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memory.Ⅶ

「だいぶ強く降って来たわね」

 先輩が部室の窓から外を眺め、そう言った。

 僕も同じように、既に暗くなってしまった部屋の外へ目を向ける。

 雨は音を立て激しく降り、すぐ近くにある木は強風にその枝を大きく揺らしていた。


「春の嵐が来たそうです」

 僕は先輩の横顔にそう語り掛けた。

「そう…」

 無表情で返した彼女が何を考えているのかを僕は知っている。


 春休みも終わり、明日からまた大学が始まる。

 各サークルによる新入生の勧誘で、構内はきっと賑やかになる事だろう。

 当然、僕たちも例外ではなく、明日は部員獲得のために勧誘をするつもりだ。

 先輩はたぶん、勧誘がうまくいくか不安に感じているのだ。

「大丈夫ですよ、明日の朝までには止むそうですから」

 僕はそう言って先輩を励ますのだが、正直なところ複雑な心境だった。


 確かに新入部員が入ってくれるのは嬉しいことだ。

 でもそれ以上に、先輩と二人きりのこの部屋は居心地が良かった。

 何をするでもなく、ゆっくりと流れる時間を先輩と過ごすのが好きだ。

 こんなことは口に出すことは出来ないが、この雨がずっと続いてくれはしないかと、僕は心のどこかで考えていた。

「それじゃあ、明日は裏庭に机とポスター、それと入部届を忘れずにお願いね」

「分かりました。誰か来てくれると良いですね」

「そうね。今日はもう遅いから帰りましょう。送っていくわ」

「ありがとうございます」



 サークル棟の外へ出た先輩と僕は降りしきる雨の中、学生駐車場へ走り、急いで車へ乗り込む。

 それでも傘を持っていなかった僕たちは一瞬のうちにずぶ濡れになってしまった。

「帰ったらすぐにシャワーを浴びるのよ」

「母親みたいなこと言わないで下さいよ」

「ふふ、ごめんね」

 先輩はそう言って悪戯っぽく笑うと車のエンジンを掛けた。


 ライトが斜めに落ちる雨粒を照らしながら、僕たちを乗せた青い軽自動車は大学を後にする。

 ワイパーが忙しなく動き、フロントガラスへ次々にぶつかる雨を拭い去るが、それでも春の嵐はすぐさま僕たちの視界を遮る。

 そのせいか、先輩の運転もいつもよりゆっくりだ。

「気を付けてくださいね」

「大丈夫よ。私、今まで事故を起こしたことがないの」

「フラグ、でしょうか」

 笑い声で満たされた車内には、またすぐに雨音だけが響いた。

 若干の気まずさを感じた僕は横目で先輩の顔を窺う。

 いつものように涼しい表情をしているが、そこには違和感があった。

 規則的に並んだ街灯が先輩の顔を順番に照らしていくのを見つめながら、僕は彼女が何を考えているのかについて想いを巡らせる。

 やはり、まだ明日の天気が心配なのだろうか。

 それにしては深く思い詰めているように見える。


「私ね」

 僕の視線に気づいたからか、先輩が口を開いた。

 考え込んでいたせいで、あまりにもじっと見つめ過ぎてしまっていただろうか。

「明日もし新入部員が入ったら、それはとても嬉しいと思うわ。そのために準備もしてきたし」

「…ええ」

「でも、どう言えばいいのかしら」

 先輩はそこで言葉を切り、次の言葉を一生懸命に選んでいるようだったが、彼女が言わんとしていることは自然と理解できた。

 きっと僕と同じことを思っているのだ。

 素直に気持ちを口に出せないのは、今までサークルを受け継いできたOB達に後ろめたさを感じているからだろう。


 それを表すように、先輩はためらいがちにまた口を開いた。

「民研を存続させようとしてきた私が、こんなこと考えるなんていけないことだって分かっているの。でも…」

「先輩、僕たちはもうサークル内だけの仲じゃないんです。約束したじゃないですか、その気になれば二人の時間なんていくらでも作れますよ。だから明日は頑張って勧誘しましょう」

