memory.S
「一条詩織よ、目を覚ましなさい」
優しく頭を撫でられるような安らぎに満ちた声に、私は目を開いた。
体を起こして辺りを見渡すと、そこは何もない真っ白な場所だった。
純白の暗闇とでも表現すればいいのだろうか、とにかくここには私以外のどんなものも存在していなかった。
私はすぐにこの場所が今までいた世界ではないことを理解する。
それより、先ほど私を呼んだのは一体誰なのだろうか。
あの春の陽ざしのように穏やかな声の主は。
「誰かいるんですか?」
見渡す限りの白の中へ、私は呼びかけた。
あの声は気のせいでもなければ、夢を見ていたわけでも無いことは知っている。
だって私はもう夢を見るなんてことはないのだから。
「落ち着いているな。ここがどこなのか見当はつくか?」
声は私に問いかけた。
やはり誰かいるのだ。
ここがどこなのかまでは分からないが、私は想像できうる限りのことを答えることにした。
「見たところ地獄という感じでもないし、ここは天国なのですか? それにしては何もないけど…」
「そのようなものだ。少しだけ違うがな」
「それでは、あなたは神様なのですね」
「それも少し違うが、その認識で構わないよ。しかし、いきなりこんな場所に招かれて驚いた様子も見せないとはな」
『神様』はそう言ったのだが、私はもちろん微塵も驚かなかったわけではない。
殺風景どころではない完全な無の空間など見たことがない。
ただ、目を覚ましてから思ったのは、『死後の世界とはこういうものなのか』ということだった。
そこまでの余裕、もとい能天気さを持つことが出来るのも理由がある。
「私は今の状況を理解しています。私は交通事故で死んでしまった。あのどうしようもない絶望的な瞬間、はっきりと分かったの。あ、私はここまでなのね、って」
「そうか。ならばもう諦めはついているということだな? ひとつの未練も残さず、次の世界へ生まれ変わる心の準備は出来ているのだな?」
「次の世界なんてものがあるのね」
「ここはいくつもの世界へと繋がる始まりの場所だ。どれも私が創った世界だ。お前にそのつもりがあるなら、安心して生まれ変わると良い」
「そう…、あなたはやっぱり神様なのですね」
「で、なにも問題がなければこのまま送り出してやるが」
『神様』の言葉には、どこか答えを急いでいるような節がある気がした。
だから私は一旦冷静になって考えてみることにしたのだ。
なにも問題がなければ…か。
問題はない。
しかし一つの未練も無いなんて、そんなことはある筈もない。
もっとこうしておけば良かったとか、あれをしてみたかったとか、誰もが死の瞬間に後悔をするはずだ。
しかし同じように、誰もが抗えない魂のルールの前では、なんだかんだ良い人生だったと納得するしかないのだろう。
私だけが例外なんてことはありえない。
でも。
それでも、私にはどうしても諦められないことがある。
大きな一つの心残り。
死という終わりの前ではあまりに幼稚で我儘な望み。
私の手は、まるで懺悔するように固く組まれていた。
そして吐き出すように『神様』へ告白する。
「未練なら、あります。せめて最後に、大切な人にお別れが言いたかった。大好きなあの人に。いえ、もっと一緒にいたかった。約束したんだもの、何があっても一緒って。こんなの、あまりに急すぎるわ…」
私は溢れる涙を堪えるために言葉を切った。
いくら駄々をこねたって何も変わらないと知っているからだ。
ならばあとは委ねるしかない。
せめて次の世界でも彼のことを忘れてしまわないよう、それだけを願って。
「ごめんなさい、どうしようもないってことは分かっています。ただ、それだけが心残りで。ありがとう、あなたが創った世界はとても素晴らしかったわ」
「…良く分かった」
私の言葉を受け取った『神様』はそう言った。
きっと私が言おうとしていたことなど最初から分かっていたのだろう。
それでも聞いてくれたのは彼女の優しさだ。
そうしていくつもの魂を次の世界へ送り出してきたのだ。
私も行こう。
彼との思い出と共に。
「その言葉を聞くことが出来て良かった。事前に確認しておく必要があったのでな。まずは及第だ」
「え…?」
「実はな、私の勘違いでなければ、お前の言う大切な人というのがお前に会いに来ているのだ」
…会いに来ている?
彼が?
どうやって?
