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「君が、これをやったの……?」

 今も風に揺れている輪を目の前に、僕は問いかけた。

 そうでは無いことくらい分かっていた。

 だってそのロープはたった今、僕が森の入り口にある茂みへ捨てて来たんだから。

 ただ、混乱してなにも考えられなくなった僕は、なんでもいいから詩織からの言葉が欲しかった。


「そんな、私がこんなこと、するわけないわ…」

 当然の答えを返す彼女も、やはり戸惑っていた。

「じゃあ誰がこんな…。どうして…」

 僕はまた訪れた頭痛と吐き気に、耐えきれずにその場に崩れ落ちた。

 濁流のように汗が流れ、息をするのもやっとなほどに呼吸が乱れる。

 しかしそんな僕の元へ、詩織は以前のように駆け寄って来てはくれなかった。


 背後からゆっくりとした足音が近付き、うずくまる僕の後ろで止まる。

「思い出そうとしないから、いつまでも逃げているからよ」


 聞こえてきたその言葉に、僕は咄嗟に振り返った。

 僕を見下ろす詩織はこれまでに見たことも無いくらいに冷たかったが、差し込んできた月の光が彼女の震える瞳を映した時、僕は彼女が敢えてそのように接しているのだということに気が付いた。


「まさか、やっぱりこれは君が…」

 それでもまともな思考が働かない僕は、彼女が心の奥に抱えているであろう真意を探ろうなどということもせずに、まだそんな的外れなことを言ってしまう。

「違うわ。言ったでしょ、あなたがいつまでも思い出そうとしないからって」

「…何を言ってるんだ。君が一体僕の何を知ってるっていうんだよ」

 言いながら、僕は冷徹な態度を装い続ける詩織に少しだけ腹が立ってきた。

 僕と詩織、その他には誰もいないこの島で、なぜだか蚊帳の外に追いやられたような気持ちになったからだ。


 こんなものを目の前にして苦しんでいる僕を、詩織は全てを知っているように見下ろしている。

 君は記憶を失っていて、何も知らないはずじゃないか。

 それなのに、君を救おうとしている僕をなぜこれ以上苦しめようとするのか。

 もう一度屋根から垂れ下がるロープを見てから、僕はなにもかもが嫌になって瞼を固く閉じた。

「目を背けないで。あなたはそれと向き合わなくては…」

「なんなんだよ!」

 僕は立ち上がり、屋根のもとへ走って行って固く結ばれたロープへ手を掛けた。


 もうたくさんだった。

 詩織が僕の何を知っていようが関係ない。

 僕はただ彼女の失われた記憶を取り戻したいだけだ。

 先輩を取り戻せることが出来れば、僕が忘れてしまったことなんて些細なことに過ぎないのだ。

 そうすれば、僕が忘れてしまった思い出よりも何倍も素敵な思い出が待っているに違いない。

 先輩さえいれば。

 先輩さえ……。


「あぁ!」

 やっとのことでほどいたロープを、僕は力の限り海へ投げ込んだ。

 僕の非力ではそれほど遠くには飛んでいかなかったロープは波に揺れながらゆっくりと砂浜へ戻されていく。

 その様子を見ながら息を整え、すべてを傍観していた詩織のほうへ目を向けた。

「僕はあんなもの知らない。あれを見ても思い出すことなんて何も無いし、君が言っていることもまるで意味が分からないよ」

「どうして逃げるの」

「逃げる?」


 まだ治まらない頭痛のせいか、否、詩織の言葉に図星を突かれたせいだろう、僕は自分自身で気持ちが高ぶっていくのを感じた。

 彼女の言うとおりだ。

 ロープを投げ捨てたところで僕はもう逃げられない。

 見てしまったのだから。

 あの屋根から垂れ下がった輪を。

 それはもうすでに僕の脳に焼き付いてしまったのだから。


 それなのに僕はこの期に及んで認めたくなかった。

 あんなものとは僕はなんの関係もないと。

 忘れてしまいたい記憶だけが頭の中を満たす。

 苛立ちが募り、感情を抑え込むことができない。