「…そうね、そうよね。明日は二人で頑張りましょうね」

 先輩が安心したように笑った。


 まさか僕が何も考えていなかったとでも思っていたのだろうか。

 そうでなかったとしても、不安を感じる事なんてないのに。

 先輩、僕はあなたが思っている以上に、あなたのことが好きなんですよ。





「それじゃ、また明日ね」

 僕が住むアパートの前で、先輩は笑顔で、それでいて名残惜しそうに言った。

「はい。帰り、気を付けてくださいね」

 僕はそう答えるのだが、このまま素直に先輩と別れることに微かな抵抗を感じていた。

 それは単に彼女の寂しげな表情のせいか、それとも他の理由があったのか、僕には分からなかった。

「ありがとう。大丈夫よ」

 そう言い残した先輩を乗せた車は、少しずつ加速しながら遠ざかっていき、やがて見えなくなった。

 僕はそれを見届けてから自分の部屋へと向かう。


 部屋に入りリュックを下ろすと、先輩に言われた通りすぐに浴室へ行った。

 冷えた体に暖かいシャワーが気持ちいい。

 でも、どうしてだろう。

 何かが引っ掛かるような、妙な胸騒ぎがするのだ。

 先輩に電話をしてみようか。

 いや、もしかしたらまだ運転中かもしれない。

 それにあとで掛けるにしても、今日は先輩も明日の準備で疲れていることだろう。


 僕がこんなことを考えるのは、先輩の気持ちが分かって嬉しかったからで、少しでも離れてしまうのが寂しいせいに違いない。

 自分に言い聞かせ、無理やりに納得した僕は浴室から出たあと夕飯も食べずに布団へ入った。





 翌日、空は昨日の嵐など嘘のように晴れ渡っていた。

 いつもより早めに大学へ来た僕は、まずサークル棟へ向かい、先輩から言われていたものを裏庭へ運んだ。


 中央には小さな時計台、その前にベンチが置かれたそこは、去年僕が初めて先輩と出会ったのと同じ場所だ。

 その時は先輩が座っていたベンチへ、今日は僕が座る。

 じきに彼女もやってきて、隣に座るだろう。

 そして騒がしい表通りを避けてわざわざこんな場所を選んだ僕たちは、退屈ですねなんて言いながらいつものようにのんびりと過ごすのだ。


 勧誘の準備をしてきたにも関わらずそんな調子の僕たちを、周囲はきっと変わった人間だと思うだろう。

 しかしそれでもいい。

 僕は先輩のことを分かっているし、先輩も僕のことを分かっている。

 それで十分だ。

 もしこの場所を訪れる新入生がいたら、おそらくそれもどこか変わった人間であるに違いない。

 きっとそうやって民俗学研究会というサークルは続いてきたのだ。

 僕はそんなことを考えながら、時計台の前で一人、先輩の到着を待った。



 やがて遠くから学生達の声が騒がしく聞こえてきた。

 どうやら新入生のオリエンテーションも終わり、各サークルの勧誘が始まったようだ。

 時刻はもうすぐ十時を回る頃だ。


 先輩はまだ来ていない。

 僕の心配をしておきながら、まさか自分が風邪を引いてしまったのだろうか。

 スマホには連絡は来てないが、何かあったとしたら大変だ。

 そう思って僕は先輩に電話を掛けた。

 しかしいくら待っても彼女は出ない。

 鳴り続けるコール音に、昨夜感じた不安が蘇る。


 僕はスマホをポケットにしまうと、もう一度部室へ行くことにした。

 たしか先輩は去年と同じようにあの妙なトンガリ帽をかぶって勧誘に臨むと言っていた。

 もしかしたらそれを見つけるのに手間取っているのかもしれない。


 サークル棟の階段を駆け上がり、廊下の一番奥にある民研の部室に着くと、僕はその扉を勢いよく開けた。

 先輩はいない。

 再び電話をするが、コール音だけが虚しく鳴り続ける。

 考える間もなく、僕の足は学生駐車場へと向かっていた。

 先輩に何かがあったと聞かされたわけではない。

 それでも理由の無い不安感から、僕はたくさんある車の中から彼女の青い軽自動車を探した。


