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輪廻と転生は少し異なるという話。または仏教における正しき絶望

作者: 谷村真哉

 輪廻転生。現代日本でも割と知られている仏教用語ですが、実は輪廻と転生は少し意味が異なることをご存知ですか?


 『輪廻転生』の一語で生まれ変わりを意味する言葉として扱われていますが、『転生』だけでも生まれ変わりを表現しています。では『輪廻』とは一体どんな意味を持つのでしょうか。


 本題に入る前に、まずは字の成り立ちから見てみましょう。


 『輪廻』。りんね、と発音しますが、一つ一つの字を見ると『輪』はりん、『廻』はえ、と発音します。


 これは連音と呼ばれる現象で、前の音に次の音(母音)が引っ張られる現象です。


 『輪廻』と同じく仏教由来の『四天王』もしてんのう、と発音しますが、これも同じ現象だとか。


 続いてはそれぞれの文字の意味について。


 『輪』は文字通り輪、円い形状の物体を指します。『廻』はめぐると読み、巡ると同じ意味の定まったルートを辿ることを指します。


 よって『輪廻』とは「輪のように終わりの無い道を辿る」という意味であり、『輪廻転生』での四字で「輪形の終わりの無い道を辿るように、永遠に生まれ変わり続ける」という意味なのです。


 言い換えるなら『輪廻』とは「永遠にかつまた最初に戻るように生まれ変わり続けること」を意味し、『転生』とは「その永遠のサイクルの中の一つ一つの生まれ変わりを指している」と解することができます。


 本文章の主題である『輪廻』と『転生』の違いは以上ですが、肝心なところがまだ説明できていません。「永遠にかつまた最初に戻るように生まれ変わり続けること」という思想がどのような背景を持って生じたのか、その説明がまだ終わっていないのですから。


 それでは『輪廻転生』という思想が生まれるに至った仏教及び古代インドの思想について、触れてみるとしましょう。


 まず「永遠にかつまた最初に戻るように生まれ変わり続けること」という思想は、現代人として明らかに奇妙な点があります。


 「永遠に生まれ変わり続ける」ことは、一定数の賛同が得られるかもしれません。ですが「最初に戻るように生まれ変わり続けること」は、または「生まれ変わりの先に最初に戻ること」は、あまり一般的とは言い難い発想です。


 SF好きな方ならば時間遡行や過去への巻き戻しといったアイディアが連想されるかもしれませんが、古代インド人がそこまで先進的な、もしくは斬新な発想を持っていた訳ではありません。


 「停滞した世界」という、むしろもっと単純で古典的な世界観が「永遠にかつまた最初に戻るように生まれ変わり続けること」の背景に存在していたのです。


 では「停滞した世界」とは何か。これをもっとサブカルチャーに即した言い方をするのであれば、「逆サザエさん時空」とでも呼ぶべき世界観あるいは時間観です。


 本題からは外れ、またご存知の方も多いとは思いますが、ここで「サザエさん時空」について解説をします。


 現在(2019年)に国民的長寿アニメとして知られる『サザエさん』は、50年以上の長きに渡って放映されており、ギネスに世界でもっとも長期間放映されているアニメとして記録されているほどです。


 一方、平凡な一家族の日常をテーマとする同作は、登場人物の経年による変化が描写されず(一部例外となる登場人物もあり)、同じ年齢のまま異なる四季を経験し、また背景となる日常生活が放映当時の世相を反映するという構成になっています。


 平たく言ってしまえば、登場人物が不老のまま時代だけが進んでいる世界観、となります。


 それを踏まえて「逆サザエさん時空」を説明するならば、中に居る人間(登場人物)は変化するが時代そのものは変化しない世界観、になります。


 このような考え方は現代の人間からすると不合理にも見えますが、実は完全に合理性を欠いた考え方とは言えない面もあります。


 実際の所、時間感覚とは生得的なものではなく、多分に文化的、社会的に構築されるものであり、現在の人類が持つ時間感覚も歴史的に作られてきた経緯があります。


 例えば、幼い子供の時間感覚は成人のそれとは大きく異なります。


 昨日、今日、明日と連続して経過する時間や、あと何回寝たら目的とする日が来るといった時間に対する予測は割と幼いうちから発揮されます。


 ですが今日が何曜日なのか、あるいは今日が火曜日だから翌日は水曜日だとか、そういった曜日感覚の習得には個人差があり、人によっては小学校入学後に覚えることもあります。


