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7

「この島には私たち以外に誰もいないのよね」

 隣を歩く詩織が呟いた。


 木漏れ日が彼女の頬を優しく撫でるように照らしている。

 僕はそれを盗み見るように横目で眺め、また視線を戻した。


「分からない。たまたま僕たちが目覚めた砂浜に人が住んでいないだけかもしれない。でも、どうしてここが島だって思ったの?」

 詩織はその言葉に、口に手を当て考え込んで、そして答えた。


「それもそうね。青い海に白い砂浜といったら、どこかの南の島を思い浮かべてしまうものだから、てっきりそうだと思っていたわ」

「なるほどね。ここって、こんな状況でなければ凄く素敵な場所だよね」

「ええ、まるで夢の中みたいに」

「夢だったりして。目が覚めたらお互いに元の生活に戻るんだ。青い海も、白い砂浜もない元の生活に」

「それは寝覚めが悪いわ。だって私はまだあなたが何者なのか分かっていないんだもの」

「案外、誰でもないかもしれないよ。夢ってそういうものだったりするから」

「冗談でしょ? これは夢なんかじゃないわ。それにあなたは私と深い係りがあったことだけは分かるの。記憶はなくてもね」


 僕は相変わらず森の奥だけを見ていたが、横から送られる詩織の視線には気が付いていた。

 彼女は恐らく、僕の反応を窺っている。

 でも僕には何も答えることは出来ないし、表情から何かを気取られるようなことはされたくない。


「あなたは、私が誰なのかを知っているのよね」

 詩織の言葉に、僕は思わず振り向きそうになった。

 それはなんとか耐えたのだが、目が泳いでしまったのを見られたかもしれない。

「……知らないよ」

「……そう。あなたって、嘘をつくと表情に出るのよね。そして、こういう時ってだいたい悲しそうな顔をしているわ。きっと、何かを隠さなくてはいけない理由があるのね」

「考えすぎだよ、僕は何も知らない。それが悲しいんだ」

「今はそういうことでいいわ」

 その会話を最後に、僕たちは無言で水場を目指した。


 少し後ろを歩く詩織の気配を確かめながら、彼女が何を想っているのかを想像する。

 頑なに真実を隠そうとする僕に苛立ちを感じているのか、それとも何も知らない彼女自身にもどかしさを感じているのか。


 出来ることなら全てを打ち明けたい。

 それが出来ないのは、詩織が言ったように理由があるからだ。

 本来ならそのことすら隠し、何も知らない風を装う必要があったのだが、やはり僕には演技の才能というのが微塵も備わっていないのだろう。

 これも彼女が言うように、自分でも嫌になるくらい感情が顔に現れてしまう。


『すぐ顔に出てしまうのね、君って』


 いつかの言葉を思い出し、僕は小さく笑った。

 まるで思い出をなぞっているようだ。

 唐突に出会い、同じような会話をしている。

 僕はこれから、あの日のように詩織と過ごしていけるのだろうか。


「大丈夫、すべて思い出すよ。いずれ、必ず……」

 僕は詩織に聞こえないように小さく呟く。

 




 やがて微かに聞こえる水の音が耳に伝わってきた。

「ここらへんだ。茂みに入るから、足元に気をつけて」

「ええ」

 詩織の短い返事を聞き、僕は道を逸れ茂みの中へ分け入った。


 腰まである高さの草をかき分け、進んだ先にはさっき見たのと同じ小川が流れていた。

 水は澄み、喉の乾いた僕たちを誘惑するように心地よい水音を響かせている。


「綺麗な水」

 詩織が指先で水に触れ、囁くように言った。

 流れは彼女の慈しむような指を潜り抜け、通り過ぎていく。


「見たところ澄んでて綺麗だけど、どうする。飲めるかな」

「どうかしら。ちょっと辿ってみましょうよ。水源ならまだ安心して飲めるかもしれないわ。駄目だったら一緒に苦しみましょう」

「男らしいね」

「ありがとう」

 詩織は微笑み、川に沿って歩き出した。


 一緒に苦しみましょう。

 彼女は冗談で言ったのかもしれないが、僕にはそれが嬉しかった。

 ここには僕と詩織の二人だけしかいない。

 苦しみも、喜びも、同じように二人に与えられる。

 二人だけに与えられるのだ。





 僕たちが進んだ先、そこには小さな泉があった。

 おそらくここが水源。

 静かに揺れる水面は木々の隙間から洩れる日の光を受けて眩しく光っている。

 風が吹くたびに光は形を変え、まるで僕たちをそこへ呼んでいるようだ。


 僕は水際まで行って、両手で泉の水を掬ってみた。

「すごくおいしそうだ。どうしよう、試しにまずは僕が…」

「おいしい…」

 横を見ると、すでに詩織が水を飲んでいるところだった。

 水を包む繊細な手、そこへ近付けられた薄く控えめな薄い唇、美しい曲線の顎先から落ちる滴。

 僕はまたしても彼女の何気ない仕草に目を奪われた。


「なによ驚いた顔をして。結局飲むことになるんだから、どちらが先かなんてどうでも良いじゃない」

 詩織はそう言ったが、僕は別に彼女の臆面の無さに言葉を失ったわけではない。

 むしろ、そんな潔さこそ『僕の知る彼女』であるのだ。

 涼し気な外見からは想像できない、彼女のそういった真っ直ぐさが僕は好きだった。

「…そうだね、苦しむ時は一緒だ。僕も飲むよ」

 僕はそう言って水を口に含み、それを飲み込んだ。


 水は喉を潤し、歩き疲れた体に気持ちの良い清涼感が広がる。

「おいしい…」

 僕はまた水を掬うと、さらに続けて口へ運ぶ。

 詩織はそんな僕を見て柔らかく笑い、同じように水を飲んだ。


 僕が感じる水の冷たさ、喉の渇きを癒す充足感。

 きっとそれを今、詩織も感じている。





「足まで浸かっちゃおうかしら」

 互いに飲み過ぎるほどに水を飲み一息ついたころ、詩織が言った。

 そしてサンダルを脱いで足先から探るように水に入ると、そのまま膝まで浸かる。

「気持ちいい。そこまで深くないのね。あなたも入ったら?」

 はしゃぐように声を弾ませる詩織を見て、僕も泉に入ることにした。


 スニーカーを脱いでチノパンをまくり上げ、ゆっくりと水へ入っていくと、火照った足に水の冷たさが心地よく伝わる。

「これは最高だ」

「ふふ、いつまでも浸かっていたいわね」

 ワンピースの裾をたくし上げ、詩織は泉の中央へ歩いていく。

 僕も足裏で水底の感触を確かめながらその後へ続いた。


「ん?」

 その時、僕の足に何か硬い物が当たった。

 手さぐりで水の底を確かめてそれを掴み、やけに懐かしい感触に鼓動が高鳴りつつも、僕は水から引き揚げられた物を見た。

「どうしたの?」

 詩織は急に黙り込んだ僕の様子に気付くと、振り返って心配そうに言った。


「……マグカップだ…」

 僕はどのように説明したら良いのか分からず、目の前に有るものの名称をそのまま口にした。

 しかしそれはただのマグカップではない。


 青い水玉模様のシンプルなデザインのそれは、僕にとってはとても思い出深い物だ。

 いや、それは僕だけじゃないはずだ。

 詩織にとっても、もとい、先輩にとっても。


 しかし、なぜここに。


 マグカップから滴る水が水面を揺らすように、小さな記憶の波が僕に押し寄せる。


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