「君は何も知らないくせに、最近は随分と意味深なことを言うじゃないか」

「何も知らない…、わけじゃないわ…」

「じゃあ何を知ってるっていうんだよ、君は記憶を失っていて、僕の事はおろか自分のことさえ何も分からないじゃないか」

「そんなことないわ。少なくとも、あなたがあのロープを知らないわけがないってことは分かるわ。あれを拾ってきてから、あなたはとても辛そうにしてたじゃない」

「それを知っていながら、君はあんなことをしたっていうの? あんな悪趣味なことをわざわざ僕に見せつけるようにして…」

「私はやってないって言ったじゃない」

「それなら誰がやったっていうんだよ⁉ ここには僕と君しかいないじゃないか!」

「信じて、本当に私じゃないの。あなたを探しに出た時はあんなものなかったのよ」

「信じる? どんな理由で君を信じればいいんだよ。だって君は……」


 詩織のことはいつだって信じている。

 だって彼女は僕の大好きな先輩だから。

 でもどうしてだろう。

 出て来る言葉は心とは裏腹だ。

 彼女を悲しませたくない。

 それなのに。


「会ったばかりの、赤の他人じゃないか!」

「赤の他人だなんて、これまで私達、一緒に頑張ってきたじゃない」

「そうだね。でもそれはごく短い時間だ。それなのに君は僕の全てを知っているかのように振舞うじゃないか。それが僕にはとても苦痛なんだ」

「ひどいわ…」


 いつまでたっても詩織の記憶を取り戻す手がかりさえつかむことが出来ない、日ごろから感じていた焦りからか、とにかく僕は彼女に最低なことを言ってしまった。

「私はあなたを信じているのに…」

 詩織の目から涙が零れた。

 その涙にどんな意味があったのか。

 両手で顔を覆いすすり泣く詩織を前にして、僕は答えを探すこともせずにただ立ち尽くしていた。


「…ってるわ」

「え……?」

 不意に、肩を震わせ泣いていた詩織がぽつりと呟いた。

 そして指の間から覗く彼女の瞳の、その鋭さに僕は思わず金縛りのように動けなくなってしまう。


 先輩だ。

 今僕の前に立っているのは、先輩そのものだった。

 でもそんなことありえない。

 彼女は失われてしまって、今ここに居るのは記憶を失った『詩織』という女性なのだから。

 それだというのに、僕はどうしてこんなにも緊張しているんだろう。

 あるはずもない一つの可能性に、僕の鼓動は一気に高鳴る。


「知ってるわ」

 詩織はもう一度、僕に聞こえるようにはっきりと言った。


「…何を?」

「何でも。あなたの事なら何でも知ってる。そう言ったのよ」

 彼女の睨みつけるような眼差しに、僕は気圧されそうになる。

 いつだってそうだった。

 僕は先輩の一直線な目には、どうあっても逆らうことが出来ない。


 目の前の彼女が、記憶を失っていることさえ忘れてしまいそうになる。

「あのロープのことだって、全て知っているのよ」

「だから、僕はあのロープなんて知らないって…」

「まだそんなこと言うのね。どうして隠そうとするの? あなたにとってあのロープは」

「やめてくれよ!」

 それ以上詩織の言葉を聞きたくなくて、僕は大声を出した。

 これまで懸命に閉ざしていた記憶の扉がこじ開けられていく気配を感じたからだ。

 それはどうあっても開いてはいけない扉だ。


 僕が先輩を取り戻すと決めた、この場所へ来るに至った最も奥底にある記憶。

 僕の一番暗いところにしまってある、『彼女』に知られたくない、記憶。


「…ごめん、大きな声を出して。今日のことはお互いに無かったことにして、もう遅いから寝よう」

「逃げないで。あなたは思い出さなくてはいけないの」


「…まだ言うんだね。さすがに怒るよ」

「あなたが怒ろうと、私はあなたに思い出して欲しいの。たとえあなたに嫌われても、何を言われても」

「僕は何も忘れてない。忘れてるのは君じゃないか。それなのに、いつまでもそんな訳の分からい事を言って。僕の全てを知ってるなんて、でたらめなことを…」

