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徐々に沈んでいく太陽は、今では水面を転がるように僕たちを照らしている。
僕は顔を上げ、その景色を見た。
でも僕の隣に座る女性は、詩織はそれを見てはいなかった。
驚きと疑いが混ざり合った表情で僕に視線を送っている。
それは彼女の顔を確認しなくとも、僕には分かる。
季節の変化を肌でなんとなく感じるように、彼女の気持ちが自然と伝わってくるのだ。
「どうしてあなたが私の名前を知ってるんですか?」
詩織が呟くような小さな声で言った。
何も言わない僕の頬に太陽は照り続け、流れた涙を乾かしていく。
「やっぱり、私と会ったことがあるのね?」
その問いに、すぐに答えることが出来なかった。
それは僕を見る詩織が美しかったからなんて、そんな理由ではない。
僕の心は、一つの枷によって縛られている。
その枷を外してしまえば、ここにはいられなくなる。
目の前に広がる蜃気楼と同じく、縛られた僕の心は揺れた。
「……僕には何も答えることは出来ない。でも知ってるんだ。信じてもらえないかもしれないけど」
詩織は時折、目を泳がせながら僕を見続けた。
恐らく理解が追いつかず、言葉を失って失っているのだ。
僕だって、今この瞬間によく知らない人から自分の名前を告げられても、どう反応したらいいのか分からない。
そもそも、それが本当に自分の名前かどうかも疑わしく思うだろう。
僕は顔を横に向け、詩織に微笑んだ。
「いや、もしかしたら、ただの人違いかもしれない。僕こそ初対面なのに気持ちの悪いことを言ってごめん。多分まだ頭が混乱しているんだ。似たような人に会ったことがあるのかも」
「……そう…」
詩織は煮え切らない様子ではあったけれど、僕の言葉に答えてくれた。
それでいい。
ここにいるという、僕に残された唯一の事実。
それを失うところだった。
詩織をどんなに困らせても、たとえ悲しい想いをさせてもきっと『彼女』なら分かってくれるはずだ。
僕は目を背けるように、沈みゆく太陽を見た。
橙色の光はもう少しで海の中に消えてしまいそうだ。
この場所にも一日の終わりがあることを知って、ちょっとだけ安心した。
「あなたがそう呼びたいのなら、それでいいわ」
詩織はそう言った。
僕はまた詩織を見る。
終わりゆく光に照らされた詩織の顔は、何かを許すような、なんだか晴れ晴れとした表情をしていた。
もしかしたら僕がそう思いたかっただけなのかもしれない。
しかし詩織は優しく見つめ、僕はそこから目を離せなかった。
「その名前を聞くと、不思議と落ち着くんです。あなたの勘違いなんかじゃなく、私は本当に詩織という名前だったのかも」
「気を遣わなくてもいいよ」
「そんなんじゃないわ。本当にそんな気がするの。それに、呼び名が無いと不便よ」
「…そうだね」
僕は言って海へと視線を戻した。
すでに日は沈み、光の残渣が遠くの空をぼんやりと染めているだけだった。
それを詩織も見つめている。
気が付けば二人の目には同じものが映っていた。
やがて全ての光が消え失せ、この場所にも夜がやって来た。
気の早い一番星が空に輝き、海は静かに揺れている。
「あなたの名前も、見つかるといいわね」
薄暗闇に詩織の言葉が響いた。
僕の名前。
それを見つけるのは僕ではない。
僕にはそれを見つけることはできない。
この世界に僕の名前はない。
それは、失われてしまったあなたの世界に存在するからだ。
僕にはそれを、あなたに気付かせることも出来ない。
「…うん」
「ごめんなさい、馴れ馴れしかったですね」
「そんなことないよ」
はっきりと見えなくても、僕には詩織が心底申し訳なさそうに目を伏せるのが分かった。
だから僕はそう言った。
そんなことで謝る必要はないのだ。
「僕はそのままでいいと思うよ」
そうあるべきだと思う。
それがあなただから。
暗闇は完全に僕達を包み、夜空には穴が開いたように欠けた月が浮かんでいる。
僕と詩織はお互いにその存在を確かめることは出来なかったが、不安だとは思わなかった。
隣に詩織は居て、それを感じることが出来るからだ。




