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18/30

memory.Ⅵ

 …。


 十月初旬。

 年に一度の文化祭で構内は普段とは違った賑わいを見せていたが、僕たちがいる民俗学研究会だけは変わらぬ静けさで、今日ばかりはまるで外界と隔離されてしまっているみたいだ。


 そうは言っても、僕たちも何の催しもやっていないわけではない。

『地域に伝わる河童信仰』

 文化祭パンフレットに載っている民研のページにはそのように見出しがされている。

 ページの作成には僕も携わっているものの、仮にもお祭りであるこの日、我々はなんとも浮いた存在であることは否定できない。


 部室がこんなにも静かなのは、単純に来場者がいないだけ、その一点に限る。

 それでも先輩は納得がいかないみたいで「テーマがちょっとマイナー過ぎたかしら」と口に手を当てて考え込んでいる。


 そうではないのだ。

 僕は部屋に置かれた発表用のパネルを眺めながら、心の中で先輩に告げる。


 『民俗学研究会による地域に伝わる河童信仰に関する報告』

 この字面を見た人間が、わざわざ外の賑やかさから抜け出してやって来るだろうか。

 テーマが一般向けじゃないだとか、内容がつまらないとかそういうことではない。

 僕たちのこの場所が、文化祭にそぐわないのだ。


「はぁ」

 先輩の憂いに満ちた溜息を聞いてもなお、人の来ない理由を声に出して伝えることなど僕には出来ない。


 昼時を過ぎた今は午後2時30分、もちろんこの時間まで一人も来なかったわけではない。

 午前11時頃だっただろうか、一組のカップルがこの部屋の扉を開けた。

 人気のない静かな場所を探して迷い込んできたのだと思う。

 入るや否や、それまで満面の笑みを湛え談笑していた二人は、来るべき場所を間違えたという様子で表情を強張らせたのだ。


「パンフレットを見てくれたのですね」

 二人がオカルトに興味があると信じて疑わなかった先輩はそのまま彼らを椅子に座らせ、嬉々とした表情で河童の説明を始めた。

 約30分の発表の後、二人はひどくげんなりして部屋を後にしたのだが、その時、息が上がるほどに熱く語り、煌々と瞳を輝かせていた先輩がハッとしたように表情を曇らせたのを、僕は見てしまった。


