13
僕の一番大切な記憶が失われてしまった。
満天の星空の下で先輩と過ごしたあの日、たった一つのあの日が失われてしまったのだ。
忘れてしまったわけでは決してない。奪われてしまった。
代わりに蘇って来たのは…、
「嘘だ、こんなことありえない…」
絶対になくしちゃいけない、僕の中にしか存在していなかった記憶が、今はもうどこにもない。
当然それは詩織の中にも残されてはいない。
「嫌だ、こんなのって…」
耐えがたい恐怖に、僕は膝を抱えて震えた。
まさか、僕は他にもたくさんの記憶を失っているのだろうか。
恐くてそれを確かめる事すらしたくない。
「どうしたの?」
覗き込んできた詩織に、先輩が最後に見せた笑顔がフラッシュバックして、僕は咄嗟に顔を背けた。
「…なんでもないよ」
「そんなわけないじゃない、震えているわ」
「違う、気のせいだよ」
「どうしてこっちを見てくれないの?」
「……ごめん、今日も先に寝るよ」
混乱して頭が上手く働かない。
こんな状況で詩織の顔を見たら、僕は全てを話してしまうかもしれないし、その前に泣いてしまうだろう。
そんなことになれば、彼女はきっと心配するに違いない。
僕に出来ることは、こうして殻に閉じこもるように、ただ体を丸めて恐れに耐えることだけだ。
「大丈夫、明日には元気になるよ」
詩織にはそう言ってやることが精一杯だった。
何より、僕自身がそうであって欲しいと思ってそれを口にした。
そうだ、先輩との思い出を覚えていないのだって、これまでの疲れが影響しているに違いない。
一晩寝れば、頭も落ち着くはず。
自分へ無理やりに言い聞かせ、僕は固く瞼を閉じた。
「恐がることなんてないのよ」
波音にかき消されそうな、詩織の囁くような声が僕の背中へ届いた。
意味深で、返事など期待していないかのようなその言葉。
昨日もそうだった。
詩織はまるで僕の全てを知っているような物言いをする。
記憶を失っているのは君じゃなかったのか。
それなのに、どうして僕がびくびくしていなくちゃいけないんだ。
君はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ。
「僕は、なにも恐れてない」
「だったら思い出すのよ」
僕の子供のような強がりは、詩織の一言に打ち砕かれた。
やはりすべてを見透かしているみたいで、それに少し怒っているようにも聞こえた。
いや、彼女は確かに僕を叱ったのだ。
どうしてなのかは知っている。
でも僕は気付かない振りをして、そのまま眠りに落ちるのを待った。
背後にあのロープの存在を感じながら。
「……っ」
僕は弾かれたように飛び起きた。
最近は夜になるとこうだ。
いつも同じ夢を見て、そして起きてみれば全身に嫌な汗をかいている。
それだけじゃない。このところ昼間も詩織の顔をろくに見ることも出来ない。
だからちゃんと話すことも出来ない。
原因は決まっている。
僕は背後の暗闇を睨みつけた。
正確にはそこに置かれたロープを。
手さぐりでたぐり寄せ、もう一度近くでそれを見た。
強く握った僕の手へ、ロープはぎしっという不快極まりない感触を伝える。
これを拾ってきてから、僕の心はこんなにも乱されてしまった。
詩織とはぎこちなく、夜はうなされている。
捨ててこよう。どこか森の中へでも。
詩織は何かに使えるかもと言っていたが幸い彼女は今、深い眠りについている。
どうにか言い訳をして、なくしてしまったことにすればいい。
それよりも、このロープの存在をはやく頭の中から消し去ってしまいたい。
逸る気持ちを抑え、僕は詩織を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、ロープを持って森の方向へ歩き出した。
この島へ来てからというもの、夜は雲ひとつない星空であったが、今日に限ってはそうではなかった。
厚い雲が空を覆い、時折月が雲間から顔を出しては砂浜を照らす。
その薄明かりを頼りに、僕は森の入り口までやって来た。
普段、泉へ水を汲みに行くときに通るのとは違う場所で、恐らく詩織はここを知らない。
ここなら茂みにでも隠してしまえば見つからないだろう。
僕は黒一色の夜の森へ向かってロープを投げ込んだ。
ガサッという音を聞き、ロープが茂みに紛れたことを確認する。
僕はそれが断末魔のようにも聞こえて、幾分か気分が晴れた。
「さて、帰ろう」
明日からはまたいつものような詩織との生活が待っている。
そう思うと共に、眠気も手伝ってか僕の足は自然と浜辺の屋根へ急ぐ。
少し歩いたところで前方から足音が聞こえてきた。
詩織だ。この島には僕と詩織以外の誰もいないのだから。
「どうしたの」
僕が呼びかけると、足音はテンポを速めながらこちらへ近付いてきた。
「心配したのよ」
やはり詩織が、表情は見えなかったが泣きそうな声で言った。
暗闇の中で、すぐそばに彼女がいることがわかる。
「ごめん、ちょっと歩きたくなったんだ」
「最近すこし様子が変だったから何かあったのかと……」
「大丈夫だよ。もう平気だ。だから明日からまた二人で頑張ろう。詩織は記憶を、僕は名前を思い出せるように」
「急に何?」
「なんでもない。ちょっと心配させちゃったと思って。帰ろうか」
「…ええ」
僕が歩き出すと、詩織も後ろへ続いた。
暗いせいか、お互いの距離は少し近いように感じる。
波音が聞こえ、遠くに僕たちの屋根が見えてきた。
晴れやかな気分で、なんだか久し振りに帰ってきたような気持ちだ。
口元が緩むのを我慢しながらさらに進んだ時、雲の切れ間から差し込む月明かりが屋根を照らした。
そこで僕は足を止める。
「きゃっ」
僕の背中にぶつかった詩織が短い悲鳴を上げたが、そんなことはどうでも良かった。
目の前の光景が信じられなかったからだ。
少し冷たい夜の風に揺れる、白。
ロープ。
たった今捨ててきたはずのそれが、屋根から垂れ下がっていた。
「どうして…?」
屋根に固く結ばれたロープ。
僕は乱れた呼吸で、その結び目からゆっくりと視線を落としていく。
そうするべきではなかったかもしれない。
しかし目にしてしまった。
ロープの先端、そこに形作られた輪を。
それは人の頭が入るには十分な大きさの輪だ。
そう、首を吊るにはあつらえたようにぴったりだ。