何かの間違いではないのか。
いやしかし、『神様』が創った世界のことだ。
彼女に間違いなどある筈もない。
「ここは死後の世界なのよ。どうして彼が…」
「自ら命を絶ったのだ。お前に会う、そのためだけにな」
「……なんてことを」
「それがお前たちが交わした約束なのだろう? たとえ死に分かたれようとも共にいると、そう約束したのではないか?」
「したわ。でも…」
彼が死んだ…。
私がいなくなったことで、彼は壊れてしまったのだろうか。
それとも、本当に私に会えるとでも思っていたのか。
だとしたら、私は彼になんてことを約束させてしまったのだろう。
彼の中の私は、人生そのものを捧げるほどの存在だったなんて。
「分からないわよ、いつも何も言ってくれないんだもの…」
「それで、お前はどうする?」
「…彼の気持ちに応えたいわ。お願い、彼に会わせて。お願い…」
私は再び手を組み強く願った。
彼の覚悟を無駄にするなんて絶対にしたくない。
私は謝らなくてはいけない。
そして伝えたい。
約束を守ってくれたことに対する、感謝を。
「すでに準備は出来ているのだ。奴は今、私が新しく創った世界の中にいる。お前もそこへ向かえ」
「会わせてくれるのね」
「ただし条件がある」
物々しく『神様』が言う。
しかしどんな条件だろうと構わない。
たとえそれがどんなに過酷でも、私は彼に会いたい。
会わなくてはならない。
「奴が自ら命を絶ったのは、もちろんお前との約束を守るためだ。お前のいない世界など意味がないと言ってな。それこそ二人が作り上げた愛の形だと。しかしな、私にはそれが分からないのだ。二人だけの愛とは何か? 命を捨ててまで守るほどの、そんな大切なものなんてあるのか? 奴の心は本当なのか?」
「彼は本気よ。言うまでもなく私もね」
「ならば証明するのだ。奴は新しい世界に送られてくるお前のことを、全ての記憶を失ったものと思っている。私は奴に、全てをお前に思い出させることが出来れば、お前たちの愛は本物だと認めてやると言った。しかし本当はそうではないのだ。私は奴からお前との思い出の断片と、そして最も大事な約束を奪った」
「…約束を取り戻すのは私の方、ということなのね」
「そうだ。だがお前が奴に手がかりを与えることは許さない。つまり、お前は思い出の少しでも奴に話すことは出来ない。あくまで奴自身の力で記憶を取り戻すのだ」
「分かったわ」
「奴にも同じ条件を提示した。どういう意味か分かるな?」
「ええ。互いが初めて会う、言わば他人のように接することを強いられる訳ね。とても苦しい条件だけど、理解したわ」
「呑み込みが早くて助かる。躊躇は無いのだな」
彼が待っているのだ。
躊躇などしている暇はない。
約束を守るためにここまで来たにも関わらず、その目的さえ奪われてしまった彼。
早く行かなくては。
彼だけが苦しむなんて、そんなこと許さない。
「一つ聞いてもいいかしら」
「なんだ?」
「もし彼が全てを思い出すことが出来たら、そのあと私達はどうなるのかしら」
「共に同じ世界へ送ってやることを約束しよう。二人だけの隔絶された世界ではなく、もっと大きな世界に。それが私と奴との約束だからな」
彼が『神様』とそんな取り決めをしていたなんて。
もう一度会えるだけでなく、また以前のように彼と一緒に過ごせるかもしれない。
熱く込み上げる感情に、胸が張り裂けそうだ。
「ありがとう、頑張るわ。彼の記憶を取り戻して、あなたに人を愛するということを教えてあげる。そしてあなたの感じる孤独の理由も明かしてみせるわ」
「私が孤独を感じている?」
「あなたは『神様』だけど、分からないことが多いのね」
「生意気なことを言う。もう話すことはない、その扉を開けて次の世界へ向かうのだ」
いつの間にか、私の前には一つの扉があった。
木製の、実にシンプルなデザインの扉だ。
この先に、彼はいる。
私はやはり迷いなど感じることなくドアノブに手を掛けた。
「いいか、もし私が課したルールを破れば、お前たちはそれぞれ永遠に出会うことのない遠い世界へ送られる。そのことだけは忘れるな」
「分かったわ。あなたが知りたがっていることは、私達にこんなことをさせるほどの事だってことも」
「……早く行くがいい」
「ふふっ」
どこにいるかも知れない『神様』に微笑み、私はドアを開けた。
溢れ出した光に目を細めつつも、一歩ずつ前へ進んでいく。
一歩ずつ、確実に。
誰よりも大好きな、彼の元へ。