「はぁ」

 何度目になるか、僕の隣から聞こえてきた。

 長く伸びたまつ毛は悲し気に伏せられた目を覆い、微かに開かれた口からは淡い吐息が盛れている。

 机の角を見つめる彼女はきっとどこも見ていなくて、僕の視線にも気が付いていないのだろう。


 真っ直ぐで、そのせいで時折深く悩んでしまう先輩。

 先輩のために、僕が出来ることはないのだろうか。


「調査、楽しかったですよね。いろんな文献を読んで、聞き込みをして、たくさんの河も巡って」

「…ええ、楽しかったわ。とても」

 光を失った瞳は、まだ虚空を見つめたままで静止している。

「僕、河童のことなんか何も知らなかったのに、すっかり詳しくなっちゃって…」

 まるでそこだけ時間が止まってしまったように動かない先輩に、誰の言葉も届かない気がして僕は黙ってしまった。

 部屋を満たす静寂が僕の無力を表していた。


「夏休み前、■■君が言ってくれたこと」

 それは独り言みたいにか細かったが、確かに僕へ向けられていた。

 機械のように淡々とした声の中に僅かな揺らぎがあったのだ。

「僕が夏休み前に言ったこと、ですか」

「君がここへ来るのは私がいるからって、そう言ってくれたわ」

「あ、あぁ…」

 当然忘れていたわけではない。

 むしろ忘れたくても忘れられない位に覚えている。


 僕が決死の覚悟で先輩へ伝えた想いは、ただの励ましの言葉として受け取られたとばかり思っていたが、まさか今さらそれを掘り返されるなんて。

「あれは忘れて下さいと…」

「ずっと考えていたの。君は本当に私のことを、ただ先輩として慕ってくれていたからあんなことを言ってくれたのかしら」

「…どういう意味でしょうか。冗談、で聞いてるんですよね…?」


 たまに、というか先輩はしばしば突拍子もないことを言って僕の反応を楽しむことがあった。

 今のだって、沈んだ気持ちを紛らわすために僕を軽くからかったに違いない。

「やだなぁ先輩、勘弁してくださいよぉ」

 頑張っておどけて見せるが、いつもなら優しく笑いかけてくれるはずの先輩はこちらを向いてさえくれない。


 やがてさらに暗く表情を曇らせる先輩に、僕は急いで声をかけようとするのだが、

「なんだ、もっと面白い反応を期待していたんだけど流石に慣れちゃったかしら」

 向けられた微笑みはなんとも悲痛な、涙さえ流していなかったものの泣き顔のように悲し気で、僕はなんてことをしてしまったのだろうと酷く胸が痛んだ。


 たぶん先輩は待っていたのだ。

 恐らく夏休み前のあの日から、僕が必死に隠している心の奥、そこに抱えている本当の気持ち。その正体までを先輩が気付いているかは分からない。

 しかし彼女は待っていた。


 それならこの場で正直に言うべきだろうか。

 僕がどれだけ先輩のことが好きなのかを、言ってしまっても…。

 もし全てが僕の勘違いだとしても、先輩はそんな僕をいつものように笑ってくれるくれるのだろうか。


「先輩」

「ん?」

 常に心の安定を、何より先輩との関係を壊したくないがために逃げ続けてきた、ここが僕の正念場だ。


「僕は、たとえ一人でも民研を存続させようと、この場所を守ろうとしていた先輩のことを素敵だと、そんな先輩と一緒だからここへ来ると、そう言いました」

「え、ええそうね。もういいわよ、なんだかまた恥ずかしくなってきたわ」

「あの時は回りくどい言い方になってしまいましたが、今日はちゃんと言います」

「えっと…。そっか、いつもからかわれているからって、その仕返しをするつもりね。甘いわよ、もう気付いてしまったわ」

「違うんです、聞いて下さい」

 僕は早口で話す先輩を制し、心を決める。


 握った手に汗が滲み、心臓はうるさいほど音を立てて鼓動している。

 うまく息をすることも出来ない。


「…なに?」

 先輩の視線が僕を射抜いた。

 それは威圧感さえ覚えるほどに鋭かったが、そんな目が僕は好きだった。

 恐い位に真剣な、曇りの無い瞳。

 オカルトを、目に見えず手に触れられない何かを追う時の、それが僕に向けられている。


 僕の気持ちを探っているのだろうか。

 でもそんな必要はない。

 そうせずとも、これから僕が伝えるのだから。


「先輩はあの時の言葉を、僕があなたを先輩として尊敬しているという意味で捉えたのかもしれません。でも違うんです」

「……」

「はじめこそ良く分からないままこのサークルに入ったかもしれません。何度も悩みました。何をするにも真っすぐで、隠された熱さがあって、…綺麗で、そんな完璧な先輩と一緒にいて良いのかと」

「…うん」

「でも分かったんです。深く傷ついて悩む先輩の姿を見て、あなたが持っている弱さも。それを僕に見せてくれたのは嬉しかったです。でも辛かった。周りに理解されずにさらに傷ついていくあなたを見るのが、なにより僕が力になれないことが…」

 それでも僕は先輩のことを知りたかった。

 そうすることで、僕にも先輩のために出来ることが見つかるかもしれないと思ったからだ。


「だから僕はここへ来るんです。先輩の苦しみを他の誰より理解したくて。そして笑って欲しいと思ったんです。尊敬する先輩が喜んでくれるなら僕は…。いえ、僕は先輩のことをはじめから……」


