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「そんなわけで、その時は僕の気持ちをうまく伝えることが出来なかったんだ」
僕は遠くの空を見ながら、あの日のことを話した。
詩織の顔を直接見ることが出来なかったのは、先輩との思い出を明かすのが恥ずかしかったからだ。
でもこれで僕が先輩のことを思い出すことに対して、詩織が罪悪感を覚える必要はないということが伝わっただろうか。
静かに揺れる波の音が響く中、無言で聞いていた詩織の口がゆっくりと開いた。
「たぶん、あなたの気持ちはちゃんと伝わっていたと思うわ」
「…どうしてそう思うの?」
遠くで流れる雲を目で追うふりをしながら、僕は詩織の返事にどこか期待してしまっていた。
「だって、その人はあなたの微妙な様子の違いにも気が付けるほどに、あなたのことをよく見ていたのよ。あなたが何を伝えたかったのかぐらい分かっていたんじゃないかしら」
「まさか」
「照れくさかったのよ、あなたからいきなりそんなことを告げられて。だから先輩として慕われているってことにしたんだと思うわ」
「そうかなぁ…。だとすれば、僕が鈍かっただけってことになるけど」
「ふふ、そうね」
そう言って詩織が先輩みたいに僕に笑いかけた。
まるであの時の気持ちを先輩から打ち明けられたみたいで、なんだかむず痒い気持ちになった。
「ため池を見に行こうか。魚が入っていると良いんだけど」
「ええ、行きましょう」
ふふ、とまた笑って立ち上がった詩織には、恐らく僕の気持ちなんて見透かされていたのだろう。
彼女に先輩との共通点を見つけるたび、僕は詩織が記憶を失ってしまっているということを忘れそうになる。
屋根から少し離れた場所に作ったため池に、僕たちはなるべく足音を立てないようにゆっくりと近寄る。
そして恐る恐る中を覗き込んだ。
「入ってるわ、それも4,5匹はいるんじゃない?」
耐えきれずに声を出してしまった詩織に、ため池の魚は驚いたように泳ぎ回った。
その中には食べるには十分すぎるほどの大きさのものもいて、僕のテンションも大きく跳ねあがる。
「逃げないうちに入り口を塞ごう」
「分かったわ」
「焦らないで……ん?」
波が水を送り込むため池の入り口にそれはあった。
耐えがたい不快感に、立ち止まった僕は体の震えを抑えることが出来ない。
「ロープ…ね」
詩織はそう言って、ゆらゆらと挑発するように漂うそれを拾い上げた。
水を滴らせるその白いロープは、ホームセンターなどでもよく見るナイロン製のものだ。
長さは3メートルほどだろうか、詩織が拾い上げた後でもなお、僕の目の前でそれは不快に揺れる。
「う…っ」
込み上げる吐き気に、僕はその場に膝から崩れ去った。
「ちょっと、大丈夫⁉」
ロープを投げ捨て駆け寄って来る詩織を手で制し、乱れた呼吸を整える。
噴き出してくる汗が砂の上に落ちては染み込んでいく。
鼓動はまだ高く鼓動し、今にも弾けそうだ。
「だ、大丈夫、少し眩暈を起こしただけだ」
やっとのことでそう伝えて、霞む目で僕はもう一度そのロープを見た。
懸命に閉ざしていた記憶の扉がこじ開けられていく。
嫌だ。
それだけは思い出したくない。
それだけは…。
割れるような頭の痛みに、僕は身を縮めて耐えた。
どろりとした気持ちの悪い記憶の波が押し寄せ、痛みは徐々に強まっていく。
「嫌だ…」
気を失いそうな激痛の中、不意に背中へ添えられた手がそれを払った。
「落ち着いて」
顔を挙げた先には暖かな眼差しで見つめる詩織がいた。
僕は優しさに満ちたその表情の中に、先輩の面影を見る。
背に感じる柔らかさに癒されて、冷静さを取り戻した僕は理解する。
「…これは罰だ」
詩織に先輩の思い出を話した僕は、恐らくルールを逸脱したと判断された。
不自然に流れ着いたロープはきっとそのことに対する警告に違いない。
彼女の記憶に繋がる手がかり。
それを僕は与えてしまった。
「もう平気?」
詩織が僕の顔を覗き込んで心配そうに聞いた。
「うん、ちょっと陽ざしにやられたみたいだ。詩織が水を汲んできてくれたおかげで落ち着いたよ」
「そう、良かった」
僕が言うと、詩織は安心したように息を吐いた。
暗くなった空の下、僕たちの前では緩やかに火が揺れ、その周りを枝に刺した魚が囲っている。
申し訳ないことに、僕が屋根の下で休んでいる間に詩織がすべてやってくれたのだ。
あれほど痛んだ頭も、おかげで今はすっかり良くなった。
「ごめんね、全部任せちゃって」
「良いわよ。あなたがいきなり倒れちゃって、なんとかしなくちゃって思って。ここには私たちの二人だけしかいないんだもの、あなたを助けるためならこれくらいなんでもないわ」
「ありがとう。なんだか照れるな」
僕はそう言って詩織に微笑んだ。
でもそれは自分でも分かるほど引きつった笑顔だったと思う。
その理由は僕たちの背後、屋根の横に置かれたロープのせいだ。
何かに使えるかもしれないと、詩織が持ち帰って来たのだ。
僕はそれをわざわざ捨ててくるように言うことなどできなかった。
「やっぱりまだ調子が良くない?」
詩織がそう聞くので、僕はこれ以上彼女に心配を掛けないように極力ロープの存在を忘れるように努めた。
「大丈夫だよ。もうすっかり良くなったから心配しないで」
ロープはそのうち詩織に気付かれないようにどこかへ捨ててこよう。
本当は今すぐにでも火の中へ投げ込んでしまいたいけど。
気が付けば僕は何も言わず焚火を見つめていたが、それでも詩織も気を遣って同じように横にいてくれた。
僕に向けられる優しさが嬉しかったが、今日は詩織に頼りっぱなしだ。
彼女の不安を拭い去るためにも、なにか話して僕が元気であるということを伝えなくては。
「この島は何もないように見えて、毎日いろんなことが起こるね」
「ええ、まるで誰かが私たちに用意してくれたみたいに」
その言葉にどきっとした僕は急いで別の話題を探したが、詩織は追い打ちをかけるようにこう言った。
「ねえ、あなたが昼間に話してくれたそのあと、あなたは彼女とどうやって結ばれたの?」
「そ、それは…」
そのことについて話すことはできない。
話してしまったら、今度こそ僕はこの島にいられなくなってしまう。
炎を瞳に映し、期待するように見つめて来る詩織に胸を痛めながら僕は伝えた。
「ごめん、その時のことはよく覚えてなくて。すごく緊張してたからかな」
もちろんそんなのは嘘だ。
僕があの時のことを忘れるはずがない。
忘れる、なんて言葉が陳腐に思えるほどに、僕の一部として生きる記憶。
誰にも奪えない思い出。
思い起こせば、いつだって僕の心に心地よい熱をくれる。
そう、今だって。




