memory.Ⅰ
春。
辺りは満開の薄紅色で始まりの季節を演出していた。
それはまるで僕を祝福しているかのように見えて、自然と躍る心を抑えきれない。
まさかこの大学に合格できるなんて思っていなかった。
こうして、この場所の空気を吸えることがなんだかとても幸せなことに感じる。
今日から、また新しく僕の人生は始まるのだ。
僕はもう一度、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
しかし感慨にふける僕とは正反対に周囲は騒がしい。
構内の桜並木では、それに沿うように各サークルが新入部員獲得のために忙しなく勧誘を行っている。
懸命にビラを配る者や楽器を鳴らす者、良く分からない着ぐるみを着ている者や酒瓶を片手に叫び声を上げている輩までいる。
大学生と言えども、高校を出たばかりの僕にとって、彼らは立派な大人に変わりはない。
それらがタガを外したように騒ぎ立てる様には、恐怖しか感じなかった。
彼らとなるべく目を合わせないように歩く中、髪を派手な金色に染めた先輩から『お前も一杯いっとけ』と言われた時、僕は耐えきれなくなってその場から逃げ出した。
一心不乱に駆け、辿り着いたのは人気のない裏庭だった。
丈の低い常緑樹に囲まれ、中央には小さな時計台とベンチだけがある。
一息つくと、僕はそのベンチに一人の女性が腰かけているのに気が付いた。
鍔の広いトンガリ帽をかぶり、目の前に机を一つ置きその場所を陣取っている。
顔は帽子の鍔に隠れて見えないが、どうやら手元の文庫本に目を向け、読書に集中しているようだ。
こんなところに一人、しかしベンチを独り占めしているその女性は、果たしてまともな人間なのか判断に困る。
それに、あの奇妙な帽子にもどんな意味があるのか予想もつかない。
恐らく普通とは違う人なのだろう。
僕はそう思い、先ほどと同様にその人となるべく目を合わせないように静かに通り抜けることにした。
ところで、変人の読む本とは一体どのような物なのだろうか。
一瞬よぎった危険な好奇心が僕の足を止めてしまう。
その時。
「こんにちは」
不意に女性が顔を上げ、そう言った。
しまった。
こうなってしまっては、もはや無視して立ち去ることなどできない。
僕はつまらぬことに気を取られたことに後悔を感じると共に、この状況をどう切り抜けようかと身構えた。
しかし、その女性に目を向けた瞬間、僕のそんな気持ちはかき消された。
綺麗な人だ。
そう思った。
長く滑らかな黒髪、大きく印象的な目、筋の取った鼻、薄い唇。
全てが設計されたように美しく、僕はたちまち目を奪われてしまった。
趣味の悪い帽子も、彼女の魅力を引き出すための装置のように見える。
「新入生?」
澄んだ声に、僕はハッと我に返る。
「そ、そうです」
うまく声を出すことが出来ない。
心臓の鼓動が体中に響き渡り、僕にこれ以上ない緊張を伝えている。
「そう。ねぇ、もうサークルには入った?」
「まだ、です」
「それは良かったわ。いきなりだけど、キミはオカルトに興味はあるかしら」
「え、いや、えーと…」
「あのね、私、オカルトサークルに所属しているの。『民俗学研究会』って名前なんだけど」
民俗学研究会?
ここに来る前、大学のホームページはチェックしたがそんなサークルは無かったはずだ。
最近できたサークルだろうか。
「先輩はみんな卒業して、今は私一人になってしまったの。それで、ここで勧誘をしているんだけど、良かったら入らない? このままだと廃部になってしまうの」
僕は机に貼り付けられた『民俗学研究会』と書かれた紙を見た。
なるほどこの女性がかぶっている帽子はせめてもの演出ということだろうか。
しかし廃部寸前と言ったが、大学のホームページに無い時点ですでに民俗学研究会は抹消されてしまったのではないだろうか。
とにかく今、この女性は心底困っていることは分かった。
「どうかしら」
「あの…」
「なに?」
僕は女性の優し気な微笑みから目を逸らし、不自然に時計台を見た。
「入ってみたいです。オカ、民俗学研究会に」
「本当?」
女性は立ち上がると、僕の目を見て言った。
突然視界に入り込んできたその眩しい瞳に、僕の鼓動がさらに速くなるのを感じた。
「嬉しいわ。早速だけど、部室に案内するわ。面白い本や胡散臭い資料がたくさんあるの。見せてあげる」
「あの、机とかはいいんですか」
「後でなんとかするわ」
そう言って、女性は喜びを表すように軽やかに歩き出した。
僕もそれに遅れないように後を付いて行く。
「私、二回生の一条詩織って言うの。君は?」
「僕は■■って言います」
「よろしくね。きっと楽しい活動になるわ」
「よろしくお願いします、先輩」
僕の言葉に振り返った先輩の笑顔はやっぱり綺麗で、僕はオカルトなんかに興味は無くて、むしろ苦手だとかそんなことは全部忘れてしまった。
一枚の桜の花びらが風に運ばれ、僕の前に舞い降りてきた。
僕はそれを手のひらでそっと受け止める。
「綺麗ね」
「はい。でも、桜なら表にたくさん咲いてますよ。どうしてこんな場所で勧誘を?」
「私、騒がしいのって苦手なの」
先輩は困ったような顔でそう言ってまた歩き出した。
僕は先輩が何を考えているのか分からなくて、だからもっと知りたいと思った。
それはまるで底の見えない深淵に自ら入り込むような、少しだけ恐怖を感じる抑えきれない探求心であった。
「僕もです」
そう言って先輩の背中を追いかける。
なんてことはない、ただの先輩と後輩の会話。
ただ、一目惚れなんて信じていなかった僕にとって、この出会いはオカルト的だと言いたいほどに運命を感じるものであったのだ。
これが先輩と僕の、全ての始まりだった。