 心に決めたはずの言葉が出てこない。

 ここまで来てしまったら、あとは言うだけではないか。

 ずっと押し殺していた、飾りようのない気持ち。

 先輩から向けられる、ひたすらに一直線な視線。

 僕はそれに応えなくてはいけない。


 思考が追いつかないまま、胸の奥からせり上がって喉をこじ開け出てきた言葉、僕が先輩へ伝えた言葉。それは…、


「素敵な…人だと…」


 僕は情けないやつだ。

 こんな土壇場で、一生に一度ともいえるこの場面で、一握りの勇気も振り絞ることも出来ないのだ。

 後悔、なんて言葉じゃ足りない。

 出来ることならほんの数秒前に戻りたい。


 でもそんなことあり得る筈もない。

「そう…、ありがとう。この間も、そんなことを言ってくれて。嬉しいわ」

「…すみません…」

 謝ったのは不甲斐なさからか、僕と向き合ってくれた先輩に対してか。

 良く分からない。

 ただ、僕は本当に救いようがない馬鹿な選択をした。


「もう3時ね。あと1時間で構内の出店も閉まってしまうわ。せっかくだし、一緒に見て回らない? 友達がクレープ屋をやっているの。そこへ行きたいわ」

「…え?」

 立ち上がった先輩は、自責の念に沈む僕の表情などまるで関係が無いかの様に明るく微笑んだ。

 そして僕に背を向けるように扉の前へと歩いていく。

 僕にはとても付いて行く気にはなれない。

 今の僕と一緒に居ても、先輩はきっと楽しめないだろう。


 断ろう。それくらいの勇気はあるはずだ。

 僕が口を開いたその時、

「あのね」

 先輩が立ち止まり、僕に背を向けたまま言った。

「君の気持ち、凄く嬉しかったわ。なんて言い表せばいいのか分からないくらいに。だってあんなに真剣な顔で話すんだから。だから私も応えないといけないわよね。真っ直ぐな君に、真っ直ぐな私の気持ち」


 訪れた静寂は、いったいどれほど長く感じたことだろう。

 しかし僕に言うべきことは何もない。

 夏休み前のあの日と同じ、ただ彼女の言葉を待つだけだった。

 先輩として慕ってくれたことに対する、感謝の言葉を。


「私って、何かあるとすぐに落ち込んでしまうでしょ? 周りの目を気にして、それでいちいち傷ついて。■■君には気付かれないようにしていたつもりだけど、それでも君は私を励ましてくれた…」

「…良いですよ、そんな」


「君は自分が力になれないだなんて言ったけど、そんなことないわ。知らないだけで、君はどれだけ私の力になってくれたか。今だって、こうして文化祭を迎えることが出来たのも…、いえ、違うわね、そんなことを言いたいんじゃなくて…」


 先輩は必死に言葉を選んでいるようだった。

 それが真面目な彼女なりの、僕に対する礼儀なのだろう。



「私もね、君と同じなの。君のこと、とても『素敵』だと、思っているわ。たぶん4月のあの日、裏庭で一人待っていた私を見つけてくれた時から、今日のこの時まで、ずっと君は私を見ていてくれた。私の本当を見てくれていたのよね。ありがとう、嬉しかったわ」