「無い…」

 いくら探しても先輩の車は見つからなかった。

 今日だけは歩いて来たのだろうか。

 そう考えた僕は裏庭へ戻ってみることにした。

 時刻はもうすぐ十一時だ。

 すれ違いで裏庭へ来ていた先輩がすでに待っているかもしれない。


『もう、どこへ行ってたのよ』

 僕を見つけた先輩は少し怒ったようにそう言うだろう。

 きっとそうに違いない。



 しかし僕のそんな幻想は、すぐさま跡形もなく消え去る。

 人気のない裏庭は普段と変わらず静かで、そこには先輩の姿も無かった。

 もう何度目になるか、スマホを確認するが先輩からの着信はない。


 何かあったのだ。

 そう確信した瞬間、体が冷えるような不快な浮遊感が僕を襲った。

 先輩は今、連絡も取れないような状況に立たされている。

 でも何があったというのか。


 どこにいて何をしているのだろうか、せめて彼女の無事だけは知りたい。

 そうは言っても電話もつながらない今、どうやってそれを確かめればいいのだろうか。


 僕は時計台の前に置いた机に手をつき懸命に気持ちを落ち着かせた。

 そうだ、まだ先輩が何かに巻き込まれたとはっきり決まったわけではないのだ。

 僕のこの不安もただの早とちりで、もしかしたら寝坊でもしてしまっているのかもしれない。

 しっかり者の先輩でも、一度の寝坊くらいはするだろう。


「はは…、先輩ってばこんな日に限って…」

 声に出して、荒唐無稽な推測を信じ込もうとするがそんなのは無意味なことくらい分かっていた。

 それでもただ信じるしかなかった。

 先輩にはなにもなかった、昨夜から続く胸騒ぎは気のせいだと。



 その時、背後から聞こえた足音に僕は咄嗟に振り返った。

「せん…」

 それが誰かを確認するでもなく開かれた口は、目の前の人物を見るや否や閉ざされる。


「ここに居たんだ…」

 そこに立っていたのは先輩ではなく、いつも一緒に授業を受けている、僕と一番仲の良い友人だった。

 少し息を切らせた様子を見ると、どうやら僕を見つけるために構内を探し回っていたようだ。


「…どうしたの、そんなに慌てて。そうだ、一条先輩を見なかった? まだ来てないみたいなんだけど」

 僕は落胆の色を隠す気も無しに、彼にそう聞いた。

 先輩とは全く面識のない彼から答えを期待していたわけではないが、誰かと話をすることで気を紛らわせることは出来ると思ったからだ。

 しかし僕の横柄な態度に対して、彼は怒るでもなく、逆に申し訳なさそうに僕を見るのだった。


 そして躊躇いがちに目を伏せてからゆっくりと口を開いた。

「…やっぱりまだ知らなかったんだ。あのね、僕もさっき先輩から聞いたんだ」

 そこで彼はまた口を噤んだ。

 その光景に、今まで抑え込んでいた不安が一気に押し寄せる。

 僕はそれ以上彼の言葉を聞きたくなかった。

 耳を塞ぎ、その場から逃げ出したかった。

 それなのに、体は力を失い動けず、息も上手く出来ない。

 視界は歪んで彼が近くにいるようにも、遠くにいるようにも感じる。


「慌てないで、落ち着いて聞いて欲しいんだ」

 彼の口の動きがやけにスローに見える。

 しかし声だけははっきりと僕の耳に聞こえていた。


 先輩が今どんな状況にいるのか。

 これから彼は、僕に告げようとしている。

 ゆっくりと動く彼の口から、やがてすべての言葉が紡がれる。

 僕は抗うことも出来ずにただ立ち尽くしていた。


「昨夜、一条先輩を乗せた車は対向車線を走ってきたトラックと」



 春の風が吹いた。

 表通りから運ばれてきた桜の花びらはひらひらと舞い、僕の目の前を通り過ぎる。

『綺麗ね』

 去年、先輩と出会ったあの日、この場所で同じように僕たちのもとへ舞い降りた花びらを見て、彼女はそう言ったのだった。

 

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