memory.Ⅷ-②
一体どれくらいの間、僕はぼうっとしていたのだろう。
とっくに日は暮れて、暗い部屋の中には窓から月明かりが差し込んでいる。
それは不思議なほどに眩くて、誘われるように光のもとへ向かった僕はまだ冴え切らない頭のままで窓を開け放った。
同時に夜の爽やかな風が吹き込み、どこか淀んでいた部屋の空気を冷やす。
風を追うように振り返った僕の視界に、机の上に置かれた湯呑みとマグカップが映った。
「お茶、冷めちゃいましたね」
再び外へ目を向けて、空を見上げて呟いた。
赤熱した鉄球のような月だけが、暗い静寂に紛れる僕を見つけている。
少しだけ攻撃的な光を僕も見つめ返した。
やがてその輪郭が歪んでいく時、自分が涙を流していることにやっと気が付いた。
「…僕は至って正常だよ」
とうにこの部屋から立ち去ってしまった友人へ、僕は今さら返事をした。
そう、僕はちゃんと分かっているんだ。
毎日この部室へ来て、お茶を淹れて、朝から晩まで待っていたところで先輩はやってこない。
話をしたくても、顔が見たいと思っても、それは絶対に叶わないんだ。
だって先輩は…、
「死んじゃったんだから」
言葉にした途端、涙は勢いを増して流れ出す。
先輩の死を受け入れられずに、これまで必死に抑え込んでいた涙が今になって溢れてくる。
次々に込み上げる熱さが、信じたくない現実を僕に付きつけ、僕はさらに泣いた。
今まで過ごしてきた先輩との時間、思い出。
あらゆる失いたくないものが、涙を流すたびに急速に遠のいていくような喪失感。
抗ってみても、それでも止めることが出来ない。
なぜなら、それらは本当に失われてしまったから。
そして僕はこの時、遂に受け入れてしまった。
先輩と僕だけの時間は、先輩の死という形で収束してしまった事実。
全部終わってしまったのだ。
全部。
先輩は僕の全てだった。
彼女が嬉しいとき、悲しいとき、怒ったとき、僕も一緒になって喜び、悲しんで、怒った。
今はもうそのどれも残されていない。
空っぽになってしまった。
さっきまで爛々と輝いていた月も、今では虚ろな光に見える。
それでも消え去ることのない眩さは、涙を湛えた僕の目に一筋の光を届けたのだろうか、もしくは本当に流星だったのかもしれない。
『約束して』
蘇って来たのは、十二月のあの日。
大学からほど近い山で先輩と僕は初めて一緒に星を眺め、そして二度目の冬、僕たちはとても大切な約束をしたのだ。
なぜ忘れてしまっていたのだろう。
大好きな先輩と交わした、たった一つの約束。
それを守らなくては。
僕は目頭を拭うと、窓も閉めずに部室を飛び出した。
春になったとはいってもまだまだ肌寒い。
ちょっとだけ強く吹く風が木々を揺らし、周囲に人はいないのにざわざわと騒がしい。
僕は今、先輩との思い出の場所、かつて彼女と過ごした山の麓にいる。
道路は整備されているものの、自転車でここまで来るのは運動不足の僕には堪えた。
あの時は先輩の車で来たものな。
眼下にはまばらに明かりが灯った街の風景が広がっている。もうすでに真夜中なのだ。
僕はその田舎の味気ない景色から、夜空へと視線を移した。
まるでぶちまけたような星たちの光が輝いている。
先輩とここへ来たあの日も、今日のような美しい星空だった。
やはりこの場所に来てよかった。
僕は一度だけ大きく息をしてから、背後の茂みへと向かった。
そして、その中でも一際立派な一本の木の前に立ち、背負っていたリュックを下ろす。
中に入っている物は一つだけ。
ナイロン製の、白いロープ。
サークル棟にある、半ば物置と化した空き部屋から拝借したものだ。
とは言っても返しに行く予定はない。
だからこれは無断で頂戴したことになる。
けれど、もともと誰の物かも分からないし、今はそんなことはどうでも良い。