「……」


「もう一度言うわ。君は私にとって、誰よりも素敵な人よ」

 そう言った先輩がどんな顔をしていたのかは分からない。

 だが真っ赤に染まった彼女の耳を見て、僕は全てを理解した。


 ちゃんと伝わっていたのだ。

 こんなにも臆病で、意気地の無い僕の言葉は伝わっていた。

 それに先輩は応えてくれたのだ。

 こんな時、どんな顔で、どんなことを言えば良いのだろう。

 体に力が入らず、僕は立ち上がれない。


「そ、それより、早く行かないとお店が閉まってしまうわ。それとも、そんな気分じゃないかしら」

 少しだけ不安げに、先輩がゆっくりと部屋の扉を開けた。

 一人で行かせるなんて、そんなことは出来るはずがない。

「いえ、行きます。行きたいです、先輩と一緒に」

 頭が真っ白なまま、先輩の言葉に引っ張られるように立ち上がる。


 そして先輩の後を追いながら、僕は考える。

 これから、明日から、そしてその先、先輩とどんなことを話そう。

 でも心配はいらない。

 やっとお互いの心が通じ合うことができたのだ。

 話すことなど、時間がいくらあっても足りないくらいにある。

 これからずっと………。





 …………。







「コーヒー、もう一杯どう?」

 隣に座る先輩が尋ねる。


 十二月中旬、僕たちは以前訪れた山へ再びやって来た。

 凍えるような冬の夜、輝く星の下で先輩と僕は並んで腰を下ろしている。


「大丈夫です。もうお腹がいっぱいになるほど御馳走になりましたから」

 僕はそう言って、水筒を差し出す先輩に答えた。

「そ、そう…。そうよね」

 そそくさとリュックに水筒をしまい込む先輩は、さっきからこんな様子でそわそわと落ち着きがない。


 その理由を、僕は知っている。

 これまで先輩とは、現地調査と称して遠出をしたり、文献調査と称して映画を見に行ったりした。

 互いに口には出さなかったが、それらはまごうことなくデートと呼ぶべきものだろう。

 今夜僕たちがここへ来たのも春に行った野外調査と変わりないが、あくまでそれは表向き、建前でしかない。

 星の綺麗な空、二人で過ごすには最高の夜だった。


 今日、ちゃんと伝えよう。

 やけに落ち着いた気持ちで、僕は思った。

 先輩と一緒にいることが当たり前で、つい先延ばしにしてしまっていた。


 迷いはない。

 僕がいつも想っていることを口にするだけだから。

 たぶん先輩もそのことを分かっている。

 だからこんなにも落ち着きがないのだ。

 もしかしたら僕は心のどこかで緊張していて、それが伝わってしまっているのかもしれない。

 しかしそんなのは些細なことだ。


 僕は見上げた星空からゆっくりと視線を落とした。

「あ、チョコレートも持ってきたの、良かったら……」

「先輩、好きです」

「えっ、あっ…」

 突然に告げられた先輩は慌ててチョコレートを落としてしまった。


 僕はそれを拾い、先輩へ差し出す。

「ずっと言えなくてすみませんでした。言うなら今日が良いと思って」

「…いきなり過ぎるわ…」

 顔を背けながらチョコレートを受け取る先輩を、僕は愛おしいと思った。


「ずっと待ってたのよ。今までいくらでもあったじゃない、こんな機会なんて」

「すみません」

 僕はそう言ったのだが、先輩はふてくされたように膝へ顔をうずめた。

 きっと照れているのだ。

 僕だってそうだ。

 やっと言えたものの、寒さなど忘れるほどに顔が熱い。


「…嬉しいわ。ちゃんと伝えてくれて」

「随分とかかってしまいました」

「私も好きよ、■■君のこと。ねぇ、もう一回言ってよ」

「嫌ですよ、恥ずかしい。今度どこかへ出かけた時にまた」

「それなら、これからもいろんな所へ行きましょう。そのたびに君は私に告白するのよ」

「なんですかそれ」

「ふふ」

 先輩が笑うと、浮かんだ白い息は深い闇の中へ消えて行った。


「いろんな所へ行きましょう。これから先も、ずっと」

「分かりましたって」

「約束して。君が初めて私に好きだと言ってくれた今日だから、いいでしょ?」

「わざわざそんなこと……」

「お願い」


 星たちに負けない輝きで、先輩の煌めく瞳が僕を見た。

 僕は先輩のその目に逆らうことが出来ない。



「分か…ました。僕はこ……らも、先輩………と一緒で…。どんな事………僕…先…………です」


「嬉………。私……約束……………。ど…………………、…が…………あっ……………諸……。……対……ね」


「………す……」


「…………」


「…」


「」


「」






 ……………………。

 




「それじゃ、また明日ね」


 先輩の笑顔。


 覚えきれないほどたくさん見た笑顔。


 でも僕は知っている。

 これは僕が最後に見た先輩の笑顔だ。


 僕はどうしてこんなことを思い出しているのだろう。


 先輩を乗せた青い車が遠ざかっていく。


 止めなくちゃ。

 先輩が行ってしまう。





 ………………………………。






「慌てないで、落ち着いて聞いて欲しいんだ」




 ……。

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