にがし村の娘
……おなか、すいたな。
あ、すみません。ムードないですよね。こういうの、慣れてなくて……どんなことを言えばいいのか、わからなくて。
そんなに、笑わないでください……。
え? 初めて、ですよ。あの、わかりませんでしたか? なら、なにも聞かなくたっていいじゃないですか、恥ずかしい。
いえ、全然、私なんて。それに、今まではあんまり余裕がなくて。恋人、とか、考えたこともなかったから。……あえて言うなら、心の余裕、かな。
なんですか、もう。過去のことって、男の人は、そんなに気になるものなんですか?
ああ……そっか。先輩、知ってるんですよね。
気づいてました。気づかれてるって。大丈夫です、そんな顔しないでください。
……話しちゃいけないって、言われてるんです。忘れろって。でも、忘れられるわけ、なくて。先輩になら、話しても、いいかな。
……どれくらい、知ってますか?
N村の惨劇。いまは、そんな都市伝説みたいに呼ばれてるみたいですね。……まだ、十年ちょっとしか経ってないのに。なんだか、不思議。
気分? 心配してくれるんですか? ふふ、大丈夫です。ありがとうございます。
報道とか、たくさんされてたみたいですけど、私はそういうのを見てないから、逆に先輩より知らないことのほうが多そう。話せるのは、私のこと、私が見たことだけだから。
それでも、いいですか? ……はい。
逃村。あそこで、私は生まれました。
山奥の、自然豊かって言ったら聞こえがいいけど、自然以外にはなにもない集落。
先輩は、生まれも育ちも東京ですか? ……ふふ、田舎者にとっては、たいして違いませんよ。でも、なら、想像しにくいですよね。ええと……犬神家とか、獄門島とか、ああいう感じだと言えばわかりやすいかな。海はないんですけど。
コンビニひとつ、ないような山奥でした。一番近いコンビニは……村から降りて、町の近くの国道沿いの、あれかな。小学生には行けない距離。村内には個人でやってるお店もありましたけど、お酒屋さんとか精米屋さんとかお豆腐屋さんとかだから、学校帰りに買い食い、なんて夢みたいな話でした。町までは、山を降りて車で三十分。バスだけは、一応。中高生が登下校に使っていました。……時代錯誤、ですよね。でも、本当にそんな村でした。
あの頃は、こんな言葉を知らなかったんですけど……閉鎖的な村でした。
集落は山の上のほうから三角形に伸びていて、一番上にあるのが御本家。あとはみんな分家。そうなんです、もとをたどれば村内はみんな血縁関係。いま考えると、すごいですよね。苗字も、御本家が上△■。あとは中△■と下△■。はい、それしかなかったんです。だからか、村ではみんながみな、下の名前で呼び合っていました。老若男女関係なく、です。
私の両親は、そんな村に移り住んだ『よそのひと』でした。
……もともと、父が病弱で。私が生まれる前のことなので、詳しくは知らないんですけど。御本家の旦那様と、大学で知り合い意気投合したとか。母と結婚して、そのあと大病に罹って、療養のためお世話になったそうです。そのあと、私が生まれました。
御本家に厄介になっているから、怪しい素性じゃないけど、よそのひと。いつだって村の人たちとは、薄い膜かなにかで隔たっていたような気がします。今にして思うと、村の……なんていうんでしょう、暗黙の了解のようなものが、根本的に理解できていなかった。それも理由のひとつだと思います。
そして、小学校五年の時、都会から移り住んできた一家がいました。
なんでも旦那さんが学者先生かなにかだったらしくて。研究の一環で訪れたことのある逃村に魅了されたそうで。……かなり強引なやり方で土地を買われたとか、噂を聞きました。でも、大人の事情ですから。あまり、よく知りません。
その噂が原因なのか、その一家は村の人たちからあからさまに距離を取られていました。同い年の女の子がいたんですけど……母から、御本家に顔向けできなくなるから、仲良くしないようにって、言われました。
でも、私はその子とすぐに仲良くなりました。
私たちは、村の人たちにとって『よそのひと』だったから、他に友達ができなかった。それまで孤立していた私は、一緒に行動するようになったその子に、すぐに夢中になりました。
