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ガラスの解剖  作者: 笹十三
火と花
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火と花 1

第一章 「火と花」


 都会の公園の中から見る空にしては、今日は珍しく星が良く見えた。田舎に比べたらぜんぜんだろうけど。空を見渡すと、晴れた夜空は月の光が強く輝いて、うすく浮かぶ雲の輪郭を照らしている。夜なのに晴れていることがはっきりとわかる空。それはなんだか不思議な気がした。いつも見る夜空なんて、空を突き抜けてすぐに黒一色の平坦な宇宙が広がっているばっかりだから、夜に雲の輪郭が浮き出て見えることは多くない。宇宙の下に空があることを夜に意識したのは久しぶりだった。


「正義を叫ぶシュプレヒコールの中で

ただ悲しくたたずんでいた私は

存在のあやしい透明な液体……」


 公園の中を曲がりくねって伸びる遊歩道。月を見上げながら誰もいない道の上で、私は半ば無意識に少しマイナーな曲の歌詞を口ずさんで歩いた。錆びと、しめったうすい苔で緑がかった木のベンチ。橙色の小さなつぼみの群れをつけた金木犀の垣根。甘くやわらかな黄色い香りが、鼻腔から頭へと通り過ぎた。

 東京に秋はまだまだはっきりとは訪れていないみたい。ただ、呼吸のように自然に流れて行く空気は、ぼんやりとした秋の気配に浸されて、真夏の頃よりも少しだけ引き締まった雰囲気を作っている。正面には公園の中で唯一の自動販売機が青白く浮かび上がっていて、その前まで歩くと、私は砂糖入りの温かいミルクティーを買ってベンチに腰かけた。

 ミルクティーの缶を両手で握ったまま腕を腿の上に乗せると、自然と体勢は前かがみになる。つられて視線は缶を握る両手の上へと収まる。視線がそこへ行くと、街灯の明かりを受けて鈍く銀色に輝くスチールの輝きといっしょに、手首の皮膚が固くつっぱって、痛みを発していることに意識が行った。その痛みの原因が何なのか、そこに何が在るのか、私は知っている。

 そんなものを見たって事実は何も変わらないことがわかっていながら、私は控えめに袖をまくってみた。そこには、まだ新しく鋭い切り傷が、深く、赤く、黒く。まるで消えない烙印みたいにこびりついていた。


 退屈な保健の授業。私は本来の授業とは全く関係のないページをめくって、無意味な感傷に浸っていた。そうしていたら、運命のように「リストカット」という言葉が印刷してあった。教科書の端の方に、小さく区切られた四角い見出しの中には、「ストレスや心理的不安のはけ口として自分の手首を刃物で切ってしまうこと。また、女性に多い。」なんて書いてあった。まだ乾き切っていない傷口を見て、唇から漏れる溜息とともに、今日の真っ白な昼の学校の記憶が思い出された。

 何が原因でそんな事をしたのかなんて知らない。自分でも分からない。でも、得体の知れない、何者かが私を悲しくして、生きることを辛くしてしまうのだ。毎日がつらくて、生きていなくちゃいけないって、強要された「生」が重たくのしかかってきて、一日一日を生き残ることだけで精一杯だった。自由なんて、建前だ。生きることが自由なら、死ぬこともまた自由な筈なのに。

 でも、あの歌を聴いている間だけは、一人で泣いている私の横で、何かあたたかい熱が寄り添ってくれているみたいに感じるのだ。だから……

「正義を叫ぶシュプレヒコールの中で……」

 なんとなくメロディーを漏らしていたさっきとは違って、今度は曲調を思い出しながら、はっきりと歌う意識を持って歌う。

 この曲を知ったのは一年くらい前。なんとなく聞いていたラジオからこの歌詞が流れてきた時、私はすぐに気に入った。ネットでこの歌手名を調べて、CDの売っている店を探し回った。どこか懐かしい感覚と心地良い感傷を感じさせる曲調で、出だしはピアノのソロパートで始まる。雨のしずくが落ちるような前奏が終わると、アコースティックギターが少しだけレトロチックな音色を含みながらそれに続く。ただ、ピアノの演奏に比べるとギターは上手いとは言えない。小規模なライブでの演奏を動画で見た時なんてミスばっかりだった。

 でもいいのだ。それだっていいんだ。そんなものは私には関係なかった。下手でもボーカルの人の体の中から滲み出す後悔にも似た感情が、曲に溶け込んでいるように感じられたから。不完全な私には、その歌は私と同じような不完全さを持ったが為に、つぶされて死にかけている友人のように思えた。「死にたい程悲しい」なんてセンチメンタルなつぶやきに、「わたしもそう思うよ」ってささやいてくれるみたいな……

 それから深呼吸する息遣いが聞こえると、静かなバラードの歌声が、さらさらと流れ込む。歌詞も好きだったけど、私はボーカルの歌い方が一番好きだった。病気に犯された純真な少女が、病の悲しげな憂いを隠しながら精一杯優しく笑おうとしているような歌い方に、私は初めて「死の美しい」ことを知らされた。


 壊れやすい幼さ。 


 悲劇の美しさ。 


 薄幸の可憐さ。 


 かわいそうな優しさ。


 この曲にはそれが全部込められていた。死は美しく、優雅で、この曲を聴いた時、私もこの曲のように美しく死にたい。私が目指したいものはこれなのだと、ふと思ったのだ。

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