「でたらめじゃないわ。私はあなたのことを」


「本当にやめてくれよ! 僕はもう耐えられないんだよ、君がそうやって僕を見て、僕に話しかけてきて、まるで……」

 まるで先輩みたいに。

 ここにはいない彼女のように同じ姿で、声で、あの時みたいに僕の隣に居ることが、それが本当の彼女じゃないことが辛い。

 僕にはどうすることも出来ないのが、たまらなく辛い。


「どうしてそんなに僕を気にかけるの? 君にとっても僕は会ったばかりの他人のはずじゃないか」

「それは、違うわ」

「何が違うんだよ。これまで一緒に過ごしてきたのだって、せいぜい一カ月ちょっとくらいのものじゃないか。会ったばかりの浅い関係以外に、なにがあるって言うんだ」

「私にとってはそうじゃないの。だってあなたは大切な」

「それをやめてくれって言ってるんだよ! 君がそうやって優しくしてくれるのが辛いんだ。僕は君のことなんか知らないのに、君はどうしてそんなことを言うんだ!」

「あなたがそうやって苦しんでいるのが、私にも耐えられないの。お願い、もう隠さないで」

「知らない、僕は何も知らないんだ! 君とはここで会ったばかりで、忘れていることなんて何一つない、君が思い出させようとしていることだって、僕にはこれっぽっちも心当たりがないんだ。それでいいじゃないか」


「…どうしてそんなことを言うの?」

「ここへ来たのだって突然のことで、僕がなにかをしたわけじゃない!」

「…そうじゃないでしょ?」

「だから君が何を知ってるって言うんだ! 僕は君が思っているみたいに、君の事なんか大切になんて思っていないんだ! だから必要以上に僕の心に踏み込まないでくれよ!」

「やめて、そんなこと言わないで…」


「良くも知らない君のせいで、僕は今まで苦しんできた。良くも知らない僕に、君が優しくしてくれるせいで…」

「やめて…! もう嘘をついて自分を傷つけないで」

「嘘だって? これは僕の本当の気持ちだ、何も知らない君に対する、僕の本心だよ…!」

「知ってるわよ、君の気持ちくらい。それだけじゃない、君の事ならなんだって知ってるって言ったじゃない!」

「じゃあ、言ってみてよ! 偶然会っただけの君が、一体僕の何を知ってるのか! どうせ何も答えられないくせに!」

「そんなことない! だってあなたは……」

 言い淀む詩織の表情が、まるで最後の別れを告げるかのように悲し気で、それでいてもう会えない相手に向けるように苦し気に変わった。

 僕はそれを見て、先ほどよぎった一つの可能性が正しかったのだと悟った。


「だめだ、それ以上は…!」

「あなたは…、『君』はあのロープを使って、私に会いに来てくれたんじゃない!」

 彼女を止めようと駆ける僕に衝撃が走り、再び激しい頭痛が襲った。

 これまでにない痛みに、僕は立っていることさえ出来ない。

 膝を抱え、ただ身を任せることしかできない。

 その痛みに、打ち破られた扉からあふれ出した記憶の波に、僕は抗うことも出来ずにただ耐えるしかない。


 脳を満たしていくあの日に僕の意識は入り込んでいく。

 薄れゆく視界の中で、詩織が泣いている。


 いや、彼女は『詩織』ではない。

 そうであって、同時にそうではなかった。

 最初から、彼女は僕にとって大切な人だったのだ。

 こんな時にやっと気が付くなんて。


「ごめんなさい。私、ルールを破ってしまった。これ以上君を苦しめたくなくて……」


 しかし、もう全てが終わってしまう。

 僕が何もかもを思い出した時、やっと会えた彼女との時間、どれほど願ったか分からないこの島での生活が終わりを告げる。


 抗うことなどできない。

 記憶の波は僕の意識も、目に映る彼女の泣き顔も飲み込んで僕を連れて行く。


 僕が終わり、また始まったあの日に、僕は帰っていく。

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