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 ふと、背後で足音がして僕は振り返った。


 そこに居たのは、一人の女性だった。

 腰まである長くやわらかな黒髪は風に揺れ、純白に輝くロングワンピースの袖から伸びる腕は透き通るように美しい。

 整った顔は大人びているがどこか幼くもあり、つい目を奪われてしまうような不思議な魅力がある。


 その女性は、この場所の暑さなど感じさせない涼し気な表情で僕を見つめていた。

 まるでこの世の神秘を目の当たりにするように、身動きが取れなかった。


「良かった、目が覚めたのですね」

 薄い唇がゆっくりと開き言葉を紡いだ時、僕はようやく我に返った。


「ここは?」

「分かりません。私も気が付いたらここにいたので」

「どうやってここへ来たか覚えてないんだ」

「はい…」


 女性が口惜しそうに目を伏せた。

 長いまつ毛が瞳を覆い、その美しさに僕はまた目を奪われそうになる。


「それどころか、何も覚えていないんです。自分が誰なのか、どうしてここへ来たのか」

「自分の名前も?」

「はい、不思議なことに、どうしても。あなたの名前は?」

「僕は…」


 僕は。

 僕の名前は…。


 分からない。

 どうしても思い出すことが出来ない。

 まるで虫に食われてしまったように、僕の頭の中から名前という情報が消え去っていた。


「どうしよう、僕も分からない」

「落ち着いて」

 女性はそう言って、僕の隣へ腰を下ろした。

 柔らかな風が僕の頬を撫で、それだけで自然と心が安らぐような気がした。


「私も初めは動揺しました。でもそのうちきっと思い出すわ」

「どうしてそんなことが分かるの?」

「そんな気がします」


 僕にはそうは思えなかった。

 思い出すという以前に、僕の名前は全くの未知に存在していたからだ。

 どこか別の世界に置いてきてしまったような、とにかくどこを探しても見つかることは無いということだけがはっきりと分かっていた。


「僕について、何か知ってることはない?」

「なにも。どうして私に聞くのですか?」

「…なんとなく。もしかしてと思ってさ」

「ごめんなさい。本当に何も覚えていないんです。ましてや他人のことなんて…」

「…そうだよね」

「すみません」


 女性はまた目を伏せ、申し訳なさそうに俯いた。

 僕はその様子に、ひどく胸が締め付けられた。

 それは、なにか儚げな物をこの手で壊してしまったような罪悪感に似ていた。


「でも…」

 そう言って不意に顔を上げた女性は僕を見て、柔らかく微笑んだ。

「なんだか、あなたとは初めて会ったような気がしないんです。どこかで会ったことがあるというより、懐かしいというか、落ち着くような、そんな気持ちです」

「え…」

「ごめんなさい、初対面なのに気持ちの悪いことを言って」

「そんなことないよ」

 僕が言うと、女性は恥ずかしそうに顔を赤らめ、何もない空と海の境界線を見つめた。


 だから僕も同じ場所を見つめることにした。

 隣に座る全てを忘れ去ってしまった女性と、僕は同じものを見ていたかった。


 自然と涙が溢れてくる。

 それは止めることが出来ない。

 それどころか、止めようとするほど次から次へとあふれ出て来る。


「どうしたの」

 女性が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

 僕はその目を見ることが出来ない。

 見てしまえば、僕はどうしてもこの涙を止めることが出来なくなってしまう。


「詩織」

 膝を抱え、僕は呟いた。

「え?」

「キミは…、あなたは詩織っていうんだよ」


 僕はこの女性を覚えている。

 忘れるはずがない。

 何を失っても、僕はこの人を忘れたりはしない。

 何よりも、誰よりも大切な人だから。

 だから僕はここにいるのだ。


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