を見つめた。
白い指先が示すのは、静かに雪が舞う夜空だった。
夜空には流れ星が走って行き、今日が流星群の日だったことを確認させてくれる。二人が肩を並べて見上げるのは、かつて見た通りに雪原を照らし出す星空。しかし、2人の紫瞳に映る景色は、少しだけ――――ほんの少しだけ違って見えた。
「流れ星、いっぱいだね」
「うん」
「……あれって」
春季は雪原に視線をやると、地平線ぎりぎりに見える二組の家族連れに気付く。
雪原の向こうに居るのは、春季と冬菜の家族。あの隕石事故さえ無ければ、きっと今も生きて二人を育ててくれていたはずの父と母だ。しかし、春季と冬菜が紫瞳で見つめる先には、別に育てるべき子供がいる。
もう会うことは出来ない。その思いを胸に、春季と冬菜は視線を交わす。
「帰ろうか……一度だけ、あの家に」
「早めに、ね」
さよなら。
自分達にも有り得たかもしれない光景を背に、二人は雪原から去っていく。
並んで伸びる足跡は、しんしんと降り積もる雪にかき消されていった。
* * *
「服、貸してくれたね」
春季が見つめる先で、冬菜は白いお古のコートに身を包んでいた。
彼自身もまた、押入れの奥から引っ張り出されたコートを纏っている。
二人が並んで歩いているのは、あまりにも見慣れた民家の敷地内。立派ではないにせよ母屋があり、離れがあり、低い生け垣に囲まれている家は、まさに記憶通りの様子を留めていた。
春季と冬菜が訪ねたのは、自分達の家だった。
冬菜が白い吐息と共に話し掛けて来る様子には、帰って来られた、という嬉しさが隠しようもなく滲む。あるいは、という思いで扉を叩いてみれば、春季の祖母は健在で二人を迎え入れてくれたのだ。
もはや見知らぬ他人でしか無いというのに、祖母の対応はどこまでも温かかった。
――――持ってお行き。
事情など聞こうとせず、掛けてくれたのはその言葉。
何もかもを知っているのではないか、そう思える瞳で送り出してくれたのだ。
祖母の眼は、記憶にある通りの優しさを湛えていた。更にはささやかな祝福を表すかのように、春季の手には一つの鍵が手渡されている。
「婆ちゃんは、そういう人だから」
「ふふっ、そうだった。お婆ちゃんだもんね」
春季は鍵を手に、庭先に止めてあった自転車のロックを外す。
父親の自転車なのかも知れないが、久しく乗っていないせいで車体にはあちこちにガタが来ている。たとえ無くなっても気付かないだろう、と思えるくらいには放置されているらしかった。まるで自分の自転車を押しているような感触に、春季は苦笑を隠せない。
「フユ、乗って」
もはやそう言わずとも、冬菜は荷台に腰を掛けて来る。
もう何度となく繰り返して来た光景なのに、その重みはあまりに懐かしいものだった。少し軽くなったかもしれない冬菜を乗せ、彼は衰えた足に力を込める。ギィと軋むフットペダルを漕ぎ出すと、自転車はそのまま薄雪に覆われた道を走って行く。
腰に回された冬菜の腕の感触が、懐かしくも愛おしかった。
「どこに行こうか」
「いいよ、どこでも。ハルと一緒なら」
そう言うと、冬菜は春季の背に身体を預けた。
一台の自転車に乗るのは、かつて数億光年という隔絶に引き裂かれた二人。
そして、今は他の誰よりも近くに寄り添う二人。
もう離れることは無い、そう信じて古びたアスファルトの上を進む。
「ありがと」
「いいって」
雪が舞う冬空の下、軋む自転車の音は夜道に吸い込まれていく。
西暦2152年、冬。静寂に沈む景色の中に、春季と冬菜の姿は消えて行った。
―カクヨムにて連載中(設定集あり)―
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882126599




