memory.Ⅱ
午後の授業もすべてこなし、僕はサークル棟にある部室の一つ、その扉の前に立っている。
『民俗学研究会』。
劣化したプラスチック製のドアプレートにはそう書かれている。
色褪せた文字を見上げ、僕はゆっくりと息を吸い込んだ。
この部屋へ入るには心の準備が必要なのだ。
なぜなら、中には恐らく既に先輩がいる。
僕が一日の授業を終えた頃には、大抵は先輩が先にこの部屋で待っている。
誰もいない部屋で先輩が一人で。
そこへ僕が入っていく。
単純に緊張するのだ。
この大学に入学してはや一カ月。
それだというのに、僕は先輩を前にすると借りてきた猫のようにかしこまってしまう。
友達と話すように親し気に、考えずとも自然に、いつも思い描くのだがどうしてもうまくいかない。
先輩が言葉を発し、静かに微笑むたびに胸が高鳴り思考が停止してしまう。
その時の僕と言ったらなんとも挙動不審で、先輩からしたらさぞ訳が分からないことだろう。
だからこうして気持ちを落ち着かせる必要があるのだ。
今日はきっとうまくいく。
自分に言い聞かせ、部室の扉に手をかける。
「お疲れ様です」
多くの大学生がそうするように、部屋に入るとともに挨拶をする。
「お疲れ様。今日は少し遅いのね」
先輩は部屋の中央に置かれた長机の、窓際の位置に座ってお茶を飲んでいた。
ただのパイプ椅子に座りお茶をすすっているだけの、その姿といったらなんと凛としていることだろう。
真っ直ぐに伸びた背筋に沿って長い黒髪が伝い、安物の湯呑みは美しく繊細な指に支えられてらしくない高級感を放っている。
僕はそれを視界の隅に置きつつ、扉に一番近い席へ腰を下ろす。
大きな長机に、先輩と僕は最も離れた距離で向かい合う形になる。
「火曜日は五限まで入れてるんですよ」
なんの面白みも無い答えを返す。
いや、日常会話なんてこんなものだろう。
大丈夫、考えすぎるほうが良くないのだ。
「そうだったわね」
先輩はそう言って立ち上がり、流しに向かった。
「さっきから入れてたから、ちょっと濃いけどいいかしら」
急須を持った先輩が振り返る。
窓から差し込む夕日が先輩の横顔を照らし、僕はその眩しさから咄嗟に机の上へ視線を落とした。
そこには、まるで精巧に作られた切り絵のような先輩の影が映し出されている。
「大丈夫です」
「ごめんね。今日は■■君が遅く来るってこと、すっかり忘れてたから」
青い水玉模様のマグカップへ、湯気の上がるお茶が注がれていく。
そのマグカップはかつての部員が置いて行ったものだが、今は僕が使わせてもらっている。
少し欠けているところを見ると、このサークルで代々受け継がれてきたのだろうということが分かる。
「ねぇ、わざわざそんな遠いところに座らないで、こっちに来ればいいじゃない」
先輩は自分の湯呑みの横へマグカップを置き、また元の席についた。
「えっ」
想定外の言葉に僕は固まってしまう。
やはり緊張していたせいか無意識にこの席に着いたのだが、確かに一番遠いこの位置に座るのは不自然だっただろうか。
しかし今までこんなことは言われなかったのに、どうして今日になって……。
「それじゃあ…」
やはり上手い返しも見つからず、僕はゆっくり立ち上がりマグカップの置かれた先輩の隣の席へ向かう。
駄目だ、一歩踏み出すたびに心臓が強く鼓動して、だんだん顔が熱くなる。
「い、いただきます」
僕は先輩の隣まで行って椅子に座ると、震える手でマグカップを掴んだ。
「どうぞ」
そう言った先輩は少し笑ったように見えたが、口元に寄せられた湯呑みに隠されはっきりとは確認できなかった。
僕もそれにならいお茶を飲む。
味なんか分かるはずもない。
とにかく平常心を保つためにお茶を胃に流し込む。
せっかく先輩が淹れてくれたというのに、なんてもったいないことをしているんだ僕は。
「今月の活動についてだけど」
「っ!」
まだ気持ちが落ち着いていないところへ、先輩が言葉を発した。
僕はむせそうになるのを我慢し、残ったお茶を一気に飲み込んでそれに応える。
「…はい」
「会報に書くネタが思いつかないのよね。心霊スポット巡りなんていうのも楽しそうだけど、それにしてもどこに行くかも決めないといけないし…」
「ネットで調べてみますか?」
「それもいいけど、過去の会報を漁ってみて使えそうなものを探してみるのはどうかしら。■■君にとっても、これまで民研がどんな活動をしてきたか知るいい機会だと思うし」
「過去の会報ですか…」
僕は部屋の本棚に目を向ける。
部室の本棚は、歴代の先輩達が残した民俗学研究会の活動を記した会報と、有名なオカルト雑誌で埋め尽くされている。
何冊あるかも分からないそのすべてに目を通すには一週間では足りないだろう。
