memory.Ⅸ-①
瞼に光を感じ、僕は目を覚ました。
目を覚ました?
僕は確か、先輩との思い出のあの山で自らの命を終わらせたはずだ。
まさか失敗してしまったのだろうか。
目を開くまでの数瞬そんなことを考えていたのだが、視界に捉えた光景がたちまち僕の思考を掻き消した。
そこには何もなかった。
殺風景、というような意味ではない。
ここには物体と呼べるものは一切存在せず、文字通り何もない真っ白な空間が広がっていた。
際限のない眩い純白の中で、僕だけがまるで場違いなように点としてそこにいた。
これは夢なのか。
現実での僕は今頃、うまく死にきれずに病室で昏睡でもしている最中なのだろうか。
しかしここまで何もない夢というのも珍しい。
それなら一体いつまでこんな場所に居なくてはならないのだろう。
そう思いながら、僕はやっと立ち上がりもう一度あたりを見回した。
やはりこの場所には何もない。
影もなく、果てもなく、方向の認識も出来ない。
純粋な孤独に、僕は急に胸を締め付けられるような不安を覚えた。
その時。
「落ち着かない様子だな。まあ無理もないか」
それは唐突に聞こえてきた。
包み込まれるように優しく、身を委ねてしまいたくなるほど安らぎに満ちた声。
音として耳に届いたというよりは、頭の中に響いてくるような不思議な感覚だ。
どこから聞こえて来たかは分からないが、確かに女性の声が僕に呼びかけてきた。
「もと居た世界に帰りたいか? ここには何も無いものな。しかしそれは出来ないよ。お前が自らあの世界を捨てたのだから」
再び聞こえてきた声は、小さな子供を諭すような若干の厳しさがあったのだが、やはりそこには優しさが満ちていた。
僕は何か答えないといけないと思い口を開くのだが、頭が働かずにうまく言葉が出てこない。
それでもなんとか声を振り絞り、頭の中の言葉を吐き出した。
「あなたは誰ですか? ここはどこなんですか?」
すると、春風のように穏やかな笑い声のあと、それは僕の問いに答えた。
「私が誰かということをお前に説明するのは難しいな。私は本来お前たちが認識出来るような存在ではないから。しかしまあ、お前たちというのは何かしらの枠に当てはまらないものを恐れるものだからな。そうだな、あまり好きな言葉ではないが、私のことはお前たちの言う神のようなものと思ってくれて良い。お前が居た世界を創ったのは私だからな」
「創った? 言っている意味が良く分からないのですが…。 あなたは今、どこから僕に話しかけているのですか?」
次々と浮かんでくる疑問を、僕はとにかく頭上へ向かって叫んだ。
神様なんてものは信じていなかったが、僕が持っている勝手なイメージから、なんとなく見下ろされているような気がしたからだ。
「全てをお前に説明するのはそれこそ難しい。私はこの空間で、様々な世界を創るという使命を課せられ、それに従っている。お前には私のことを見ることが出来ないかもしれないが、私にはお前の姿がはっきりと見えているよ。見えているというよりも、感じることが出来るというほうが正しいか。とにかく、私とお前とでは存在している次元が違うんだよ。だから、私が全てを説明したとしても、きっとお前は理解できないだろう」
そう言った『神様』の言葉は、決して僕を見下しているような意味ではなく、弱者を労わるような慈愛に溢れていた。
それでも、僕は状況を飲み込めずにいた。
まるで現実味がない。
そもそも、これが現実ではないことは明らかだ。
しかし夢にしては意識がはっきりとし過ぎている。
僕の頭の中はさらに混乱してしまった。
「これは、夢では、ないのですか」
「今さらそれを聞くか。なら言うより見せた方が早いな。少し刺激が強いかもしれないが教えてやろう。お前がどんな状況にあるのかをな」
瞬間、脳裏に浮かんだのは、僕が住んでいた街の夜景。
先輩と過ごした山の麓から臨む景色、僕が最後に見た光景だ。
背後には大きく伸びた一本の木。
その枝から垂れ下がる一本のロープ。
ロープの先にぶら下がっているのは、僕だ。
風が吹くたびにゆっくりと向きを変えては、またゆっくりと元に戻って行く。
暗闇の中で不気味に揺れる体に、僕は今まで感じたことのない不快感を覚えた。
これが僕の最期か。
山の中で孤独に、人知れず人生を終えたのだ。
魂を失った僕は、これ以上ない位に悲しく寂しかった。
この凍えるような気持ちは、僕が夢の中にいるのではないかという疑念を晴らすには十分すぎる。
「分かったか? それが今の、かつてお前だったものの姿だ。やがて夜が明け、死という事実で認識されることだろう」
「…ええ、良く分かりました。まだ少しだけ頭が追いつきませんが、疑いようもなくあれは僕だ。僕は本当に死んでしまった。これも夢なんかじゃない。…それで、これが本当なら僕はこれからどうなるのでしょうか」
まだまとわりつく気持ち悪さを抱えながら僕は尋ねた。
分からないことはまだたくさんあるが、ここは夢ではなく、僕は確かに死んでしまって、『神様』と呼ぶべき存在と対峙している、そのことだけは確かなようだ。
「思ったより理解が早いな。そうだな、少々遅くなったが、そのことについて言わねばなるまい」
そう言うと、『神様』は勿体ぶるように次の言葉まで間を空けるのだった。
