表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/30

3

 徐々に沈んでいく太陽は、今では水面を転がるように僕たちを照らしている。


 僕は顔を上げ、その景色を見た。

 でも僕の隣に座る女性は、詩織はそれを見てはいなかった。

 驚きと疑いが混ざり合った表情で僕に視線を送っている。


 それは彼女の顔を確認しなくとも、僕には分かる。

 季節の変化を肌でなんとなく感じるように、彼女の気持ちが自然と伝わってくるのだ。


「どうしてあなたが私の名前を知ってるんですか?」

 詩織が呟くような小さな声で言った。

 何も言わない僕の頬に太陽は照り続け、流れた涙を乾かしていく。


「やっぱり、私と会ったことがあるのね?」

 その問いに、すぐに答えることが出来なかった。


 それは僕を見る詩織が美しかったからなんて、そんな理由ではない。

 僕の心は、一つの枷によって縛られている。

 その枷を外してしまえば、ここにはいられなくなる。


 目の前に広がる蜃気楼と同じく、縛られた僕の心は揺れた。

「……僕には何も答えることは出来ない。でも知ってるんだ。信じてもらえないかもしれないけど」

 詩織は時折、目を泳がせながら僕を見続けた。

 恐らく理解が追いつかず、言葉を失って失っているのだ。


 僕だって、今この瞬間によく知らない人から自分の名前を告げられても、どう反応したらいいのか分からない。

 そもそも、それが本当に自分の名前かどうかも疑わしく思うだろう。


 僕は顔を横に向け、詩織に微笑んだ。

「いや、もしかしたら、ただの人違いかもしれない。僕こそ初対面なのに気持ちの悪いことを言ってごめん。多分まだ頭が混乱しているんだ。似たような人に会ったことがあるのかも」

「……そう…」

 詩織は煮え切らない様子ではあったけれど、僕の言葉に答えてくれた。


 それでいい。

 ここにいるという、僕に残された唯一の事実。

 それを失うところだった。

 詩織をどんなに困らせても、たとえ悲しい想いをさせてもきっと『彼女』なら分かってくれるはずだ。


 僕は目を背けるように、沈みゆく太陽を見た。

 橙色の光はもう少しで海の中に消えてしまいそうだ。

 この場所にも一日の終わりがあることを知って、ちょっとだけ安心した。



「あなたがそう呼びたいのなら、それでいいわ」

 詩織はそう言った。

 僕はまた詩織を見る。


 終わりゆく光に照らされた詩織の顔は、何かを許すような、なんだか晴れ晴れとした表情をしていた。

 もしかしたら僕がそう思いたかっただけなのかもしれない。

 しかし詩織は優しく見つめ、僕はそこから目を離せなかった。


「その名前を聞くと、不思議と落ち着くんです。あなたの勘違いなんかじゃなく、私は本当に詩織という名前だったのかも」

「気を遣わなくてもいいよ」

「そんなんじゃないわ。本当にそんな気がするの。それに、呼び名が無いと不便よ」

「…そうだね」


 僕は言って海へと視線を戻した。

 すでに日は沈み、光の残渣が遠くの空をぼんやりと染めているだけだった。

 それを詩織も見つめている。


 気が付けば二人の目には同じものが映っていた。


 やがて全ての光が消え失せ、この場所にも夜がやって来た。

 気の早い一番星が空に輝き、海は静かに揺れている。


「あなたの名前も、見つかるといいわね」

 薄暗闇に詩織の言葉が響いた。


 僕の名前。

 それを見つけるのは僕ではない。

 僕にはそれを見つけることはできない。

 この世界に僕の名前はない。

 それは、失われてしまったあなたの世界に存在するからだ。

 僕にはそれを、あなたに気付かせることも出来ない。


「…うん」

「ごめんなさい、馴れ馴れしかったですね」

「そんなことないよ」


 はっきりと見えなくても、僕には詩織が心底申し訳なさそうに目を伏せるのが分かった。

 だから僕はそう言った。

 そんなことで謝る必要はないのだ。


「僕はそのままでいいと思うよ」

 そうあるべきだと思う。

 それがあなただから。



 暗闇は完全に僕達を包み、夜空には穴が開いたように欠けた月が浮かんでいる。

 僕と詩織はお互いにその存在を確かめることは出来なかったが、不安だとは思わなかった。

 隣に詩織は居て、それを感じることが出来るからだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