「全部を読む必要はないわ。なにか気になったものがあれば教えて」
「分かりました」
僕はそれだけ言って本棚の前に立ち、目の前にある一冊の会報を手に取った。
『1996年民俗学研究会会報』
その適当なページを机に広げ、記事に目を走らせる。
この頃と言えば、確か第二次オカルトブームだかでUFOや超能力の話題で日本中が賑わっていた時代だったと思う。
僕も子供の頃はテレビでそのようなオカルト番組を見て、未知の存在に想いを馳せていたものだ。
今開いているページにも大学の近くの山で未確認飛行物体の目撃証言があったとかで、そのことについて記されている。
記事によると、当時の部員達が夏休みの大半を使って山にこもり、ひたすらに空を眺め調査を続けたとあるが、まったく有意義な休暇の過ごし方をしたものだ。
『未確認飛行物体の姿を捉えることは出来なかったが、この山に蔓延る噂の数々、そして現場を満たす妙な緊張感から、我々はその存在を信じざるを得ない』
記事はそのように締めくくられていた。
「特に何もなかった」ということか。
僕はページをめくり、そして次の記事を読むのだが、そのどれもが同じように当たり障りのない言葉で綴られていた。
というよりもお茶を濁しているという感じだ。
「……」
そりゃそうだよな。
オカルトってのは、目に見えないからこそなのだ。
もしその正体が詳細に記されていたとすれば、むしろ記事の信憑性を疑いたくなる。
形の無い物を追い求め、憶測に浸る。
結局はそうすることしかできないのがオカルトサークルの宿命なのかもしれない。
それにしても。
言ってしまえば、そのような虚しい活動を受け継いできた先代の部員たちは何を想ってこの民俗学研究会を存続させてきたのだろうか。
そして、たとえ一人になってもここを守ろうとした先輩は……。
僕は横目で先輩を見た。
会報の文字を追う先輩の瞳は忙しなく動き、時折立ち止まって、そしてまた動き出す。
その真剣な表情は、まるで難解な論文でも読み解いているようだ。
無垢とも言える輝きを放つその瞳は、一体どんな興味深い文章を見ているのだろうか。
恐ろしいほどに魅力的な光に、僕は目を逸らすことが出来ない。
「そういえば」
不意に呟いた先輩と視線がぶつかり、心臓が音を立てて跳ね上がる。
「は、はい」
「君の歓迎会をまだ開いてなかったわね。ごめんなさい、もう一カ月も経ったというのに」
「歓迎会、ですか」
「そう。ここでは新入部員が入ったら必ず開くことになってるの。ただの飲み会よ。特別なことは無いわ」
「飲み会って、僕まだ19なんでお酒とかは…」
そうは言ったが、問題はそこではない。
歓迎会を開いてくれるのは嬉しい。
嬉しいのだけど。
「あの、先輩と僕だけで、ですか」
「他に誰もいないじゃない。二人だけじゃ嫌? 確かに寂しい気もするけど」
「そんなことないです。でも……」
「でも?」
直接顔を見ることは出来ないが、それでも声色から先輩が困惑していることが分かる。
当然だ。
せっかく歓迎会を開いてくれるというのに、僕がこんな調子なんだから。
先輩にも言った通り、嫌ではないのだ。
しかし、普段から緊張しっぱなしの僕が、そのような場で果たして正気を保っていられるだろうか。
そんなの考えるまでもない。
こうしている間にも先輩は僕の返事を待っている。ここは正直に話すしかないのか。
「あの……」
「あのね、君がもし何かを遠慮しているなら、その必要はないのよ。私はただ、君のことを今よりもっと知りたいの。仲良くなりたいと思ってるの」
先輩は僕の顔を覗き込むように、とても丁寧にそう言った。
僕はその眼差しから今だけは逃げなかった。
心底恥ずかしかったからだ。
苦しそうに真剣に、まるで小さい子供に向かって諭すように僕を見る先輩の様子は、全て僕のせいだ。
過剰に身構える僕のせいで、先輩は心苦しさを感じている。
「…僕も先輩と同じです。でも、普段からこんな調子で…」
「言ったでしょ、遠慮しなくてもいいって。大丈夫よ、こんな変わったサークルに入ってきてくれたんだもの。少し話せばすぐに仲良くなれるわよ、私たち」
先輩が穏やかに微笑む。
その暖かさに、僕は緊張などどうでもよくなってしまった。
僕はこの笑顔に惹かれて民俗学研究会に来たのだ。
そしてこの人のことをもっと知りたいと思った。
僕にとって謎だらけの、心を乱されるほどに不思議な魅力に満ちた先輩のことを。
「嬉しいです。僕のために歓迎会を開いてくれるなんて」
「そんなにかしこまらないで。それと、私は思う存分飲むつもりだから、何かあったら頼んだわね」
「あまり飲み過ぎないで下さいよ」
僕が言うと、先輩がまた、今度は口に手を当てて軽やかに笑った。
それは紛れもなく、僕が見つけた先輩の本当の笑顔に違いなかった。




