四
俺は何階にいるのか分からない程、いくつもの階段を上ってきた。
オッサンが現れてから特に何事もなく……といいたいところだが、残念ながら移動手段として使用していたチャリは道のりでパンクしてしまった。
正直手放したくなかったが、どうしようもなかったのだ。
だから、俺は何階かも分からないこの階に歩いてきた。それはもう、個人的には気が遠くなる程の時間だったけど、現実はそんなに時間が経っていないかもしれない。
それに休憩もしっかりとった。
事実、あの時の怪我は未だに痛みを感じるが、我慢できる領域にある。
しかし、その油断が駄目だったのかもしれない。
何故そう思うのか。
それは、モンスターの足音が聞こえてきたからだ。それもかなり大きなモンスターであるということは、簡単に推測できた。
もうすこし進むと、正体がやっと分かった。
大剣を手に持った、緑色の肌をした巨大な身体を持つモンスター。それに加え、頭は髪の毛でフサフサ、というのが特徴的だ。
俺が知っているもので一言で言うとトロールだろう。
さっそくトロールが大剣を構えたが、俺の身体は全く動かない。石になった気分だ。俺の心臓以外は。
トロールは上から遠心力を用いて大剣を振り下ろし、地面にヒビが入った。
幸い、トロールの動き一つ一つが遅く、避けることに成功した。
ここまでは順調だが、緊張で心臓が張り裂けそうだ。少しでも失敗すると、俺の身体は真っ二つだろう。
今の状況は、頭に銃口が向けられているようなもの。油断を見せればあの世行きである。
それは嫌だ。嫌でも生にしがみついてしまう。
俺は人間だから。人間ならば思考力がある。知恵もある。精神という特別なものまである。
けれど、何故だろう。人間の野生本能の部分が『助かりたいなら逃げろ』と叫んでいる。
俺は素直にそれに従うことにした。
再びトロールが俺に大剣を振り下ろした直後、俺は怪我の痛みに耐えながら必死に出口を求めて奥へと走り出した。
トロールの叫び声が聞こえても、身体が疲れても、限界が来るまで後ろを振り返ることなく走り続けることにした。
気づいたらあの世にいた、なんとことがあってもやれることはやったと思うだろう。
俺は例の階段を発見した。この階の唯一の出口である。けれど、違和感はあった。
いつもなら階段の上の方は周囲にある松明のおかげで明るい筈だが、今回は真っ暗なのだ。
悪い予感はしたが、それ以外出口がない筈。それに、何より階段を上らなければトロールによって俺の身体は真っ二つ、もしくはバラバラにされるだろう。
素早く壁に設置されている松明を一つ取り、全速力で俺は階段を駆け上がった。
その先にあったものは、今までのような松明で照らされた洞窟ではなく、危険な匂いが漂う暗闇の森林だった。
俺はひとまず地面に横たわり、休憩を取ると共に深呼吸をして精神を安定させた。
数分後には息が整い、身体もかなり楽になり、そこら辺をぶらぶら歩いてる時のこと。
奥の方からかなりの煙がこちらにきて、突如視界を遮る。そのせいで、今は咳が止まる気配がない。
無我夢中で暫く走ったが、酸素不足で走るのが困難になった。そんな中、俺は地面にうつ伏せで倒れている人を発見した。
正直放置しておこうかと考えたが、俺の善意がそれを許さない。
俺は倒れた人に近づき、揺らそうとしたが、自然と自分の手は止まる。
まさか倒れている人が自分と同い年ぐらいの少女だとは思いもしなかったからだ。しかし、躊躇してる暇もない。頭痛が次第に酷くなってきてるからだ。目眩すらしてきた。酸素が圧倒的に足りてない時の症状だと言い切れる。
肩に乗せると、俺は呻き声を上げた。まるで肩に熱湯をかけられたような感覚だった。
チャリからコケた時の怪我を未だに見ていない為、どれほど酷い傷なのか分からないが、少なくとも思っていたより酷い傷であることは間違いない。
寿命を削っているような感覚すらあった。目眩、痛み、不安。ネガティブな要素で構成された俺は、おんぶをしている少女を救う為だけに前を歩きだした。
ーーそして、ついに身体の限界が来た。
倒れる気配がした俺は、すぐさま松明を遠くに投げ捨て、近辺が燃え移るまでの時間稼ぎをした。
それから視界が真っ暗になるまでそう時間はかからなかった。
誰かが俺の肩を揺らしていた。誰かはよく分からない。俺は目を擦りながら前を見た。
目の前にいたのは、さきほど助けた少女だった。すぐさま何かを英語で聞いてきた。
そう、英語でだ。
半分寝ぼけている俺は何も考えずに咄嗟に「はい!」と言った。
「Is it Japanese, or you’re just greeting? ‘Cause you look like a Japanese guy. (それは日本語? それともただの挨拶? 何かしら日本人に見えるから)」
この時、俺は初めて少女をしっかり見た。彼女の手には大きな松明がある。
その瞬間、時間が止まった気がした。
俺は、松明の光が照らし出す可愛い金髪少女に見惚れてしまった。
彼女の蒼い瞳に吸い込まれたような気すらした。
「Do you speak English? You look funny; like a guy who saw an alien and don’t know what to do.(英語話せるの? エイリアンを見て何をしていいか分からない人のように見えるけど)」
彼女は何かを聞いていたが、もちろん俺は集中して聞いていなかった為、理解できなかった。
「ーーえ?」
自然と口にした日本語に彼女はすぐに反応した。
「日本語大丈夫?」
彼女の困惑した顔で俺を見てきた。返事が中途半端すぎたからだろう。
「も、もちろん!」
俺は可愛い子の前で緊張していた。人間は遺伝子的にそうなるように設定されてるのかもしれない。
「そう。それは良かった。あんまり私の言ってることが理解できてなさそうな気がしたから」
俺はかぶりを振る。
もちろん真剣に英語を聞いていたらきっと理解できていた筈だ。
「そんなことはない。英語は自分の得意科目だから。けどーー」
次の言葉がすぐには出てこない。
本音は『君が可愛すぎて英語に集中できなかったんだよ!』だけれど、素直になれない自分がいる。
「けど?」
彼女はそう言い、俺を心配そうに見ている。
「さっきから頭痛が酷くて……それで会話に集中できなくて」
「え、それ本当に大丈夫?」
声色からも本気で心配している様子が伺えた。これ以上心配させると、俺の心が痛むからやめてほしい。
「うん。まぁ大丈夫やな」
「じゃあ、その傷は?」
彼女は、例のチャリ事件の傷についてのことを言っていた。他人からしたら、とても酷い怪我であるのは確か。
「君が思っているほどそんなに酷くないと思うよ」
「そんなことはないと思うけど……」
その後も彼女は心配してくれたが、何せ治療できる術はなく、そのまま放置するほかなかった。
助けを求めるにしても、まずはここから脱出するしかない。そのことは二人とも承知していた。
俺たちは脱出する術を探るべく、お互いこの場所について知っている事柄を述べ、そのついでに自己紹介もした。
彼女の名前はリリアで、日本に住む高校生とのこと。自分が知っているのはこの二つのみ。
それに付け加えるならば、今彼女が持っている松明は自分で作ったらしいので、手先が器用ということも分かった。
その他にも色々質問はしたが、なかなかプライベートなことは教えてくれず、詳細は不明のまま。この場所について知っていることもほとんどなかった。
ついでに言うと、トイレに潜むスライムの存在すら知らなかったらしい。そんな彼女だが、何かを隠している気がした。重要な何かを。