やらなくてはいけないことがある。
僕はそのロープを持って、頭上に伸びた丈夫な枝を目指して木を登り始めた。
木登りなんてするのはいつ以来だろうか。もしかしたらこれが初めてかもしれない。
暗闇の中での作業であるため、全てが手探りだ。
でも難しいことは一つもない。
この一本のロープを枝にしっかりと括りつければいいのだ。
重い物を吊り下げても解けないように、きつく、しっかりと。
少しだけ時間はかかったが、ロープは今、木の枝から垂れ下がり僕の目の前で揺れている。
もう少しだ。もう少しで準備が整う。
僕はまた一息つき、先ほど星を見上げた場所まで戻ってから自転車を引いて再びロープの下まで戻ってきた。
スタンドを立て、慎重に荷台の上に立つ。
大丈夫だ、上手くいっている。
バランスは悪いものの、ロープを掴んでいれば問題ない。
僕はその状態で最後の作業に取り掛かる。
垂れ下がったロープの先端に輪を作るのだ。
やり方はネットで調べてきたから知っている。
長さを調整し、輪がちょうど顔の前に来るようにしっかりと結ぶ。
やがて、大した手間をかけることなく全ての準備が整った。
約束を果たすための、先輩に会いに行くための、準備が。
僕は目の前の輪を両手でしっかりと握りしめた。
向こう側に見えるのは、冬の日の先輩と僕だ。
身を寄せ合い、寒さに耐えている。
そして約束を交わすのだ。
二人だけの世界で、二人だけの約束を。
「約束して。君が初めて私に好きだと言ってくれた今日だから、いいでしょ?」
「わざわざそんなこと……」
「お願い」
「…分かりましたよ。僕は、これからも先輩と一緒です。どんなことがあっても、僕は先輩の隣にいます。なんだか恥ずかしいですね」
「……嬉しい。私も約束するわ。どんなことがあっても、何が起ころうとも、私は君のそばにいる。たとえ死が二人を分かつとも、絶対にね」
「分かつとも…ですか? 分かつまで、ならその…、結婚式とかで使われますが…」
「そう。たとえ死が二人を分かつとも、私はまた君と出会いたいの。君が好きだから」
「なんだか仰々しいですが」
「嫌かしら」
「嬉しいですよ。ただ少し照れくさくて。そうですね、僕も同じです。たとえ途方もない別れが訪れても、僕は先輩に会いに行きますよ」
「待ってる、なんて言わないわ。私も君を見つけ出す。必ず会いに行くわ」
恥ずかしそうに、しかしとても力強い眼差しで、先輩は僕に告げた。
そして僕はそれに応えた。
二人は何があっても一緒だ。
たとえ死が僕らを分かつとも。
だから会いに行かなくてはならない。
大好きな先輩を探しに行く。
ロープを握りしめる僕は、自然と笑っていた。
それも当然だ。
必ずしも先輩に会えるとは限らないが、それでも彼女に近付くことは出来る。
そう考えるだけで胸が高鳴る。
恐くないといえば嘘になるが、僕はもう戻れない。
戻る気も無い。
ここには何もないのだから。
僕は最後に大きく息を吸い込み、手に力を込めた。
そして固く瞼を閉じる。
愚かなことをしているだろうか、僕は。
せめて僕を知るみんなに挨拶をしておくべきだっただろうか。
今までお世話になりました行ってきます、と。
いや、その必要はないだろうな。
最近は様子がおかしかったとか、いずれはこうなる気がしていたとか、勝手に解釈してくれるに違いない。
それよりも早く行かなくては。
先輩が待っている。
ロープを首にかけると、ひやりとした不気味な感触が伝わった。
目の前に広がる寂れた夜景も、木々のざわめきも、さっきまでとは違って現実味が感じられない。
すでに違う世界に足を踏み入れてしまったのだろう。
もういいか。
もうここに思い残すことはない。
震える足に力を込め、僕は先輩が待つ次の世界へと、跳んだ。