 この曜日感覚の習得には、規則的に訪れるイベントの存在が意外なほど効果的です。


 全ての曜日は覚えていないが、親が朝からのんびりしている、またはお気に入りのテレビ番組が放映している日曜日だけは理解している子供は一定数以上います。


 ここまでは曜日感覚についての話ですが、年間単位で時間が前に進んでいると理解する、仮に経年感覚とでも呼びますが、時間感覚はどのようにして涵養されるのか。


 これは前述の曜日感覚とは逆に、規則的ではないことを証明するイベントが重要ではないか、と筆者は考えています。


 前の事例は幼児の話ですが、今度はいわゆる中年と呼ばれる年代以降の人物を例としてみましょう。


 この文章を読んでくださっている方の年齢は判りませんが、一定以上の年齢の人物と話していると(または自分自身が)、印象的な出来事または事件を正確に何年前の出来事か記憶していない、という経験はないでしょうか。


 より正確には、印象的な出来事は実際の時点よりも現在に近い時点で起こったと誤解している、ということはないでしょうか。


 この手の誤解は他の印象的な出来事と比較することによって正確な時点を把握し、そんな前の出来事だったかと驚くところまで一セットだったりしますが、それは脇に置いておきます。


 ここで重要な事は、成人した人間が必ずしも正確な経年感覚を持っている訳ではない点です。


 あまり変化のない日常は圧縮して保存し、印象的な出来事は特別なフォルダに区別して管理する。実時間で十年間を生きてきたとしても、記憶の中の時間経過はその半分以下。


 であるならば、印象的な出来事を実際よりも現在に近い時点で起きていたと誤解するのも無理がないでしょう。


 あるいはむしろ順序は逆なのかもしれません。


 割と知られた話ですが、海上自衛隊の食事はご存知でしょうか。長期航海の際は曜日を忘れないように毎金曜日の食事をカレーとする、という話です。


 この話、裏を返せば大人であっても変化のない日常に置かれると曜日を忘れる可能性がある事を示しています。


 これまで曜日感覚だの経年感覚だのと述べてきましたが、現実はもっと単純に「変化を意識しなければ、人は一日一日を希釈する習性がある」だけ。その意識された変化を記憶と呼んでいる可能性も、もしかしたらありえるのか。


 これについては機会があれば別に論ずるとして、今は「逆サザエさん時空」についてです。


 個々人における時間感覚の曖昧さについては述べましたが、この曖昧さを社会についても適用してよいものでしょうか。続いてはこの点について論じたいと思います。


 さて、単純な事実として社会の変化のスピードは時代が下るごとに早くなっています。ここでいう社会の変化とは例えば新技術の発表であったり、例えば建築物の更新であったりします。


(もちろん、理由もなく早くなっている訳ではありません。背景には技術の進歩、さらには技術の進歩そのものの速さの変化があります。この速さの変化については技術論と呼ばれる分野が関係しており、極めて興味深い話があるのですが、本文章とはテーマがずれるので述べません)


 これらは、時間感覚の段で言うところの印象的な出来事であり、記憶の中で日常とは別のフォルダに保存されるものです。


 現代という時代はそれらの出来事が飽和しつつあるのではないかとの指摘もありますが、この文章で対象とするのは現代ではなく古代インドです。


 時代が下ると変化のスピードが早くなる。それの裏を返せば、時代を遡ると変化のスピードは遅くなっているということです。


 当たり前と言えば当たり前の話ですが、仏教の開祖であるシャカが生存していた2500年前ともなれば現代とは想像を絶するほど変化が乏しい世界だったでしょう。


 人が生まれ、育ち、結婚し、子供を産み、やがて年老いて死ぬ。個人レベルでの生活サイクルには現代ともさほど違いはないかもしれません。ですが周囲へと目を向ければ、その差は歴然です。