僕はそのあいだ、ただ息を呑んで待つ事しかできなかった。
こんな異常な空間にいるのだから、どんなことを言われるのか想像もつかない。
「お前、どうして自ら死を選んだ」
投げかけられたのは実にシンプルな質問だった。
逆に何か裏でもあるのではないかと思えるほどに。
いや、きっとあるのだろう。
だがこちらの答えもシンプルだ。
僕は裏も表も無い心の内を告げた。
「先輩がいなくなってしまったからです。先輩のいない世界なんて、生きていても意味がない。それで死を選びました。少しでも先輩に近づけると思って」
「…私が創った世界に意味がないと?」
柔らかな声はそのままに、『神様』は明らかな怒りの感情を込めて僕に尋ねた。
まるで今の僕は巨大な手のひらの上にいて、その手に生殺与奪を委ねられているような気分だ。
言葉を選び損なえば、たちまち握りつぶされてしまう。
すでに死んでしまったというのに、そんな本能的な恐怖が体を強張らせる。
しかし、やはり僕は偽ることはしたくなかった。
ここで保身に走り『神様』の機嫌を取るようなことを言うのは、つまりは僕自身の先輩に対する気持ち、そして先輩を裏切ることになる。
そんなことは死んでもしたくはない。
僕は無意識に握られた拳に力を込め、虚空に向かって答えた。
「はい、先輩のいない世界なんて僕には空虚で耐えられなかった。だから、あなたの創った世界に、意味なんて見出せませんでした」
「…そうか」
僕はてっきり怒りを買って雷でも落とされるのではないかと思っていた。
『神様』はしばらく黙り込んでしまった。
何もない空間で、無音が響き続ける。
もしや『神様』は僕を置いてどこかへ行ってしまったのではないかと疑い始めた時、
「それは、お前が先輩を、『一条詩織』という者のことを、その、好きだったからだな?」
妙にたどたどしいその声は、なにか恥じらいのようなものを感じさせた。
先ほどまでとは違う様子に、僕は少しだけ戸惑う。
「あなたの世界の事です、知らないわけではないでしょう。僕には先輩しかいなかった。誰よりも彼女が好きだったんです。彼女のためなら、それこそ命を投げ出してもいい程に」
「それはお前の一方的な感情ではないのか?」
「違います。彼女がどれほど僕のことが好きかは分かりません。でも、僕たちはお互いに誓ったんです。何があっても一緒だって」
「どうして違うなどと言える? どんなに想いあっていても、所詮は他人同士だろう。己以外の意思など、分かるはずもないだろうに。そのうえお前らは誓いも叶わず死に別れてしまっただろう」
「だからこうして先輩に会いに来たんじゃないですか。あの、さっきからあなたが何を言いたいのか、僕には分からないのですが」
「……」
つい苛立ちを表してしまった僕の言葉に、『神様』はまた黙ってしまった。
一体、どんな目的があってこんな回りくどい質問をしてくるのだろうか。
もしかしたら、僕の返答から今後の処遇を検討している最中なのかもしれない。
それならば僕に出来ることはない。
ただ従うだけだ。
「…分からないのだ」
「え?」
聞き取れなかったわけではない。
『神様』の言う分からないという言葉が、一体なにを指しているのか、そもそも、恐らく僕より遥かに高い次元にいる存在が、分からないなんてことを口にするなんて思ってもいなかったのだ。
「分からないって、なにが…」
「誰かを想うことというのは、お前にとってそんなに大きなことなのか? 私が創った素晴らしい世界を捨てても余りあるほどの、そんな幸福を、お前は知っているのか?」
「分からないんですか? あなただって…」
そこで僕はようやく理解した。
決して回りくどい質問などされていなかった。
単純に、知らないだけに過ぎなかったのだ。
大切な誰かを愛することなんて。
どれくらい遠い昔からこの場所に居たのかは想像もつかない。
何もない空間で、世界を創ることしか許されていない『神様』。
ずっと孤独な『彼女』……。
僕がこの場所にいる理由が、なんとなく理解できた気がした。
「なあ、教えてくれ。互いに想い合うというのは、そんなに素晴らしいことなのか?」
「僕がいくら説明したって、きっとあなたには分からないと思います。先輩と僕の幸せは、二人だけの形を持っているから。それは他の人も同じです。あなたが本当に人を愛するということを知りたいなら、あなただけの愛の形を見つけるほかないんです」
「…それでも知りたいんだ。私にとって、お前はちっぽけな存在だ。私が創り出した世界に生まれた些細な存在に過ぎない。それなのに、なぜお前に分かって、私に分からないことがあるというのだ。愛というのは、誰もが知り得るものではないのか」
僕はその問いに答えられなかった。
なぜなら、『彼女』の声がとても寂しそうに聞こえたからだ。
『彼女』が創った世界に生まれた僕だからこそ、人を愛するということを知った。
ただその世界を傍観しているだけの存在には、どれだけ時間を掛けても知ることは出来ないだろう。
だから、「あなたには無理だ」なんてそんなこと、とても可哀想で、寂しげな『彼女』に告げるのは残酷なことだった。
「一条詩織に会わせてやる」
聞き間違いかと思った。
だが『彼女』は確かに、僕の不意を突いてそう言ったのだ。