ふふ、おかしいですか? でも、言葉どおりです。
その子はテレビの中にいる子たちみたいに垢抜けていて、お父さんが学者先生だからかいろいろなことを知っていて、はきはきものを言って、すごく魅力的な子だったんです。それに、いつも怒っていました。
はい、怒ってたんです。「こんな田舎に来たくなかった」って。
村で生まれ育ったのに『よそのひと』扱いされていて、『よそのひと』なのに村の中しか知らなかった私は、目がくらむほど彼女が眩しかった。村に対して怒るなんて、考えたこともなかったんです。御本家の好意で村においてもらっているんだから、大人しくしていなきゃダメだって、言い聞かされていたので。
逃村の昔話については、知ってますか? ……そっか、それも報道されたんですね。
日本各地に伝わる、珍しくもない鬼伝説。逃村にも、それがありました。
追われ追われた鬼が一匹、村までやってきた。哀れに思った村人たちは、退治せんとする武者からその鬼を三日三晩隠したすえ、逃した。だから逃村。
村には神社がひとつあって……普通に想像するような神社とはたぶん違います。神主さんとかはいないし、お社すらなくて、村で管理している古めかしい灯籠みたいな……祠なのかな、それがぽつんとある場所。そこで、一年に一度、お祭りがありました。
お祭りって言っても、屋台が出たり花火をしたりするんじゃなくて。『おにがし』という神事を三日三晩行うんです。……実は、私はそのお祭りに、参加したことがありませんでした。村の大切な神事だから、『よそのひと』が入っちゃいけないって言われていたので。
彼女は、自分たちだって不本意ながらも村の住人なんだから、参加するなとはどういうことだと怒りました。そして、こっそりお祭りを見にいってやろうと言いました。……とってもすごい冒険だって、私も同意しました。
神社は御本家の屋敷の裏、山の中腹にあったんです。参道をはずれて、山道を進めば、近づくことはできました。
そうして。
大冒険のつもりで、静まり返った村から山を登って、神社に行った私たちは、拍子抜けしました。
火を灯した石灯籠に向かい合うように、ひらけた場所。そこに横長に板を敷いて、面を被った人たちが奇妙な声をあげながら踊っている。
村人たちは石灯籠を背に、それを見ている。
──なんてつまらないんだろう。私たちは、そう思いました。
いま思うと、あれは能とか狂言とか、奉納舞とか、そういうものに似ていた気がします。でも、どんな秘密の神事が行われているのかとわくわく期待していた小学生にとっては、あくびが出るほどつまらない意味のわからない事柄。それだけでした。
だから、三日目。
あの子は石灯籠に、花火を放った。
一日目で心底がっかりしていた私は、もう退屈な祭りのことなど忘れて、家で母とテレビを見ていました。そして、裏山のほうから聞こえる悲鳴と怒号に心底驚きました。
大勢の足音。
憤怒の形相の男衆。
ずっと部屋にいたかと、怒鳴りつける問い。
母と一緒に頷くと、誰かが神社から降りてくるのを見なかったか、とも。
私たちがいた部屋からは、参道がよく見えたから。
受け答えする母の隣で、まさか、とそのとき私の心臓は高鳴っていました。
あの子が、なにか素晴らしいことをやったのではないか、と。
すぐさま村人たちは、そんな罰当たりはあの子だけだと思い至って出ていって……けれど、学者先生に言い負かされて追い返されたそうです。娘はずっと部屋にいた、と。
あとで、彼女は得意満面に、簡単な時限式の仕掛けだったと、教えてくれました。
私たちは、なんだかすごく楽しくて、腹の底から笑いました。
──結局あれが、始まりだった。
明らかな異変を察知したのは、一ヶ月くらい経った頃でした。
村から、野良猫が消えたんです。ふつりと、前触れもなく。気づいたのは、あの子でした。家の裏で、こっそり餌をやっていたから。
なにか不穏な感じがする。子どもふたりがのんきにそんなことを思っている間にも、そこらじゅうにいたカラスやスズメなど、鳥の姿も消えていきました。
そして、村を歩いていると、時折つんと鼻を刺す、嫌な匂いがありました。
放置した生ゴミのような匂いがありました。
そして、村の人たちの様子もまた、どんどん変わっていきました。
目が。