 住んでいる家は祖父の父の時に建てた家で、手入れを怠らなければ孫まで住めるだろう。


 暮している集落は祖父の父の更に祖父の時代に開かれたらしい。それよりは川向こうの集落に家があったそうだ。


 この国が建てられたのがいつかは知らないし、世界なんてそれこそ永遠に存在しているのだろう。


 多分に模式的な表現ではありますが、当時の一般庶民にとっての世界なんてこんな物だったのでしょう。


 歴史について学べる知識階級にとっても状況は対して変わらなかったと考えられます。


 知識としては国の興亡は有ったかもしれません。時に興り、時に亡びる様は大きな変化かもしれません。


 ですがそれらの興亡が数百年単位でずっと続いていたら、やはりそれは変わりない日常へと陥るのではないでしょうか。


 仏典には次のような表現があります。


「葉の一枚一枚が時に芽生え、時に落ちようとも木そのものの姿が変わらないように。樹の一本一本が時に育ち、時に朽ちようとも森そのものの姿が変わらないように」世界は部分部分で変化することはあっても、総体としては変化しないのであると。


 冬になれば葉っぱ落ちんじゃん、という突っ込みはなしで。温帯である日本と熱帯に近いインド亜大陸の植生の違いだと思ってください。(インドの自然についてはさっぱりですが)


 世界は動くが、変化はしない。この思想こそが「逆サザエさん時空」を、そして「輪廻転生」を背後から支えていた根幹だったのです。


 さて、ここまでは「輪廻転生」の意味とそれが生じた背景に関する文章でした。ここからは「輪廻転生」という概念の救いようのなさ、すなわち仏教における正しき絶望についての話です。


(ここから先は基本的に宗教関係の話になるので、興味の無い方または共感しづらい方はお戻りください)


 まず前提として、実のところ輪廻転生について仏教では割合と否定的な立場をとっています。この否定的の意味は二つあり、「輪廻は善いものではない」という意味と「そもそも輪廻は存在しない」という意味です。


 後者についてなぜそのような主張がなされるかは中々に専門的な知識が必要なので省きますが、前者については簡単です。


 仏教において、生きることは決して善いことではないからです。


 四苦八苦。ご存知の方も多いと思いますが、仏教に由来する四字熟語です。


 四苦とは生、老、病、死の四つの苦しみ。八苦とは四苦に愛別離、怨憎会、求不得、五蘊盛の四つの苦しみを加えたものです。


 よく誤解されるのですが、四苦の内の生苦とは「生きる」ことではなく「生まれる」ことです。


 人が生まれ、年老い、病み衰えて、死ぬ。その一連の流れそのもの四苦であり、つまりは生きることそのものが苦しみであると仏教は説いています。


(因みに愛別離は愛する人(執着の対象)から離れること、怨憎会は自分が会いたくないものと会わざるをえないこと、求不得は求めるものが手に入らないこと、五蘊盛は世界に存在する種々のものから受ける刺激のことです)


 しかもこの苦しみは決して終わらない。なぜならば人は、正しくは全ての生き物は輪廻に囚われているからです。


 生前の行いによって五趣六道(天道、人間、畜生、餓鬼、地獄で五趣。後世で加えられた修羅を含めて六道)と称される環境に生まれ変わることはありますが、どれに生まれたところで四苦の定めから逃れることはできないとされています。


 死んだとしても、生きることの苦しみからは決して逃れられない。では、どうやってその絶望を終わらせるのか。


 それこそが仏教という思想の始まりに存在しているのです。


 まあ、その終わらせ方についてはそれこそ二千年以上に渡って議論されているので、ここで簡単に述べられるものではありません。


 さて、これにて輪廻と転生は少し異なるという話。または仏教における正しき絶望については終わりです。


 お時間を割いていただき、ありがとうございました。


 


 因みに。中国を経由して受容された日本の仏教では地獄は死者が住む世界だとされていますが、これは道教の影響を受けた結果です。


 インド仏教においては死者が住まう世界は存在していません。前述した通り、地獄に生まれ変わる、つまり地獄の住人もまた生きている、という事になります。


 更に言えば唯識論という立場では世界は一つであり、五趣の違いはただ受け取る側の問題でしかない、ともされています。


 どうしてそんな考え方をするのか気になったのであれば、ぜひとも調べてみてください。ものすごく難解なので、筆者では説明できません。


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― 新着の感想 ―
[一言] 分かりやすい解説、ありがとうございました。 「輪廻」や「転生」を小説の中で使う前に正しいかどうか考える機会となりました。感謝です。 仏教、難しいですね………(´・ω・`)
[一言] 俺たちの普段送ってる日常こそが輪廻であるって話を聞いたことがあるやね 例えば、俺たちは"明日自分が死ぬ"とは思っていない 同様に明日の俺たちも"明日自分が死ぬ"とは思わないだろう 帰納法的…
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