正確には、子どものぜんぶと、大人の一部。村の血を引く人たちが。
外からお嫁に来た人、お婿に来た人、そういった村の血を引かない人たちを見る目が、おかしなものになっていったんです。
ふっと、見るのです。
浮かされたような、焦点があわぬような、ぎらぎらしたような、そんな目で。
なにかに、いま、気づいた。そんなふうに。
喧嘩も多くなりました。
大人も、子供も、関係なく。
かっとなって暴言を振るう。
男子も、女子も、関係なく。
かっとなって暴力を振るう。
優等生も、ガキ大将も、引っ込み思案も、関係なく。
ああ、ただ、遠いもの、いえ……下△■という苗字の人たちほど、我を忘れやすかった気がします。
クラスの雰囲気は、どんどん悪くなっていきました。
私たちのクラスには、『よそのひと』たちがいたから。
不意に、みんなが。
ぎらぎら濁った、あの目をするのです。
あの目。
……先輩も、ちょっと似たところがありますよね。
ああ、気を悪くしましたか。ごめんなさい。そんな顔をしないでください。
村の人たちの目とは違います、違うんです。
ただ、目が、わかりやすいってだけで。
私はあのあと、いろんな人に会いました。警察の人。病院の人。施設の人。報道の人。
いろんな人のお世話になったし、いろんな人に迷惑をかけて、かけられた。
先輩は初めから、村の話を聞きたかったから、私に近づいて来たんですよね。──いえ、いいんです。気づいてたから。
だって先輩は報道の人たちと同じ目をしているんだもの。
暴きたい、知りたい、そういう貪欲な目。
でも、だから、いいかなって思ったんです。
そして、あの日。
給食の時間でした。ひとりの男子が、声をあげました。
「もう、こんなもん、食ってらんねえよ」
お盆に乗っているのは、カレーライスでした。
そして……あの目。どうしたの、とその男子に声をかけた先生へ、皆が──噛り付きました。
あの子は。
文字どおり噛り付いてくる同級生を振り切って、すぐさまあの子は立ちすくんだ私の手を引いて、教室の片隅にあるロッカーに逃げ込みました。
モップをつっかえ棒にして閉じこもりました。
小学生の女子の小さな体でも、二人入ればロッカーはぎちぎちでした。
外から、どんどん。
どんどん。
どんどん。
叩かれても、開けず。
ぐちゃぐちゃ。
ごりごり。
音を聞いても、開けず。
先生の、悲鳴を。
最期まで。
聞いても、開けず。
息を潜めて。
外の様子を伺って。
息を殺して。
そのまま、まる二日。
──血を流し続けるあの子と、まる二日。
どうやって助かったのかは、覚えていません。
ただ、光が差したことだけ。
あとは、病院のベッドの上で、なにもかも終わったことを聞きました。
両親が死んだことを。
村が──壊れたことを、知りました。
あの子が事切れていたことと一緒に、知りました。
村の血を引くひとたちが、外から来た人たちを、むさぼり食らったことを。
むさぼり食らったひとたちが、村を閉鎖した警察によって──されたことを。
私が話せるのは、私が知っていることだけです。
だから、すみません。最後はこんな尻切れとんぼで、面白くもなんともなくて。
N村の惨劇。確かに私は唯一の生き残りですけど、ろくになにも話ができなくて。
ろくに、なにも見ていなくて。
ごめんなさい。ねえ、先輩。
──神事の名前は、『おにがし』。
たぶん、村の名前はそこから転じたのでしょうね。『おにがし』が『にがし』へと。
だけど、あとあと──あの子の遺品をわけてもらったら、そのなかに学者先生のノートが、混ざっていたんです。そこに、書いてありました。『おにがし』もまた、とある言葉が転じた結果だって。
『おにかくし』。
村の伝説では鬼を隠して、逃したことになっていた。
けれど、原本では、『逃した』という記載はなかったんだって。
追われ追われて訪れた鬼。それは美しい女の鬼だったそうです。
哀れに思った村人たちは、その鬼を隠して──そのまま。
そのまま隠して、その子孫が、あの村だったんじゃないかって。
もちろん、推論なんですけど。
ねえ、先輩。
──私の父は、病弱でした。
療養のため御本家の厄介になってからずっと、病床にありました。
そして、私は生まれました。
私の父は、布団から起き上がれぬ身だったのに。
ねえ、先輩。
おなか、すいたわ。